僕は女神ウルドに、どんでん返しを願わない。

成井露丸

僕は女神ウルドに、どんでん返しを願わない。

 鮎川あゆかわまいが生徒会長の夏目なつめ彰久あきひさ先輩と交際しているらしい。

 そんな噂がさざなみのように二年B組に広がったのは夏休みも近付いた頃だった。四月から生徒会に参加するようになった鮎川は、随分と明るい笑顔を見せるようになっていた。だから――


「――そういうことだったのかなぁ」


 河原のベンチで白い積乱雲を浮かべた真っ青な空を見上げながら水瀬みなせ郁人いくとは呟いた。視線を下ろすと向こう岸には犬を連れたカップルや、ベビーカーを押す主婦の姿が見える。

 アイスコーヒーのストローを唇で挟ん吸うと、冷たい苦味が口の中に広がった。隣に置いていたチョコレートを一粒摘まんで放り込んだ。


 ※


 僕は鮎川舞のことが好きだった。中学生の時からずっと。

 中学で同じ学校に彼女の姿を見つけた時には、何だか嬉しかった。小学生の時に地域のバレーボール大会で見掛けた彼女のことがずっと記憶に残っていたから。

 やがて二人はよく話す友人同士になった。男女は違えど同じバレーボール部。毎日のように部活で顔を合わせる内に仲良くなった。性別を超えた気の置けない友達。

 ずっとそんな関係で、二人はその居心地の良い距離感に馴れてしまったのだと思う。だから僕は自分自身の恋愛感情を一度も彼女に伝られずにいたんだ。

 ただの一度も、単純に「好きだ」という言葉を口にしていなかった。


 ※


「――何が『そういうこと』なのさ?」

「わっ!」


 急に耳許で声がして、驚いて振り向くと、至近距離に女性の顔が大写し。近い。

 思わず仰け反る郁人。女はそれを胡乱な目で一瞥すると、口許に笑みを浮かべた。ベンチの後ろで腰に手を当てて背筋を伸ばして。


「まったく、運命の別れ道に居るというのに、随分と腑抜けた顔だな。少年?」

「だっ……誰ですか!?」

「ふっふっふ。私は時と運命を司る女神――ウルド様さ!」


 そう言ってニヤリと笑う。

 白いキャミソールの上で大きく開いた胸元。その上には濃いグレーのカーディガン、下半身にはスキニージーンズ。

 なんだか、女神と言うよりも、働くお姉さんっぽい。


 敢えて女神らしいところを指摘するならば、その白銀色の長い髪。あと、光の輪が頭の上にふわふわ浮かんでいる。

 郁人が呆気に取られていると、ウルドは彼の隣に「よいしょ」と腰を下ろして、その長い足を組んだ。


「えっと……不審者ってことで良いんですかね?」

「いや、不審者じゃないから! 女神だから!」

「あの。僕、お姉さんにお会いしたこと、ありましたっけ?」

「う〜ん。私は君に会ったことがあるけれど、君は初めてだろうね。まぁ、女神に会うことなんて普通無いからね?」


 そう言うとウルドは隣のチョコレートを一粒、勝手に口へと放り込んだ。開かれた口にチョコを放り込む仕草が何だか艶かしくて、郁人は思わず視線を逸す。


「――鮎川舞のこと、好きなんだろ? 水瀬郁人くん?」

「……どうしてそれを? ――それに、僕の名前!」


 戸惑う郁人に、ウルドは挑発的な笑みを浮かべる。


「それは、女神様だからね。知っているよ。何なら他のことも質問して試してみるかい? 本当に女神かどうか」


 その頭の上には、物理法則を無視して光輪がふわふわ浮かぶ。

 郁人はそれをしばらく見てから「大丈夫です」と頷いた。


「君は今、恋の危機に瀕しているね? 崖っぷちだね?」

「……仰る通り……ですね」


 川面を見つめるウルドの横で郁人はアイスコーヒーを両手で掴む。表面の水滴が冷たく手を濡らした。


 ※


 中学の時、僕の身長はあまり伸びなかった。最後の試合でもレギューラーに入れなかった。だから自分の才能に見切りをつけて、高校では部活に入らなかったのだ。

 一方で、鮎川は高校でもバレーボールを続けた。彼女も身長には恵まれなかったけれど、前向きで人一倍努力する女の子だった。そして、何より彼女はバレーボールが大好きだった。


 でも、夏の終わりの練習試合で、そんな彼女が突然倒れた。

 理由は捻挫って話だったけれど、なんだか体調も悪そうだった。

 結局、それから暫くして、鮎川はバレーボール部を退部した。


 ※


「なるほど、好きな女の子を別の男に取られそうなわけだ?」

「もう取られているかもしれないんですけどね? 今日もクラスで噂だったし」

「いや、まだその二人は付き合ってはいないぞ? 噂は噂」

「え? そんなこと、どうして分かるんですか?」

「え? だって運命の女神だし?」


 スキニージーンズの組んだ足を解くと、太陽の光を遮るように手の平を額の上に掲げ、ウルドは「暑いね」とぼやいた。


「第一、絶対に結ばれない運命なら、わざわざ女神ウルド様が来たりはしないさ」

「――それって、女神様が僕の願いを叶えてくれる、とかそういうこと……ですか?」


 郁人が恐る恐る尋ねると、ウルドはにんまりと笑った。


「あぁ。東西南北、現在過去未来、ウルド様に掛かればどんな困難な状況も『どんでん返し』さ! 生徒会長が口説いていてお付き合い間近な鮎川ちゃんの気持ちを『どんでん返し』で君とくっつくように影響を与えるくらい造作もないぞ?」

