釈道安2 道安サマリー
他の人物でやる気はないが、
この時代を代表する僧の一人である。
となれば、この作品がカバーしている
範囲外の生涯についても、
ざっとでも紹介はしておくべきだろう。
ついに師匠に認められた釈道安、
その後
当時のトップ僧侶、
二人はすぐにお互いを認め合ったようで、
あっという間にマブになった。
しかし、当時は
鄴周辺は政変に継ぐ政変状態であった。
難を逃れるため移動して回り、
その道中で信者を多く獲得していった。
45 歳となった時、鄴に帰還。
石虎が死に、内乱の末冉閔が帝位につく。
このとき釈道安は
寄寓していたのだが、
ここに別種の脅威が迫る。
なので釈道安は南下を決意。
目指すは
一方で
この頃には、のちに東晋末仏教の
第一人者たる
釈道安の弟子になっていたようである。
襄陽に到着した釈道安、
腰を落ち着けるなり研鑽活動を再開。
そこに、別口からも支援が飛んできた。
送られてきたものは
ことごとく豪華極まりない。
そしてこれら豪壮な寄進の中にあっても、
釈道安は冷静に、
最も徳高き寄進物を見抜くなどの
鑑識眼を示し、周囲を敬服させていた。
そしてこの頃、
当代一流の文人である。
その才能と釈道安は大いに共鳴、
多くのやり取りをかわし、
満を持して直接出会ったときには
「四海の習鑿歯です」
と自己紹介を受ける。なので釈道安も
「彌天の釈道安です」
と返し、そのやり取りの見事さに、
周辺の人間は感嘆したそうである。
後に習鑿歯は謝安に
「釈道安様マジパネーっす!」
と言った手紙を書いている。
郗超もまた、
釈道安に入れ込んでいた一人だ。
その入れ込みぶりは
世説新語にすら残されているほど。
こちらをご参照いただきたい。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054888343830
襄陽に十五年ほどいた釈道安。
やがてそこに苻堅が攻めてくる。
朱序が善戦するも最終的に襄陽は陥落、
こうして朱序や習鑿歯らとともに、
釈道安は苻堅の元に連れ去られる。
このとき苻堅は側近の
「朕は十万の軍で襄陽を取ったが、
得たのは1.5人だな!」
と言っている。
えっ誰と誰ですか?
と権翼が聞くと、苻堅は答える。
「釈道安と、習鑿歯だよ。
習鑿歯は足が悪いから
半人前扱いとなるのだ」
えっ……
すごい差別発言ですよねそれ……
ていうか朱序さん、
カウントされてませんかそうですか……
そのせいで
って叫ばれちまったんじゃねえの?
ともあれ長安に連れられた釈道安、
そこで大きな寺を任されたそうである。
ところで釈道安より前の仏僧は
俗姓を捨てると師匠の姓を引き継ぐのが
通例であったが、
「いや我々は釈迦の弟子だろ」
と釈道安、釈姓を選択。
以降、僧侶たちは釈姓を取るのが
通例となったそうである。
そういや確かに前話で
師匠の名前あがりませんでしたね。
あんた実は師匠のこと嫌いだったろ。
その後苻堅は釈道安と
よく語らうようになった。
そして、話は淝水前夜へと
繋がっていくわけである。
後為受具戒,恣其遊學。至鄴,入中寺,遇佛圖澄。澄見而嗟歎,與語終日。眾見形貌不稱,咸共輕怪,澄曰:「此人遠識,非爾儔也。」因事澄為師。澄講,安每覆述,眾未之愜,咸言:「須待後次,當難殺崑崙子。」即安後更覆講,疑難鋒起,安挫銳解紛,行有餘力,時人語曰:「漆道人,驚四鄰。」
後避難潛于濩澤。太陽竺法濟、并州支曇講,『陰持入經』,安後從之受業。頃之,與同學竺法汰俱憩飛龍山,沙門僧先、道護已在彼山,相見欣然,乃共披文屬思,妙出神情。安後於太行恒山創立寺塔,改服從化者中分河北。時武邑太守盧歆,聞安清秀,使沙門敏見苦要之。安辭不獲免,乃受請開講,名實既符,道俗欣慕。
至年四十五,復還冀部,住受都寺,徒眾數百,常宣法化。石虎死,彭城王嗣立,遣中使竺昌蒲請安入華林園,廣修房舍。安以石氏之末,國運衰危,乃西適牽口山。迄冉閔之亂,人情蕭素,安乃謂其眾曰:「今天災旱蝗,寇賊縱橫,聚則不立,散則不可。」遂復率眾入王屋、女休山。頃之,復渡河依陸渾,山栖木食,修學。俄而慕容俊逼陸渾,遂南投襄陽,行至新野。謂從眾曰:「今遭凶年,不依國主,則法事難立。又教化之體,宜令廣布。」咸曰:「隨法師教。」乃令法汰詣楊州,曰:「彼多君子,好尚風流。法和入蜀,山水可以修閑。」安與弟子慧遠等四百餘人渡河,夜行值雷雨,乘電光而進。前行得人家。見門裏有二馬,□之懸一馬篼,可容一斛,安便呼「林佰升」。主人驚出,果姓林,名佰升。謂是神人,厚相接待。既而弟子問何以知其姓字,安曰:「兩木為林,篼容佰升也。」
