第9話

 瑞樹と柳先生。

 私の希薄な人間関係の中では奇特な会話をしたその日、私はコトバケに会いにいかなかった。絵を描くことも、ノートに言葉を綴ることもしなかった。

 何故って問われると、困る。人質に取られているノートの話を忘れたわけではない。コトバケは、用事がある日はかまわないとも言っていたから、約束を破ったことにはならないだろうが、そこまで、深く考えたわけでもない。

 コトバケと連絡をとる手段がないから、黙って行かないという選択になったが、連絡先さえ知っていたら普通に今日は帰りますと言っていただろう。

 明確な理由はない。ただ、気が進まなかった。

 瑞樹達の会話は、少なからず私を動揺させた。気持ちが疲れた。良いとか悪いとかではなく、感情の消費量を越えてしまったような、そんな疲労感だった。

(気持ちの使いすぎ?)

 人の感情には許容量があって。他人に傾けられる気持ちにも、同じく容量がある。コップの中に満たした水を全部使い果たした。だから、それ以上は気持ちを揺らがしたくなかった。それだけのことだった。

 そうはいっても、なんだか消化不良なものを抱えたまはまであることは事実で、今日も、気持ちは落ち着かない。

 休日をはさんだせいで、旧校舎の音楽室は、急に他人みたいな様相に感じてしまった。

(というか、いるんだろうか……)

 私が気まぐれで来なかったとの同じように、コトバケも、いないことがあるのだろうという、ある種の当然にようやく思い付く。

 それでも、何故だが、私は今日彼に会いたかった。私のなくした言葉の亡霊だという彼に。


 ー私の言葉に、会いたかった。


 そんな気持ちになったのははじめてで、少し浮わついた心のせいか、柔らかいところを踏んでいるように、足元がふわふわとしている、そんな錯覚を抱いていた。

 心の音がとくとくと脈打つのを感じながら、私は今日も音楽室の扉を開ける。


「おや、今日は来たんだね」


 西日が差すその場所で、彼はいつも通りに笑った。

 さぁ、四日目をはじめよう。

 私の言葉を聞いて欲しいんだ。


 ー†ー


「もう、来ないかと思ったよ」

「そんなことはしませんよ。私のノートが人質です」

「そういえば、そんなこともあったね」

 コトバケは、困ったように眉根を寄せた。自分が言い出したことなのに、随分と適当なことだ。

「まぁ、でも、本当に、君はもう来ないかとも思っていたんだけどね」

「どうして?」

「随分と、不躾なことをしている自覚はあるからね」

「不躾……?」

「ん?ふふっ、君ってほんとそういうとこ、あるよね」

 どういうとこだ。

「来てくれて、良かった。僕は嬉しいよ」

 私の心の中の疑問には答えず、コトバケは嬉しそうな笑顔でそう言った。真っ直ぐ過ぎる言葉は、例えば教室とかではあまり聞かないもので、どう反応すればよいかわからない。わからないから、何も答えないままでいると、そういえば、と思いついたように彼は首をかしげる。

「この前来なかったのは何か用事かい?あ、いや、そういうこともあるんだろうけど、なんというか珍しいように思ってね。そもそも用事があったなら、前日に言いそうだし君」

「ああ、それはー」

 ふ、とそれ以上の言葉がでない。どう説明すればよいのか分からず、思わずコトバケをじっと見つめる。

「なんとなく気分がのらなかったというか…」

「何かあったかい?」

「何かっていわれると…何もなかったんですけど、ただ、少しだけ疲れぎみだったんで、帰ったんです。クラスの子とか、先生とか、なんだかこの前はよく話したなぁって」

 それは普通のことで、何時もと同じことなのだろうが、私の体感としては何時もとは違う何かだったのだ。

「へぇ…そういえば、君のそういう人間関係ってきいたことなかったね。うん、今日はその話をしよう」

「え?」

「何時もと違うよ。単純に君の周囲の話をしよう。友達とか、先生とか、家族とか。ああ、勿論、君のプライバシーには配慮したうえでね」

「えぇ…」

 思わず不満の声が出る。

「人間関係とかいわれても…」

 コトバケが想像がつくほど、私の関係性には色がない。

 上滑りの言葉を交わすだけのそれを、友人と呼ぶなら、教室の中の私は孤独ではなく、薄くも他者との縁で結ばれている。それでも、それだけだ。そこに温度はなく、色はなく、モノクロアウトな景色だけを描いている。

