第11話

 柳先生に示された進路希望調査票の締切は明後日になっていた。その間の私が何をしていたかと言うと、瑞樹の言葉を隠れ蓑に放課後の音楽室で空の絵を描き続けていただけである。なんにもならない絵をなんにもならないとわかりながら描く作業。それはいつものことなのに、いつも以上の虚しさを覚えるのは、現実逃避にすら失敗する自分の弱さだ。

 コトバケとは相変わらず淡々と言葉を交わしていたが、最近の彼は私の教室の風景がえらく気になるらしく、何が楽しいのかわからないほどご機嫌に、先生や生徒の話を聞いていた。

 そんな中でも時々どきりとする一言があり、私は否応なしに自分の何かに触れ続けていた。問われ続けていたのだ。

(まぁでもこれ以上無理だよね)

 期限の決まったモラトリアムに耐えきれなくなり、今日の私は進路希望調査票を広げていた。なんでもないと投げ出すこともできず、中途半端な焦燥を抱え続けることもできない私らしい向き合い方だった。

 絵でもノートでもない紙をひろげた私をコトバケは不思議そうに眺めていたが、白紙の調査票を認めると納得したように目を細める。

「進路希望調査、ね。なるほど、そんな時期ってことだ」

「そうですよ、何を書けばいいのやら」

「君の学年ならまだこれって、とりあえずじゃないのかな?そんなに難しく考えなくても」

「それはまぁ…そうなんですけど」

 言葉を濁す私にコトバケはそういうとこが真面目だよねと、可笑しそうに笑った。他人事だと思って随分な態度である。

「というか、貴方はどうなんですか?」

「僕?」

「そうですよ、そちらは私と違って進路って本格的な話でしょ?教えて下さいよ、先輩」

 ちょうどよいと目の前の先輩に教えを仰ぐと、彼はぱちぱちと目を瞬かせた。

「先輩?」

「え、いや、だって、先輩じゃないですか。三年生はもう進路って、かたまってるでしょ?」

「ああ、そういうことか…」

 コトバケは困ったように眉を下げて笑った。

「僕は大学に進学するわけではないから、君の参考にはならないんじゃないかな」

 少なくとも進学するつもりなんだろうと、彼はなんてことのないように話す。

「あ、先輩は就職組でしたか」

「まぁ、そんなとこかな」

 この学校では珍しいとはいえ、就職する人も一定数はいる。なんとなく、コトバケが就職組であることは意外な感じがするが、そういうこともあるだろう。

 にこり、としたままそれ以上は語らないコトバケを見ていると、あまり触れられたくないのかもしれない。人の事情は色々で、それに無粋に関わるつもりも、そんな勇気もない私は、大人しく彼の進路という話題からは遠ざかり、自分のことを考える。

「にしても、どうしようかな」

 もはや溜息しか出ない。

 ささやな夢も、とりあえずの目標もない私は学部ですら迷うレベルで、大学名なんて知りもしない。漠然としたみんなからおいていかれるのは嫌だなという気持ちと、自信もないから適当なとこでおさまりたいなという気持ちだけが同居している。

 相変わらずの優柔不断さにもはや呆れもしない。何かを決めれる人達はいつだって真っすぐで眩しくて、私には羨ましい。

「友達とかはどうしてるの?」

 見かねたコトバケが助け舟のつもりだろうか、そんなことを尋ねてきた。

「どうって…多くは私と一緒ですかね。自分の今の学力でいけそうなとこを無難にうめてくるんじゃないですか?学部とかも、まぁつぶしがききそうなやつというか…」

「あはは、びっくりするくらい不誠実というか、テキトウが過ぎるというか」

 自分の将来なのにね、えらく簡単に投げ捨てると、コトバケは皮肉たっぷりにつぶやいた。珍しい物言いだが、実際に進路に向き合って何かを決めている彼が言うと、とてもいたたまれない気分になる。

「別に…みんなそんなつもりはないんだとおもうんですが……」

 というより、そんなに考えていない。そのこと自体をコトバケは不誠実だと言っているのだろうが。

 それでも、だって、

「何がしたいのかなんて、わかんないですもん」

 思う以上に子供じみた拗ねたような声音になってしまったことに、自分でも驚く。わからないと駄々をこねる、それはまさしく子供だと、ますます嫌気がさす。

 そんな私にコトバケは苦笑をして、たしなめるように問いかけた。

「何がしたいか、か。本当にそれだけかい?」

「え?」

「したいことがわからないなんて、そんなことは多分ないよ。みんな毎日したいことだらけだろう?なんのしがらみもなくしたいことをしてごらんといえば、みんなそれなりに何かを選ぶんじゃないかな」

「それなりに…ってそんなわけにはいかないです。進学するにはお金とか、場所とか、色んなことを考えなくてはいけなくて、なにより、いけるかどうか……そもそも競争なんですよ?学力とか能力とかそういうものがいるんです」

「そこだよね」

 まさしくそうだと彼は頷く。

「何がしたいかわからない、じゃなくて、君たちの多くは何ができるかわからなくて悩んでるように僕は思うよ」

「…………」

 そうだ、そうである。

 選別される私達には、残酷なくらい何もない。人に誇れる能力が、得意なことが。選ばれるに足る理由がない。

 好きなだけではいけないと、そう心が叫んでる。脳が理解している。

 だから、足がすくむ。何も選べず、徒に時が解決してくれるのを、待っている。そうすれば、良くも悪くも何かに選ばれている。それが自分の望むものであるかはさておいて。

 でもそれって、普通なことだ。多くの人間はそうである。私達には何もない。

「だったらますます………こんなの書けないです。できることなんか……」

「あはは、卑屈。まぁそうだね、そうだけども、そうではないよ」

 相変わらず、謎掛けのようである。他人事だと思って腹立たしいなんて、見当違いな怒りがわく。見当違いだとわかるから、私は黙って彼を見やる。

「誰も君にオリンピック選手になれとか、総理大臣になれとか言っているわけじゃないよ。僕達ができることは、いつだって身の丈に応じたことだけだ。悔しいことにみんながみんな才能があるわけではない。多くの人は並一通りだ。まぁ、それでもね」


