樹梢

八咫鑑


 うすら寒い。

 少年が目を開けると、いつもと何も変わらない木枝の並びが目に入った。

 冬も過ぎもうすぐ春が来るという季節。木立から入る隙間風は少年に身震いをさせる程度にはまだまだ冷たかった。少年は根元にずり落ちていた毛布を見やった。博士がくれた若草色のそれは、さながらロゼットのように縮こまっている。少年はフンッと毛布に向かって懸命に手を伸ばすが、中指の先がちょいちょいと毛布をなでるだけでそれ以上腰が曲がらない。ついこないだまではつま先の幹をつかめるくらいには柔らかかったのに。少年はふぅとため息をつくと毛布をあきらめ、自らの運動不足を嘆くようにやおら天を仰いだ。

 うす暗い。

 少年の頭上3メートルほどのところに、彼を取り巻く枝々によって作られた小さな樹冠が見える。必死に体をねじりながら手を伸ばすが、背骨の数が100個増えでもしなければ届きそうもない。まてよ、背骨が増えても腕が伸びなければ意味ないか、と少年は苦笑いを浮かべる。1~2年前、まだ少年を取り巻く木々が彼の肩の高さまでしかなかったころは、こずえについたいろんな種類のつぼみを見、なで、香りをかぐのが好きだった。お気に入りは、少年のすぐ目の前で枝を伸ばすアカギの木だ。枝や幹が赤褐色の独特な木で、それが咲かす黄緑色の小さな花を、少年はとても可愛らしくきれいだと思っていた。それ故、少年は花が咲く時期を毎回楽しみにしていたのだった。しかし今となっては見上げる先はるか彼方にぽつぽつと群れたつぼみが見える程度である。最後にあのつぼみに触れたのはいつだったろうか。少年は自分の足元を見やり、またしてもふぅとため息をついた。僕自身も伸びないかなぁ。

 少年の脚の感覚は太ももより先がなかった。もとい、そもそも少年の“脚”と呼べる身体的部位は太ももで終わっていた。

 少年の右太ももからは木が生えていた。弦のように細い蔦から少年の腕ほどもある幹まで、大小さまざまな木々が少年の右太ももから所狭しと下向きに生え、地面スレスレで彼を取り囲むように広がると、上へ上へとその枝や幹、蔦を伸ばしていた。それらは枝分かれするごとにその種類を増やし色も形も特徴も様々で、フラスコ型の鳥かごのようにふわりと少年の周囲を、文字通り360°取り囲んでいた。

 博士曰く、足元?根本?で5種類、下からわっと広がるところで14種類、少年を取り囲んでいる部分では一気に増えて400~500種類、上に行くほどだんだん減って、てっぺんでは2~3種類に落ち着いてるんだとか。

 今はまったく言ってくれないが、博士はいつも少年のことを「ひとりジャングル」と揶揄していた。少年はなぜだかそれがおかしくていつも笑ってしまう。少年はある時、博士のことも笑わせたくて、博士の頭を見ながら「ひとり砂漠化」と言ってみたことがある。博士は無言でどこかへ行ってしまったが、あれはあまり面白くなかったのだろうか……。

 少年の左脚は、その太ももの途中からだんだんと木になっていた。その先は太くたくましく、地面で深々と根を張り、少年及びその右足から生える植物に栄養を送るとともに、どこまでも決定的に彼をその場所に縛り付けていた。

 少年はあたかも、チューリップの花の中にあるめしべのようだった。上半身は自由に動く。下半身は左脚先の根っこよって固定されているのはさることながら、そもそも右脚から全方位に向かって生える木々は重く、彼の股関節周りの筋肉で動かせる代物ではとうの昔になくなってしまっていた。

 しかし、彼は動けないことをあまり悔やんだことはなかった。周りを見渡せばありとあらゆる植物の枝や花、蔦、葉、幹を見ることができたからだ。別の懸念点はあったが自称“すべての植物に精通している”博士もいることだし、少なくとも飽きることはなかった。足から木々が生えだして早数年、少年にとって木々は友達でありライバルであり恋人であり家族であり他人であった。それと同時に、木々は自分自身でもあった。