既達襄陽,復宣佛法。初經出已久,而舊譯時謬,致使深義,隱沒未通,每至講說,唯敘大意轉讀而已。安窮覽經典,鉤深致遠,其所注『般若道行』、『密迹』、『安般』諸經,並尋文比句,為起盡之義,乃析疑甄解,凡二十二卷。序致淵富,妙盡深旨,條貫既敘,文理會通,經義克明,自安始也。自漢魏迄晉,經來稍多,而傳經之人,名字弗說,後人追尋,莫測年代。安乃總集名目,表其時、人,詮品新舊,撰為『經錄』。眾經有據,實由其功。四方學士,競往師之。時征西將軍桓朗子鎮江陵,要安暫往,朱序西鎮,復請還襄陽。深相結納。安以白馬寺狹,乃更立寺,名曰「檀溪」,即清河張殷宅也。大富長者,並和贊助,建塔五層,起房四百。涼州刺史楊弘忠送銅萬斤,擬為承露盤。安曰:「露盤已託汰公營造,欲回此銅鑄像,事可然乎?」忠欣而敬諾。於是眾共抽捨,助成佛像。光相丈六,神好明著。安既大願果成,謂言:「夕死可矣。」
符堅遣使送外國金箔倚像,高七尺,又金坐像、結珠彌勒像、金縷繡像、織成像各一尊。每講會法聚,輒羅列尊像,布置幢幡,珠珮迭暉,烟華亂發。使夫升階履闥者,莫不肅焉盡敬矣。有一外國銅像,形製古異,時眾不甚恭重。安曰:「像形相致佳,但髻形未稱。」令弟子爐治其髻,既而光焰煥炳,耀滿一堂。詳視髻中,見一舍利,眾咸愧服。安曰:「像既靈異,不煩復治。」乃止。識者咸謂安知有舍利,故出以示眾。
時襄陽習鑿齒鋒辯天逸,籠罩當時。其先籍安高名,早已致書通好,曰:「承應真履正,明白內融,慈訓所兼照,道俗齊蔭。自大教東流,四百餘年,雖蕃王居士,時有奉者。而真丹宿訓,先行上世,道運時遷,俗未僉悟。自頃道業之隆,咸無以匹,所謂月光將出,靈鉢應降。法師任當洪範,化洽幽深,此方諸僧,咸有思慕。願慶雲東徂,摩尼迴曜,一躡七寶之座,暫現明哲之燈。雨甘露於豐草,植栴檀於江湄。則如來之教,復崇於今日;玄波溢漾,重蕩於一代矣。」文多不悉載。及聞安至止,即往修造。既坐,稱言:「四海習鑒齒。」安曰:「彌天釋道安。」時人以為名答。齒後餉梨十枚,正值眾食,便手自剖分,梨盡人遍,無參差者。高平郄超遣使遺米千斛,修書累紙,深致慇懃。安答書云:「捐米千斛,彌覺有待之為煩。」習鑿齒書與謝安書云:「來此見釋道安,故是遠勝,非常道士,師徒數百,齊講不倦。無變化伎術,可以惑常人之耳目;無重威大勢,可以整群小之參差。而師徒肅肅,自相尊敬,洋洋濟濟,乃是吾由來所未見。其人理懷簡衷,多所博涉,內外群書,略皆遍睹,陰陽筭數,亦皆能通,佛經妙義,故所遊刃。作義乃似法蘭、法道,恨足下不同日而見,其亦每言思得一敘。」其為時賢所重,類皆然也。
安在樊沔十五載,每歲常再講『放光般若』,未嘗廢闕。晉孝武皇帝,承風欽德,遣使通問,並有詔曰:「安法師器識倫通,風韻標朗,居道訓俗,徽績兼著。豈直規濟當今,方乃陶津來世。俸給一同王公,物出所在。」時符堅素聞安名,每云:「襄陽有釋道安,足神器,方欲致之以輔朕躬。」後遣符丕南攻襄陽,安與朱序俱獲於堅,堅謂僕射權翼曰:「朕以十萬之師取襄陽,唯得一人半。」翼曰:「誰耶?」堅曰:「安公一人,習鑿齒半人也。」既至,住長安五重寺,僧眾數千,大弘法化。初魏晉沙門依師為姓,故姓各不同,安以為大師之本,莫遵釋迦,乃以釋命氏。後獲『增一阿含』,果稱四河入海,無復河名。四姓為沙門,皆稱釋種。既懸與經符,遂為永式。
安外涉群書,善為文章。長安中,衣冠子弟為詩賦者,皆依附致譽。時藍田縣得一大鼎,容二十七斛。邊有篆銘,人莫能識,乃以示安,安云:「此古篆書,云魯襄公所鑄。」乃寫為隸文。又有人持一銅斛於市賣之,其形正圓,下向為斗,橫樑昂者為升,低者為合,梁一頭為籥,籥同黃鍾,容半合,邊有篆銘。堅以問安,安云:「此王莽自言出自舜,皇龍戊辰,改正即真。以同律量,布之四方,欲小大器鈞,令天下取平焉。」其多聞廣識如此。堅敕學士內外有疑,皆師於安。故京兆為之語曰:「學不師安,義不中難。」
(高僧伝5-2_為人)
読んだ感じだと、
まぁ、この時期の僧侶については、とりあえず仏図澄→釈道安→慧遠or
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