 先生を筆頭に、大人とだって同じである。いや、距離感がある分よりいっそうだ。

 私の日常は驚くほど熱量がない。顔のない人達の集合体で、私自身も同じで、例えば、その中の一人が誰かとすりかわったって多分影響がない。

 私は劇的ではなく、私達は劇的ではない。

「語るほどのことがないんですが……」

「あはは、そんなことはないはずだよ。君の気持ちを揺るがすものがあるなら、それで十分だ。ほら、まずは昨日の出来事でも語ってごらんよ」

「昨日って……」

 それこそ特筆すべきことはない。

「昨日は、別にーああ、好きなものの話をしましたよ。多分、友人と」

「たぶん、ゆうじん?」

「相手がどう思っているかはしりませんので」

 そして、私がどう思ってるのかも分からない。

「まぁ同じグループの人です。席が前後で、よく、本をかしてくれて、だから、色々と話すんですけど、」

 そういえば、彼女は何も私に押し付けてこなかったな、ということに気づく。本をかしてくれる、けれども感想も、感謝も特に求めてこない。なんだったら、私が彼女に本をかしたこともない。

「熱量のない、関係です」

 それはやっぱり、彼女の期待値がゼロベースだからだろう。ゼロベースの彼女にとって、永遠に1にならない関係を紡ぐことの意味は、いったい何なのだろう。

「……それで、何だか好きなものの話になって、ああ、メロンパンがー」

 口のなかにメロンパンと紅茶の味がした。勿論錯覚で、思い出した記憶が連想させただけである。

「ー熱量がないなりに、何故だかそんな話をしただけです」

 たいして面白くもない単なる事実を話しているだけだが、コトバケは、楽しそうに笑っていた。

「何がそんなに楽しいんですか?」

「いや、君もちゃんと教室の中で関係を築いているんだなって思ってね」

「そりゃ、社会で生きているんだから、当たり前ですよ。孤立して、浮いてしまってって、その方が生きづらい。それなら、適度に関係性を気づかないと」

 薄くても、息苦しくても。

「そうだね、君の言う通りだ。僕らは一人では生きていけない。例え独りに慣れても、例え孤独なままでも、ひとりぼっちではいられないね。それでも、君は難しく考えすぎなんだよ。事実はもっと単純だ」

 明快かつ、安易でよいと彼は笑った。

「同じ教室で、前後の席で、互いの話をして、自分のー君の好きなものの話をした。本をかりた、相手の好きなものをしった。ねえ、好きなものの話ができて、互いに話して時間を共有できるーそれは友達と言えるものじゃないかな」

「……そんなに簡単なものではないと思います。一緒にいるから友達だなんて、単純すぎます」

 友達じゃなくたって、一緒になれる生き物だと私達は知っている。同調できる、共感できる、流される、無視できる、無関心で、無関係でいられる。誰かの横で笑いながら、その笑ったことを無価値なものにできる。

「教室のあの空間で、ただ一緒にいることの強迫観念を、貴方だって知らないわけじゃないでしょう?傍にいたいから、一緒になってるわけじゃない。一緒であることが大事だから傍にいるんです。誰でもいいんです、ひとりが、嫌なだけなんです」

「頑なだなぁ。それでも君と誰かの間に情がないわけではないだろう?手探りで重ねたそれをね、人はいつか友情というんじゃないかな。…いや、そんな引いた顔しないでよ」

 びっくりするくらい、恥ずかしいことを淡々と言うコトバケに思わずぎょっとした顔をしてしまう。

 前々から、コトバケの言葉は教室で聞くそれとは違って、私が話すそれとも違って、どうしたらいいかわからなくなったが、今回はそれが更に顕著だった。

 たぶん、コトバケの言葉は正しい。真っ直ぐで、眩しくて、正しすぎるほど正しい。けれどもそれが、弱さに、もっというと弱味になることを知っている。そんなことみんなわかっているから、私達の言葉はいつだって上滑りなのに。彼はやすやすと深淵を示した。

「そんなことを、言いながら、よく、社会で生きていけますね」

 そんなことを嘯きながら。

 コトバケは、一瞬虚をつかれた顔をしたが、やんわりと瞳を細めた。

「……、そうだね、だけどもね、そんなことも言わないことをいつか後悔するときが来る。そんなことすら言えなかったことが、いつか致命傷になる。僕はそれを、知っているだけだよ」

 君たちより先に、知ってしまっただけだよ。

 そう話したコトバケは、何時も以上に老成したように見えた。その瞬間、確かに私は彼が同じ年代の学生であることを忘れた。そして重ねたーくたびれた白衣の大人の姿を。

(ああー似ている)