 僕も木々になる。

 少年はあるときそう決心して、両手をいい感じに天に向け、風が吹けば周りの木々に合わせて揺らいだり、木々は何を話しかけられても無反応なので、博士から話しかけられても無視したりしたこともあった。博士の差し出すハンバーグの誘惑に耐え切れず一日と持たなかったが。でも、きっといつの日か自分はこの木々に溶け込んでいく。少年は直感的にそう感じていた。

 少年はふと、そうとは気づかれないように後ろを見やった。薄暗がりの中で、柔らかな水色の花がひっそりと咲いているのが見える。博士にネモフィラだと教えてもらったその花は、最近になって生えた植物のうちのひとつで、少年の新たなお気に入りでもあった。ただ、そのことを当の本“花”に気づかれるのがなんだか気恥ずかしくて、少年はそれを隠していた。

 ある日の真夜中、どの木々も眠りについた後、触ってみたくてこっそりとその花に手を伸ばしたことがある。体をひねりねじり、肺から空気を押し出しながら後方へと手を伸ばした。足元からミチミチと皮の伸び切る音がするまで手を伸ばしたが、もう数センチのところでネモフィラの花には手が届ない。ついにはブチブチという音をさせ、少年は何とかその花弁に触れることができた。その瞬間、得も言われぬ高揚感と優しい感覚が心を満たし、少年はついうっとりとなってしまった。おかげで鳴り響くアラームとドタバタと駆け付ける博士、足を伝う樹液のような血には気づかなかった。後日少年は博士にこってりと、絞め殺し植物に負けず劣らず絞られて宿主植物の気分を味わうことになったが、少年はそれでも、一度でもその花に触れ合うことができてよかったと思っていた。

 それまでに少年を追い込む懸念が一つあった。左脚の木は成長を続けるとともに、少年を少しずつ上へ上へと押し上げていた。そして、右脚の木々は、ぐんぐん上に成長するに連れ、そのフラスコ型の広がりをより大きくしており、少年はだんだん周りの木々から引き離されていたのだ。少年の周りの何もない空間、周囲の木々との距離は年々大きくなっていた。そしてそれに伴い、木々の隙間から差し込む木漏れ日は減り、少年の周りの薄暗さにもどんどん拍車がかかっていた。

 このままでは暗闇の中にただ一人、ポツンと取り残されてしまうのではないか。だからこそ少年は、まだ触れる距離に枝葉を伸ばしているものには、触れるうちに触っておきたかったのだった。

 アカギの花もネモフィラの花も、もう触れない距離に行ってしまった。少年は冷たい腕で自分を抱きしめる。このまま僕だけが成長せず、周りの木々たちだけが成長していったら。博士が来てくれなくなったら。ここに僕だけが取り残されたら。僕は。僕はどうしたらいい?


 急にガサガサと音がして、目の前の木々がかき分けられた。少年はハッとして思わず姿勢を正した。密集した植物群の隙間から外の光が差し込み、無骨でしわしわな手が見えたかと思うと、ズイっと博士が顔を出した。

「おはよう樹、お客さんだ。」

 そういうと博士は腕や背中を巧みに使って木々の隙間を押し広げ、一人の青年を、少年のジャングルのなかへ押し入れた。

 青年は細身で、どことなく哀愁漂う感じがした。透き通っているを通り越して半ば無機質な印象さえ覚える目をしており、右腕にはよれよれの包帯を巻いている。

「この子は訳ありでな。訳あり者同士、仲良くできるんじゃないか?」

 どちらに向かって言うでもなく、博士はまたガサガサと音をさせて去っていった。

 薄暗がりが戻ってきた。

 少年と青年は、何をするでもなくただ静かにお互いを見あっていた。

 青年は少年の両脚を。

 少年は青年の右腕を。









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樹梢 八咫鑑 @yatanokagami

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