 ー自分の身の丈を勝手に諦めるのは違うよ。


「努力したって無駄なことはある。夢は叶わないし、一番にはなれない。でもね、自分が自分の身の丈に応じた精一杯を放棄するのは怠慢だ。あの人はすごいなと羨みながら、ああはなれないと妬みながら、自分にできること、すべきことをしないと。それが自分への誠意だよ。白紙の回答を無難にうめるようなことばかりをしていると、それが自分の最上になる。君たちを並一通り以下にしているのは、君たち自身だよ」

 他者の評価でもましてや進学先の評価でもないとコトバケは呟く。

「だいたい、オリンピック選手だって、オリンピックの中で更に競争があって、総理大臣だって、総理大臣になるために何度ふるいにかけられたわからないだろう?すごい人は確かに才能があったのかもしれないけど、何もしてないわけではないさ。まぁ、色々いったけどーようはね、とりあえずできるかは、さておいて、したいことをしてみなよ。それに向かって頑張ってみなよ。それがどんなことだって、かまわないのだから」

 単純なことだろうと彼は笑った。できないと、したくないと駄々をこねる子供ではなく、したいことに努力する、ただそれだけの大人になれとたしなめられた。

 単純なことが、すとんとその時の私には響いたのだ。

「ほら、君だったら、絵が得意で好きだろ?美大に行くとか、デザインの仕事をするとか、選択肢なんて無限にあるよ」

 それをできないときめつけなければ。

 そういえば、と思い出す。あのクラスの片隅で、絵が得意で美大を目指すということがなんらかの罪のように糾弾されたことを。あれは正しく糾弾だった。いちぬけた、なんて許さない。一緒にぬるま湯にずぶずぶひたれという、怠惰な割にそういうことにだけ執拗な仲間意識。

 あの時私は自分の好きなものを諦めた。あのまま言葉を続けていたらあの時の私はーきっと、絵が好きじゃないなんて、そんなことをいっていた。できるかどうかはさておいて、好きなものをし続ける、そんな道だって確かにあったはずなのに。できないことをするのは無駄だと、教室の空気感に溶け込むことを選んだ。

「美大…興味ないわけではないんですけどね」

「そりゃそうだ」

「でも、なんか、そういうこと、言いにくくて、言っちゃいけないみたいな雰囲気があって………」

 好きなものを好きだということ、好きでい続けること、それが一番難しいと今の私にはわかっている。あの時、傷つけたのは、自分のそういう柔らかなところだ。

 ぎゅっと、気がつけばシャーペンを握る手が白い。己の肌の白さを自覚すると、急に手のひらに食い込んだ爪が痛くて、指を解いた。いつだって、痛みは鈍く、後で感じる。そうして、大切なことを私達は見落とすのだ。

 うまく話すこともできない私は、そのまま口をつぐんでうつむいた。視線の下にある調査票は相変わらず白いまま。うめることが正しいとか、うめないことが正しいとか、もうわからない。

 ふふっと、コトバケが苦笑する気配があった。彼の笑いはいつだって柔らかくて、そこに嘲りや侮りはない。だから、私はまた、甘えてしまう。私がわからないことを、言えないことを、赦してくれているなんて、そんな、気持ちで。私は彼の言葉を待つ。


「大丈夫さ、それは世界の全てじゃない」


 それは片隅の世界に響く言葉。

「君を悩ます友人関係も、教室の空気感も、ままならない将来も、知ったような顔の大人も、いつか全て過去になる。ここは君の世界の全てだけど、ここは世界の全てではない。正しく箱庭でしかなくて、いつか、どうでもよくなるーそんなものでしかない」

 どうでもよくなる、その言葉の割に、コトバケはそれらを慈しんでいるみたいに、大切そうに話す。

「所詮、今の悩みなんてちっぽけなものってことですか?」

「ちっぽけ……ちょっと違うかな。それは価値のあるものだ、今の君にとって大きな悩みだ。それをちっぽけというのは少し違う。だけどね、それが全部ではない。君の世界はここにしかなくて、ここでしか生きられなくて、だから悩みが重たくて、足枷にしかならないと思っているなら、それは違うということだ」

 そんなことはわかっている。頭では理解している。それでも目の前の世界はここにしかないから、ここでしか生きられないから、頭が重い。友人関係も、教室の空気感も、大人も、本当は全部いらないものなのかもしれないと思いながら、すがらずにはいられない。

「そんなこと……わかんないです」

「ふふっ、そうだね、僕の言葉はとても無責任だ」

 それは少しだけ自嘲するような響きを持っていた。

「それでも、覚えていて。いつか、何でもなくなる。そんなこともあったねって、過去になる。逃げられないのはいつだって、自分自身だけなんだから。まずはそれを大切にしないと。周りの関係や意見で、自分のことを蔑ろにしては、いけないよ」

 僕はそれを知っている、といつかと同じように、大人びたコトバケは、相変わらず、ずるいくらい落ち着いていた。

「少し年上なだけなのに……本当に生意気ですね」

「うーん、君の発言は生意気とはいわないのかい?」

 肩をすくめる彼を無視し、私は白紙の調査票に向き直る。

「………もう少し、考えてみます」

「ーそう」

 深く頷く彼はうっそりと微笑んだ。

 その日私は、進路調査票の提出期限を諦めた。同時に、白紙の紙を無難にうめるということそのものもー諦めたのだった。



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