第10話
ぼんやりと眺める窓の外は、快晴で、教室から眺める空は当たり前に青々としていた。
最近の私にとっての空は何時だってオレンジ色で、それはまさしく放課後の音楽室のそれだった。空が好きと思いながらも、私はこの教室でかけらも空を眺めていなかった。モノクロな日々は、私に空の色すら忘れさせていた。同じものを場所や時間で同じように感じられないこと、それが自分のせいだと、今の私はわかっている。
そういえば、と鞄の底に入っているノートを思い出す。最近の私はそこに書くべき言葉がなかった。ないから、書いていない。嘘にならないよう、なくさないようにと、祈りながら行う作業から、私は少し遠ざかっている。
今だって正しい言葉はわからない。きっと誰にも届かない。それでも、コトバケと話す内に、ノートが宛先であるわけがないことは理解した。そんなことはそれこそ当たり前だが、心ない無機物に押し付けることは、受容もないが否定もない。要は楽をしたい、逃避である。
そう、コトバケは私に受容だけを与えてくれた。温度のあるそれに慣れてしまえば、ノートは無機質で、退屈だ。
その退屈さをこそ、以前の私なら愛していただろうが。
(いい天気だな……)
そう、いい天気なのである。
好きな空が綺麗で、穏やかなほどよい天気。それだけで、気持ちが上向く。
世界は今日も驚くほど単純だ。それでよいと、今の私ならそう言える。
「ーと、いうわけで、来週中が締め切りだからね。まぁ、そんなに難しく考えず、とりあえず、今時点でってことでいいからさ」
ふ、と聴覚が言葉を拾った。ぼんやりし過ぎた脳は、理解が追い付かないまま、のろのろと起動する。教卓の前では、柳先生が相変わらず頼りなさげに話していた。
本日最後の時間は、ロングホームルームで、担任の先生からの進路についての話だった。高校生の三年間なんて、長いようであっというまであることを私達はなんとなく知っている。それでも少し先の未来の話は、未だ他人事で、想像力が追い付かない。勉強は、しないといけないだろう。学力は、必要だ。大学はとりあえず行きたい、ような気がする。
具体的なビジョンのない漠然とした先は、どうしたらいいかわからないから、なんとなく大多数の人と同じような選択にのってみる。この、教室の中の果たしてどれくらいの人間が、真剣に未来を想像できているのか私にはわからない。
手元には、進路希望調査とタイトルづけられたほとんど白紙の紙があった。大学にいくのか、就職するのか、学部は、職種は、なんて、そんなものを調査したって、それではかれるのもなど、極一部だ。進路、進むみち、この言葉の重さに、私達は少し不安定になる。向き合い続けることはしんどいので、あくまで、少しだが。
(憂鬱……)
浮上していた気持ちが、少し沈む。やっぱり、世界は単純である。
私も含め、教室の多くの生徒の気だるさと不安に揺れる眼差しを受けて、柳先生は今日も困ったように笑っていた。それだけだった。
ー†ー
「ああー、めんどくさー」
「進路とかいわれてもね。とりあえず大学でしょ?志望校とかいわれても、そんなに知らないっての」
「とりあえず無難にうめとくかなぁー。順番に有名私大とかいれとくか」
「いや、あんたそれ受かるの?別の意味でめんどくさくない?」
「あ、やっぱり?」
あはははは、なんて、何が楽しいのかわからないタイミングで笑いだす。とりあえず一緒に笑っとく不誠実さに心のなかで嘆息する。ロングホームルームの後の放課後は、進路希望調査のことで持ちきりだった。なんだかいつもより教室がざわついている。
「あー、でも、祈はいいよねぇ」
「え?」
急に矛先を向けられて、驚いた顔をしてしまう。
「だって、絵、得意でしょ?なんか賞とかももらってるじゃん。美大とかいくんでしょ?」
「いいよねー、得意なことがあって」
「え……」
まさかここで、そんな風にいわれるとは思っていなかった。確かに美術部ではあるが、美大に行こう等と思ったこともなければ、話したこともない。
それなのに、急に一線をひいたような話し方をされて、困惑する。
