クリアファイル
もともと人通りが多いとは言えないだけでなく、日付が変わろうとしている時間にこの道を歩く者はほとんどいないはずだった。
(さっきからボクの後ろに誰かいる)
意識して歩く速さを変えてみても、間隔を変えずに足音はついて来ている気がする。
街路灯は少なく、家々の明かりも消えている中、大きめのショルダーバッグからスマホを取り出し手袋を外してLINEを立ち上げた。
「こんばんは。起きてる?」
『どうしたの こんな時間に』
すぐに相手から返信があり、ほっとした表情を見せた。
「いま富士見四丁目の辺りを歩いてるんだけど、誰かにつけられてる気がする」
『それはヤバいよ 通話に切り替えて』
「もしもし」
『大丈夫? こんな時間にヤバいんじゃない? あの事件の犯人、捕まってないし』
一時期はワイドショーでも取り上げられていたものの、二人目の被害者がでてからすでに一ヶ月ほどが過ぎてマスコミには忘れられようとしている。
しかし住民にとっては今も恐怖が消えてはいなかった。
「狙われていたのは男性だし、ボクなら大丈夫だと思うけど」
『そうとも限らないだろ。ひったくりかもしれないし。通話してれば警戒するはずだけど、途中まで迎えに行こうか』
「ほんと? いいの?」
『そのまま家へ帰るなら、富士見公園を通るでしょ? あそこまで行くよ』
「助かる。実はちょっと怖かったんだ。ありがとう」
『話してるふりでもしてなよ。じゃ、あとで』
通話を終えると笑みを浮かべた。
再び手袋をはめ、スマホをバッグへ入れる。
後ろからの足音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
約束の富士見公園までたどり着いた。
薄暗い園内の遊歩道に人影が見える。
そちらへ近づいていくと厚手のダウンジャケットを着た男が右手を軽く挙げた。
見知った顔を確かめる。
「わざわざごめんね」
「いいって。それより、
男性は軽く眉間にしわを寄せ目を細めながら、遠くを見渡している。
「ありがとう」
彼を見上げてそっとつぶやくと、その胸に顔をうずめた。
「えっ、あ、山瀬さん……」
男性は戸惑いながらも彼女の背中に両手を回した。
長い髪が彼の手に触れる。
彼女は身を任せ、ショルダーバッグの中から左手でクリアファイルをそっと取り出し、右手をコートのポケットに入れた。
「うがっ……」
突然、男性がうめき声と共に膝から崩れ落ちた。
その左胸にはクリアファイルもろともナイフが突き刺さっている。
薄明りの中でも赤黒い液体が彼の足元に広がっていくのが見えた。
「お前も僕をいやらしい目で見た報いだ!」
押し殺した声で彼女が吐き捨てる。
「僕に声をかけてきたのも下心があったからだろ。お前みたいな男は生きている価値もない」
さげすんだ目で見下ろすと何事もなかったかのように歩き出した。
「確保ーっ!」
突然、どこからか男の大きな声がした。
それとともに暗がりの中から誰かが飛び出し、行く手をふさぐ。
驚いた彼女が振り返ると、後ろにも大きな影が立ちふさがっていた。
「山瀬
右腕をつかまれ手首に手錠を掛けられた女が呆然としていると、倒れていた男がゆっくりと体を起こした。
「いってぇ。防刃ベストを着ていても衝撃はけっこうあるもんっすね」
服についた砂をはたきながら高橋がダウンジャケットのファスナーを下ろすと、クリアファイルを貫いた刃先がビニール袋に包まれた肉塊に突き刺さっていた。
「お前、だましたなっ! おとり捜査だ! 不当逮捕だ!」
「笑わせるなよ。俺を殺そうとしたのは事実じゃないか」
女はなおも
「先輩、大丈夫ですか?」
「神崎ぃ、犯人に尾行を気づかれるなんて恥ずかしいと思え」
心配ないとばかりに後輩へダメ出しを始めた。
「まぁ怪我の功名で、奴が実行する後押しになったかもしれないけどな」
「どういうことですか?」
「クリアファイルで返り血を防ごうなんて考える奴だ、お前のことを不審人物だと思って捜査をかく乱できると考えたかもしれないぞ」
「なるほど」
「なるほどじゃねぇよ。もっとうまく尾行しろ、って――いてて……」
「無理しないでください。署まで送ります」
当たり前だろ、と言いながら高橋は安堵の表情を浮かべて、薄暗い遊歩道を歩きだした。
―了―
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