「――本当に?」

「あぁ、――君が『どんでん返し』を望むならね! 神様は嘘をつかない」


 上流から夏の風が吹いて、銀色の髪を吹き上げた。

 ウルドはそれを左手で押さえて目を細める。

 その隣で数羽の鳩が河原へと舞い降りた。


「あ。……じゃあ逆に、女神様でも変えられない運命ってのもあるんですか?」

「ん? あぁ、あるよ。私は『時と運命』の女神だから。例えば『命』は駄目。死んだ人を生き返らせたり、死期の決まった人の寿命を伸ばしたりとか。そういうのは無理」


 ※


 一年生の夏が終わり、バレーボール部を辞めてから鮎川は塞ぎ込みがちになった。そんな彼女との距離の取り方が分からないながらも、僕は彼女に元気になってもらおうと努力し続けた。性別を超えた気の置けない友達として。

 一年生の間はなかなか持ち直さなかったけれど、二年生になって生徒会に入った彼女は徐々に生来の明るさを取り戻していったように見えた。

 それが僕には嬉しかった。でも、それは先輩の影響だったんだ。そう思った。

 彼女を救ったのは僕じゃない。そう思うと、胸は締め付けられるように傷んだ。


 ※


「まだ僕に……望みはあるんですか? 鮎川と一緒になれる望みはあるんですか?」

「あ〜、あるね。ゼロじゃない。夏目先輩とやらに逆転して、君が彼女と付き合う未来はゼロじゃないよ」

「――そうなんですか」

「このウルド様に願ってみるかい? 彼女と恋人になれる未来を。あの子の心に呼びかけて、君達が恋人同士になる未来を導いてやろうか?」


 そう言うと、ウルドは膝の上に頬杖を突いて、品定めするように郁人の顔を覗き込んだ。でも郁人は、少し思案してから首を振る。


「いえ、大丈夫です。神様に鮎川の気持ちを曲げてもらっても、僕はきっと嬉しくなんてないから。僕が自分で伝えます。正々堂々――『好きだ』って」


 そう言うと、やおら、少年は立ち上がった。

 銀髪の美女はそんな彼を見上げて頬を緩める。


「そうかい? まぁ、私はどっちでも良いんだけどね。少年がそう言うなら、それで良いんだろう。でも、私があげる奇跡のチャンスは一度きり。今日、奇跡を願わなかったことを後で後悔しないことだね」


 でも、振り返った郁人は、何だか吹っ切れたようだった。


「しませんよ。僕は鮎川のことが好きだけど、それは鮎川じゃなきゃ駄目なんです。神様に変えられた『鮎川』じゃなくて!」


 そんな彼を見上げて「生意気だな」とウルドは楽しそうに笑った。

 今にも駆け出そうとする少年に、女神は彼女の居場所だけを伝える。「ありがとう」と彼は女神にお礼を言った。


 そして、水瀬少年は駆け出した。河原を南へ。鮎川舞の方角へ。


 ウルドはそんな彼の後ろ姿に「頑張れよ」と親指を立てる。

 頭の上に、光輪を浮かせながら。


「――青春だな」

「あぁ、そうね。……でも、これで良かったのかい? 十年後の少年」


 二人が座っていたベンチの背後から声を掛けた僕に、銀髪のウルドは振り返った。走り去る十年前の自分の背中を眺めながら、僕は目を細める。


「良いんだ。運命は変えられなくても、二人で居られる幸せな時間を少しでも長く出来たら。もう、後悔はしたくないから」

「そうかい? まぁ、依頼主と過去に来て少しだけ干渉する。時と運命の女神――ウルド様にとって、こんなに御誂おあつらえ向きな仕事はないんだけどね」


 鮎川舞は、高校三年生になるのを待たずに、この世を去った。

 高校一年生の時に発症した病気はゆっくりと彼女の体を蝕んでいた。僕がその病気のことを知ったのは高校二年生の冬だった。

 全てが遅すぎた。僕はただ「好きだ」と鮎川に伝えることも出来ないままに、灰になる彼女を見送った。


 彼女が死んでから、僕は夏目先輩に呼び出された。

 そして告げられたのだ、「鮎川舞が好きだったのは、おまえだった」と。

 先輩と鮎川の話はただの噂だった。

 夏目先輩は鮎川のことが好きだったけれど、鮎川がそれを拒んでいたのだ。

 結局、噂に負けて、踏み出せなかったのは――僕だった。


 二十七歳になって、大人になっても、僕は鮎川のことを忘れられずにいる。

 そんな時、時と運命の女神ウルドに出会った。

 だから願ったのだ。過去に行って、高校二年生の僕の背中を押して欲しいと。

 ほんの少しだけでいい。運命を変えたい。


 彼女の命を救うことは、ウルドにも出来ない。

 それならせめて、彼女がこの世を去るまでの夏と秋と冬の時間。

 僕は君と二人で幸せな時間を過ごしたい。

 本当の気持ちを伝えて、恋人同士になって、そして笑顔で君を送り出したい。


 小学生の時に君をバレーボール大会で見掛けてから、ずっと好きだったから。


「時間だよ、郁人。十年後に戻るけど。いいかい?」

「あぁ、頼むよ、ウルド」


 そして、僕たち二人を光の球が包んでいく。


 人生にそんな便利な奇跡なんて無いのかもしれない。

 でも、人を思い続ける気持ちはきっと奇跡よりも大切で、この世界に生きた僕らを繋ぐ紐帯なんだ。


 だから僕は――女神ウルドに、どんでん返しを願わない。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕は女神ウルドに、どんでん返しを願わない。 成井露丸 @tsuyumaru_n

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