「美大に行こうとは、思ってないよ……」
「え、そうなの?いっつも放課後絵ばっか描いてるし」
「美大にいく準備かなと思ってたよ」
ああ、上滑りだ。彼女らが求めていることはそんなことではない。
得意なことや好きなことがそのまま進路に繋がるわけではないのはだが、ひとりだけ、どうとでもなりそうな気がする私が浮いているのだ。実際はそうではないが、そう見えていることがすでに問題なのだ。
教室の今のざわめきの、何時もと違う漠然とした不安定さの理由がわかった。互いが互いを監視している。あなたはどうなの?わたしはこうなの、それなら同じね、ってそんなことを確かめている。
どうしようーー息ができない。
勿論、錯覚だ。私の呼吸は正常だ。
でも、薄氷の上を歩くような冷たさと、恐怖を感じている。このままその薄氷が砕けたら、どうなるんだろうって、そんなことに、怯えている。
「そんなことないよ。美大ってちゃんと専門の人に指導してもらえないと、入れないんだよ?部活の延長でいけるものじゃないし」
「そうなの?」
「うん、あくまで私がしてるのって部活だし、単なる暇潰しっていうか。ほら、うちって部活動はいっとかないといけないかんじあるじゃない?得意なこともないし、運動苦手だし、消去法で入っただけだしねー」
「なぁんだぁ、そうなんだー。そりゃそっか、美大なんていく子限られてるもんねー」
「そうそう」
笑って話す言葉のひとつひとつが、どうしようもないくらい耳にこびりつく。何時も通り、何時も通りだ。みんなに溶け込む言葉を探している。それだけが正解だから。
それでも、喉がはりつくような違和感を覚える。ひきつりそうで、震えそうで。黙ってしまった瞬間に、喉が正常に動いてくれない気がして、言葉が止まらない。頭が熱いのに、温度が冷たい。
私はいったい何を話しているのだろう。言葉にするたびに何かを損なっていた。何かを傷つけていた。
それがなにかも、もう、わからない。
「あははは、だから、私も同じかなー。適当に大学いきたいって気持ちはあるけど」
「そりゃそっかぁ。大学いってまで絵なんて描いてられないよね」
「そうだよ。私別にそんなに絵が好きなわけじゃ、「何のはなしをしているの?」
急に割り込んできた誰かの声に、私の言葉は遮られていた。
何を、言おうとしていたのだろう。呆然と自分の喉を押さえる。とまった、ということに、ひどく安堵した。
ゆるゆると顔をあげると私の背後からひょっこりと瑞樹が顔を出していた。人の話を遮るなんて、彼女らしくない登場のしかただった。
「あ、みーちゃんじゃん、進路の話だよ。みーちゃんは決まってるー?」
グループの子達は急に私に興味をなくしたらしい。すぐに瑞樹にからみだした。
「みーちゃん、頭いいしねー。どこでもいけるんじゃない?」
「ん?そんなことはないし、普通に勉強しないとまずいよ。今は国立ねらってる」
「うわっ、さすが」
淡々と自分のことを話す瑞樹は、やっぱりさすがだなと思う。先ほどのまでの流れで疲れてしまった私は、ぼんやりと皆の会話を眺めるのみだが。
ふ、と一瞬瑞樹と視線があった。彼女は片眉を吊り上げ、険しい顔をした。瑞樹のそんな顔を見るのははじめてだったが、なによりその顔を私に向けているということに、ひやりとしたものを感じた。
(でも……気のせい、かな)
瞬きの間にいつもの淡白な雰囲気に戻った瑞樹は、グループの子達と他愛ない話に興じている。そつなく、無駄なく、けれども無理のない瑞樹らしい会話だ。
「……………」
私はというと、今日はもうかけらも誰かに気を配りたくない心境だ。かといって、このタイミングで美術部にいくこともできない。まさしく八方塞がりである。
とりあえず、なにもしないのも手持ちぶさたなので、帰る準備をする風に、鞄に教科書をつめだした。教科書がいつもより重たく感じるのは、気のせいだ。
「祈、部活?」
「え……と」
私の気持ちをさておいて、瑞樹はそう、問いかけた。返答もできず、口ごもりかけたが、瑞樹のほうが話を続けた。
「先生に作品せっつかれているんでしょ?はやくいかないといけないんじゃない?」
