喪失

@megusuri_______

喪失

  喪失

  

 ある朝、目が覚めると僕は僕が何者なのか分からなくなっていた。確かに僕は僕である。しかし僕とは何者なのか。僕の部屋、僕の布団、僕が起きて朝を迎えたという、僕を取り巻く環境や事実についてははっきりと分かるのだが、僕が何者なのかは分からない。初めて陥る不可思議な事態に戸惑い、どうすることも出来ず、ただ布団に横たわったまま呆然としていると、一人の女性が僕の部屋に入って来た。

「今日はどうしたんですの?随分とゆっくりなさっているのね。」

女性は不思議そうに、しかし微笑みながらそう言った。僕はこの女性に今のどうしようもない事態から救ってもらおうと考えた。

「一寸お尋ねしたいのですが、僕は何者なのでしょうか。」

「あら、まだ夢を見てらっしゃるのかしら。早く目を覚ましてください。」

そう言って女性はクスクスと笑った。そうかこれは夢なのかもしれない。夢ならば僕が僕を何者か分からなくても不思議ではない。夢の中の世界では何にでもなり得るのだから。「確かに僕は夢を見ているのかもしれない。では、この不思議な夢から覚めるにはどうすればよいのでしょう。」 

「顔を洗ってみてはどうです。きっと目が覚めますよ。」

女性はまた笑って言った。僕は言われた通りに顔を洗うことにした。しかし目は覚めなかった。変わらず僕は僕が何者なのか分からない。

「顔を洗ってみましたが目が覚めそうにありません。」

「では朝食をとりましょう。きっと食べているうちに目が覚めますわ。」

僕が困って言うと女性はまた笑って言った。しかし、朝食をとっても、家の中を歩き回っても、外に出て運動をしてみても僕の目は覚めなかった。

「困ったことに、何をしても目が覚めそうにありません。」

「あら、長い夢なのね。きっとそのうち目が覚めますわ。気にしなくても大丈夫よ。そうだわ、橋の下の公園でピクニックでもしましょう。気分転換になって、早く目が覚めるかもしれません。」

そう言って女性はいそいそと準備を始めたので、僕は部屋に戻って箪笥の中から洋服を取って着替え、女性の元へと急いだ。

 橋の下の公園には満開の桜の木が隙間なく並んでおり、僕は目を奪われた。女性も、とても綺麗ねと言って、例のように笑っていた。美しい桜に見惚れていると、僕は自分の胸の中がすうっと軽くなっていくのを感じた。僕が戸惑っているうちに、僕の胸の中は空っぽになってしまった。どうしてそんなことが分かるのかと言われると僕にも見当がつかないが、ただ僕の胸の中は空っぽになったと僕は確信したのだ。どうしたものかと困っていると、僕は僕の胸の中が少しずつ満たされていくのを感じた。しかしそれと同時に、僕が見つめている桜の花びらたちが少しずつ少しずつ減っていくことに気付いた。僕は急いで目を逸らし、胸の中が満たされていく感覚が止まるのを確認し、恐怖で固く目を閉じた。おかしな話だ。僕はまだ夢を見ているに違いない。しかしこの夢から目を覚まさないことには、桜を吸い込んでしまってはいけない。夢の中であっても、僕は今この世界に生きているのだから、僕が生きる世界で桜が消えてしまっては困るのだ。僕は女性に頼んだ。「もう帰りましょう。僕はなんだか、桜を吸い込んでしまうようです。桜が消えてしまっては僕も皆も困ります。さあ、早く。」

「あら、それは大変ね。せっかく綺麗に咲いている桜がなくなってしまっては皆悲しんでしまうわ。来たばかりで残念だけれど、今日のところはお家に帰りましょう。」

女性はまた笑って私の頼みを聞いてくれた。家に帰る途中も、道端に咲いた小さな花や、美しい小川の水、ショーウィンドウに飾られた淡い紺のジャケットを吸い込みそうになり、

急いで目を逸らした。僕はとても怖かった。家に着くなり、女性に助けを求めた。

「僕はどうやら胸が空っぽになって、その空っぽの胸に自分が美しいと感じたものを吸い込んでしまうようなのです、ああ、ほら。」

今度は女性を吸い込んでしまいそうになり、固く固く目を閉じた。

「それは困りましたね。それではあなたは美しいと思うものを見られなくなってしまったのね。ああ、可哀想だわ。」

目を閉じているので顔は見えないが、女性は本当に悲しげな声色で僕を心配した。

「ええ困りました。今も、僕はあなたを吸い込んでしまいそうなのです。僕は部屋に戻ります。危ないから、もう部屋には来ないでください。」

「それはとても悲しいわ。あなたはもう、わたしを見てくださらないのね。早く目を覚まして、目を開けてください。」

「ええ、ええ。早く目を覚ますよう努めます。では、しばらくの間、さようなら。」

「さようなら。早く戻っていらしてね。」

やはり悲しげな声色で、女性は言った。

 どれだけ時間が経っても、何をしても、僕は目を覚ますことが出来なかった。逆立ちをしてみたり、宙返りを試してみても、上手くいかないし目も覚めない。僕が女性に別れの挨拶をしてからもう八日経っていた。いつも朝昼晩と、食事と飲み物を扉の前に置いて行ってくれる女性が、流石の長さに痺れを切らしたのか、少し扉を開けて話しかけてきた。

