月の象

もげ

月の象

 見上げると、世界にぽっかり穴が開いていた。

 蠢く闇の中に針の目のような穴があき、そこから黄色い光が染み出して来たかと思うとそれが徐々に広がってまんまるい穴になった。

 閉ざされた暗い世界に一筋の救いの光を投げかけているようだった。

 傾けた杯に丸い穴が映って揺らぐ。彼はその光ごと酒を飲む。

「綺麗な月ですね」

 突然、背後から声がかかった。凛とした鈴の音のような声だ。

 彼はゆっくりと振り返る。闇の中で光を帯びた人影を捉えた。

 ここは彼の庭であり彼の山だ。ましてやこんな夜中に他の人がいるなんてほとんどあり得ないことだった。

「もしかしてプロフェッサー・ヒビキではありません?」

 光の人は、そう言った。確かにそう呼ばれている時期もあった。

「…いかにもそうだが…あなたは…?」

 彼女は優雅な仕草で一礼をすると、失礼、と言って彼の近くに腰を下ろした。

 隣に来ると、彼女の金色の髪と青い瞳が目に入った。もしかして天女だろうか?

「お邪魔をしてしまって申し訳ありません。わたくしエレーナ・クロベと申しますわ」

 天女にも名前があるのかと思い掛けたその時、その名前に心当たりがあることに気づいた。

「クロベ…ああ、この前転勤して来なすった」

「ええ、オサム・クロベはわたくしの主人です」

 彼は得心して一つ頷くと、もう一度新円の月を見上げた。

「めずらしいねぇ、外から人が来るなんて」

 その言葉に彼女は小さく笑った。

「ええ、主人は日本史家なんです。だからずっとここに来たがっていたんですわ」

 ヒビキはほう、と声を漏らした。

「あなたの言葉はホームのものだね?ご主人ももしやホーム出身なのかな?」

 エレーナはええ、と微笑みながら頷いた。

「それは驚いた、珍しいこともあるもんだね。ホーム出身者が地球に赴任なんて」

「ええ、ずっと希望を出していましたから。本当に長い時間待って、やっと今回決まったんです」

 それはうれしそうに、彼女はそう言った。

 時は宇宙年代。人類が地球を飛び出して宇宙に出てから幾許かの時間が流れていた。

 人類が居住可能な星や人口惑星に、人々はホームという居住空間を作り、第二、第三の地球として生活をしていた。

 生活空間が広がるにつれて地球出身者は減り、ホーム生まれホーム育ちの人口が圧倒的に増えていた。

 しかし、全人類の故郷である地球は全ての人類の憧れであることには変わりはなく、ホーム出身者からの永住希望は後を絶たなかった。

 だが地球が受け入れられる人口には限りがあり、また地球自体の耐久可能性を考えると、その受け入れを厳しく制限するほかなかった。

 したがって、純粋なるホーム出身者が地球に永住、および赴任することは極めて珍しいことであった。

「ご主人のルーツは日本なんだね。元は黒部さん、かな」

 エレーナはうふふ、と笑った。笑顔の綺麗な人だ。

「プロフェッサー・ヒビキは天文学者なのだとか?」

「ええ、天文学者なんて絶滅危惧種でしょうが。宇宙はもはや天ではありませんからね。今ではすっかりただののんべぇですよ」

 片手に持った杯をかざしてヒビキはおどけた口調で言った。

「でもロマンチックじゃありません?天文学って素敵な響きですわ」

「ええ、まぁ。でも、男というのは知らないもの分からないものにこそロマンを抱くものです」

「そうなんですか?」

「そう、例えば女心とかね」

 まぁ、とエレーナは目を丸くして笑った。

「宇宙の謎は次々と解明されていきました。私が夢見た果てない空はいつの間にか果てのあるものになってしまった。仕方のないことです」

「でもそれはわたくしたちの役に立ちましたわ」

「女性ははっきりしたものが好きですよね。それは子供を産むか産まないかの違いなのか…」

「今では男性も子供を産みますけど」

「遺伝子は歴史も受け継いでいるんでしょうな」

 エレーナは少女のように少し釈然としない表情をした。

「そういうものなのかしら。主人も地球にロマンを抱いているみたいだけれど」

「それはロマンというより郷愁というものなのかもしれませんね。ふるさとに対する憧れのような」

「ああ、それはそうかも。彼よく歌ってますもの。うさぎ追いしかの山、って」

「まさに『ふるさと』だ」

「それに、よく歌っているのは『赤とんぼ』。わたくしずっと不思議だったの。その歌詞の中に「十五でねえやは嫁に行き」ってあるでしょう。

どんな気持ちだったのかしら。五十二で嫁入りしたわたくしには想像ができなくって」

「ああ、そうか。ホームの人間は長生きだからね。でも、基本的には変わらないと思うよ。人の心ってものは」

「不安に思ったり、嬉しかったり悲しかったり?」

「そう。笑ったり泣いたり怒ったり。変わらない、みんなおんなじだ」

「そうね、そうかもしれないわ。それを聞いて安心したわ。わたくし実はちょっと不安だったの。地球で生きて行けるかしらって」

「ご主人についてきたことを不安に思っているってことかな?」

「少し。だって、わたくしの知り合いはみんなホームなんですもの。主人は地球に来たことがよっぽど嬉しいのかわたくしのことなど眼中にありませんし」

「おや、こんなに美しい奥さんを放っておくなんて、罰当たりな人ですね」

「あら嬉しいことをおっしゃる。……酒の上の過ちでも構いませんわ、少し火遊びなさいます?」

 エレーナはうふふと笑ってウインクをした。

「御冗談でもそんなことを言ってはなりませんよ。わざわざこんな辺境の地までついてくるほど旦那さんを愛しているくせに」

 エレーナは小さく舌を出した。

「きっと月の引力のせいですわ。わたくしたちは結局ここで生まれたのだわ。月の引力が懐かしくてしょうがないの。

わたくしも心の中でずっと、月の象を毎日見上げたいと思っていたのだわ」

 ヒビキは首をかしげた。

「月の象かい?」

「ええ、そう。象さん。ああ、日本人はうさぎさんだったかしら」

 ヒビキはなるほど、と頷いた。

「私たちにとっては餅をついているうさぎに見えるが、違う風にみる地域もいっぱいあるんだったね」

 エレーナは顎をくっと上げてまんまるな月を見上げた。しばらくそうしてじっと月を見つめてから、彼女はゆっくりと立ち上がった。

 スカートのすそを払ってにっこりと笑う。

「…さて、そろそろお暇いたしますわ。主人の元へ帰らなければ」

「天女よろしく月ではなくて?」

「ええ、主人のもとへ」

 二人は笑いあって、それからエレーナは一つお辞儀をして去って行った。

 ヒビキは杯に残っていた酒を煽ると、もう一度新円の月を見上げた。

「おうおう、今日も元気に象が鳴く」

 見上げた月には餅をつくうさぎと、鼻を上げて大きく鳴いている象がいた。ご機嫌な夜であった。


おわり

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月の象 もげ @moge_

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