「先生にせっつかれてるのー?祈もたいへんだねー。めんどくさくない?」
瑞樹の言葉をひろって、他の子達も同情的な眼差しだ。
「そうだね、うん、めんどくさいけど……」
「こらこら、はやくいったいった。まったくそんなこといっても、さぼれないよ」
「あ、うん」
せっつかれるように瑞樹に言われたせいで、当然のごとく美術部にいく流れができてしまった。さぼんじゃないよー、いってらっしゃーい、などと笑い混じりに皆に送り出され、慌てて鞄をもって身を翻す。
(なんだったんだ…)
くるくると変わる周囲に、私だけがついていっていない。臨機応変にできず、かといって、開きなおれず、居心地の悪い空気感だけが、肺を満たしていく。
そんな風にぼんやりしていたのが悪かったのだろう。誰かの机にぶつかり、つんのめる。
「う、わ……っ」
こんなこと、この前もあったなと身体でバランスをとると、息を殺したみたいに埋没する花咲薫の席であることに気づく。
「あ、ごめん……、あっ」
何度も大変申し訳ないことであると思うのと、机の上においてあった紙がするりと滑り落ちたのは同時だった。思わず伸ばした手がうまくキャッチできたその紙は、例に漏れず進路希望調査で。
(○○○○大学?)
見るともなしに見てしまったその大学は、地元ではそこそこの大学である。あくまでそこそこで、平均的な学力レベルの。
正直、意外だった。対して話したこともない私が彼の進路をどうこう言う権利は当然ないが、花咲薫はクラスの中でも頭の賢い子として位置付けられている。瑞樹もそうだが、クラスの中の単純な人気度とは異なるとこで、彼らは別の存在としてひとつ、上にいた。
だから、よくは知らないが彼が学力の高い子であることは、私でも知っている事実である。正直、書いてある大学では推薦で入学するにしてもお釣りがくるだろう。
それに、と思う。
花咲薫は生島琉生と同じ大学にいくはずだ。少なくとも目標はそこであるはずだ。
薫ならおそらく問題のないレベルの他府県にある有名国立大学に一緒に行くのだと琉生が豪語しているのを聞いたことがある。琉生の学力ではおそらくしんどいそれを、彼は高い志でもって目指していた。それでよく薫に勉強を教えてもらっているというのは周知の事実だ。
理由も目的もわからないが、そんな、漏れ聞こえるすべての事象を裏切る結果がそこにはあった。
「ー返してくれるかな?」
静かな声に私の物思いが途切れる。
薫は長めの前髪の下から、それでもじっと私を見ていた。思いがけず、強い眼差しに私は彼の何かに触れてしまったことを自覚する。
「あ、……、ごめんなさい」
「いいよ、別に」
淡々と薫は紙を受け取りファイルの中に片付ける。温度のない、声だった。
私は彼がこんなに冷えきった声で話すことを知らなかった。埋没した彼は、それでも、研ぎ澄ました空気でそこにいた、そんなことも知らなかったのだ。
「え、と……、わたし、何もみえてないです」
「は?」
思わず言った言葉は、たぶん考えなしが過ぎた。意図的にしたわけではないとはいえ、彼の何か深いものの一端に触れた罪悪感か、単純に、抱えきれない重たいそれに耐えかねたのか。
私はこの事象をなかったことにしたかった。どこまでも赤の他人のクラスメートと共有するにはそぐわしくない事柄を。
薫は胡乱な眼差しで私を眺めた。びっくりすくらい目付きが悪い。
「私は……、なんにも、みえてないです、だから、知らないです」
教室のざわめきに埋もれるような私の声を正しく拾った彼は目を瞬いた。
それでもなにかをいわれるのは怖いから、私はそのまま彼の横を通りすぎる。
「ちょ……、神前さんっ」
はじめて呼ばれた自分を指す呼称に違和感しかない。違和感しかないから、それはなかったこととして処理された。
ああー逃げてばかりだ。
そろそろ逃げ方も逃げる場所も底をつきる。
そんな予感を、私は自身の進路希望調査票と共に鞄の底に沈めたのだった。
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