「まだ目が覚めませんの?わたし、とても心配だわ。もう目が覚めて当然ですもの。」

「困ったことにまだ目が覚めそうにありません。ここまで長いと、もう夢ではないのではないかと思い始めてしまいました。夢であるにしろそうでないにしろ、この僕のおかしな性質をなんとかしないことには、僕はこの部屋から出ることが出来ません。うっかりショーウィンドウの中の物なんて吸い込んでしまうことがあれば、泥棒になってしまいますから。」

「そうね。けれどずっと部屋に篭っていては、退屈でしょう。それにわたしもあなたの顔を見たいわ。」

いつも笑っていた美しい女性が僕のこのおかしな性質が始まってから悲しげな声色で話すことも、たとえ笑ってくれたとしても今の僕はそれを見ることが出来ないことも僕にとってとても辛いことだったが、顔を見て女性を吸い込んでしまってはどうしようもないので僕は仕方なく辛抱することにした。

「そうだわ。吸い込んでもかまわないものをたくさん吸い込んで胸をいっぱいにしてしまえば、きっとそれ以上吸い込むことは出来なくなるわ。あなたが綺麗と言っていた桜の花びらが散ったのを、たくさん拾って来ましょう。」

そう言って女性は急いで出掛けてしまった。

 帰ってくるなり女性はあくせくと大量の桜の花びらを僕の部屋に投げ込んだ。

「さあ、吸い込んでください。胸をいっぱいにして、外に出かけましょう。」

「ありがとう。やってみます。」

僕は思いきり花びらを吸い込んだ。大量にあった花びらは一枚もなくなり、僕の胸はかなり満ちた。しかし、まだいっぱいでなかった。

「大分満ちましたが、まだいっぱいではありません。これではまだ何か吸い込んでしまうかもしれない。」

「では、あなたが綺麗と言っていた、道端に咲いた小さなお花をたくさん摘んで来ましょう。」

そう言って女性はまた出ていき、大量の花を摘んで来た。わたしはそれらを吸い込み、更に胸が満ちるのを感じたが、まだいっぱいにならなかった。その事を伝えると女性は

「では、あなたが美しいと言っていた、小川の水をたくさん汲んで来ましょう。」

と言ってまた出ていき、大量の水を汲んで来た。わたしはまたそれを吸い込み、やはり胸が満ちるのを感じたが、やはりまだ胸はいっぱいにならなかった。その事を伝えると、女性は

「では、あなたが見惚れていた紺のジャケットを買ってきましょう。」

と言ってまた出ていき、紺のジャケットをあるだけ買って帰って来た。わたしはまたそれを吸い込み、やはり更に胸が満ちるのを感じたが、やはりまだ胸はいっぱいにならなかった。

「どうやらもう為す術は無いようです。何を吸い込んだって胸はいっぱいにならない。目が覚めるのを待つしかないですね。」

「あなたはいつ目を覚ましてくださるのかしら、もう何日も目を覚まさないままだわ。本当に夢を見ているのかしら?」

「それは僕にも分からない。夢かどうかも分からないけれど、美しいものを吸い込んでしまう以上は外に出る訳にはいかないのです。ほら、顔を隠して。入ってきてはいけませんよ。」

「あなたとこのまま顔を見てお話できないのなら、わたしあなたに吸い込まれてかまわないわ。あなたの胸の中で綺麗なものに囲まれて暮らすなんてとても素敵。」

女性はそう言ってクスクスと笑った。僕は焦って、

「いけません。僕があなたを吸い込んでしまっては、それこそ顔を見て話すことが絶対に出来なくなってしまうでしょう。目が覚めるのを大人しく待つべきです。」

と言ったが、女性は聞く耳を持たない様子だった。

「わたしを吸い込んであなたの胸がいっぱいになれば、あなたは目が覚めて自分が何者なのか分かるかもしれないわ。きっとそうよ。」

と言ってまたクスクスと笑っていた。わたしは困ってしまった。

「そんな確証のないことは試さない方がいい。危険ですよ。」

「あなたが目を覚ますかどうかも確証が無いわ。」

そう言ってまたクスクスと笑った。

「あなたはわたしに吸い込まれることを本当に望むのですか。」

「ええ、とっても素敵な事だわ。綺麗なものに囲まれて、あなたの胸の中から綺麗な世界を眺めるの。考えただけでとてもわくわくするわ。」

またクスクスと笑ってそう言うものだから、僕はとうとう反論が出来なくなって、心を決めてしまった。

「あなたが望むなら、僕はそれでかまいません。どうぞ。お入りなさい。」

僕がそう言うと女性はすぐに扉を開けて僕の部屋に入ってきた。やはり笑っていた。僕はすうっと深呼吸をすると、目を開いて、女性をじっと見つめた。女性はみるみると僕の胸の中に吸い込まれていった。


 そして、僕の胸の中はいっぱいになった。

 

 女性が言うように目が覚めることはなかったが、確かに胸はいっぱいになった。僕はあの女性が誰なのかも僕が何者なのかも分からないままなのに、何も分からないのに、涙が止まらなくなった。そしてしばらくして気付いた。何も分からない僕が、たった一つ。けれどとても重大なことに。

 

 あの女性は、僕は本当に欲しかったものだ。

 

 本当に夢を見ているのかどうかは、今も分からない。

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