 コトバケのその眼差しは、あの傷ついているくせに諦めたように呑み込んだ、大人のー柳先生のそれだった。

 私はそれが苦々しくて、率直に言えば腹ただしくて、子供のように責め立てる。

「なんですか、ひとりだけ、大人みたいな顔をして」

「うん?ああ、そうだね、うん、僕は未だ大人になれない、そんなことはわかっているよ。わかっているから、そんな風に睨まないでよ」

 コトバケは困ったように苦笑したが、その言い方もなんだか、聞き分けのない子供をたしなめるように思えて、私はますます拗ねた言葉ぶりを止められなかった。

「なんなんですか……貴方も、柳先生も、こっちを、まるで子供みたいに」

「高校生はまだこどもだよ……って、ん?柳先生?」

「え?知ってるでしょ、化学の柳先生ですよ」

「ああ……」

 すっと瞳を細めたコトバケは、器用に片方の眉だけをあげてみる。

「そりゃあしってるけど、何で突然柳、先生の話に?」

「なんか今不自然に途切れませんでした?あれ、コトバケって先生のこと普段呼び捨てなんです?なんか意外です」

「いや、別にそういうわけではないんだけど……」

 高校生が日常会話で先生を呼び捨てにするのは、残念ながら普通の話ではある。勿論本人の前では、取り繕うが。それでもコトバケがそういう風に話すのは意外な気持ちがした。

「ふふっ、教室のコトバケを垣間見た感じですねぇ。もしかして、猫被っちゃってます?」

「……急にからむね、君」

「私のことだけ、話すのは面白くないじゃないですか」

「それは…まぁ、普通はそうだね」

 むしろ今まで質問しなかったことの方がおかしな話だ。

 それでも、私は教室のコトバケのことは、本当は、なんだっていいのだ。私にとっての彼は放課後の音楽室のこのコトバケだ。

「冗談です。コトバケはコトバケです。私はそれでいいです」

「…そう」

 コトバケは多分、安堵したのだと思う。彼には珍しい無防備さに、動揺を読み取るが、私はあえて気づかないふりをした。それでいい、それでよかった。

「はい。ああ、柳先生のことでしたね。担任なんですよ」

「担任、ね。僕はあいにく受け持ってもらったこともないから、そんなに詳しくないんだけど。それでも、君から担任の先生の話を聞くなんて、それこそ意外かな」

「私だって意外ですよ。担任となんて普段は全くからまないです」

「まぁ、先生とよくからむ人って、ある意味限られてるよね」

 大人と子ども、教師と生徒。私達の境界線は頑なである。多くの人にとって、担任の先生の姿は窓の向こうの景色みたいに、他人事で、上滑りだ。少なくとも私にとってはそうだし、たぶん、柳先生にとっても同じである。

「なんだか、わかりませんが、先生から話しかけてきたんですよね」

 ことの経過を淡々と話す内に、昨日は無遠慮なくせに中途半端で無責任だと思った先生のことも、違うように思えてくるから不思議だ。

「たぶん……気にかけられたんだと思います」

 今思えば、そうなのだろう。

 半端な先生の、半端な言葉は、それでもそこになんらかの情を介していた。

「昔の先生に似ているそうです、私」

「そりゃあ、みんな誰かに似ているさ。多かれ少なかれ誰かに似ている。自分に似ているなんて、そんなものは感傷だ」

「そうかもしれませんね」

 コトバケにしては少し辛辣だ。感傷だとわかっていても、その感傷を掬い上げたくなる気持ちを、コトバケはわかっているはずなのに。

 ー言葉の亡霊、そう名乗る彼は最たる感傷である。

「大人なんですから、感傷に浸りたいこともあるんじゃないですか」

「おや、ずいぶん物わかりがいい、君の方が大人みたいだ」

「そういうわけではないですが……柳先生、なんだか寂しそうなんで」

「寂しそう?」

「いや……、なんでしょう?悲しそう?ちょっと、上手く言えないですが」

 それでもあの人は痛みを抱えていた。それを驚くほど丁寧に、透明さで塗りかためながら、かつての、自分の感傷を掬い上げようとしていた。

 私を介した代償行為。救いたかったのが誰かなんて分かりきっていた。

(そこにほんの、少しでも、私の存在があることも、わかっている)

 だから、なにも言えない。徒に伸ばした手を、臆病に引っ込めた彼の狡さを、私は責めることができない。それは自分にもあるものだ。

「いつか私もあの人のようになるのでしょうか」

 痛かったことを、傷ついたことを、なかったようなふりをして。それでもふと、思い出す。なかったことにできないまま。

 感傷を引きずりながら生きていく。

「そんな風になるのでしょうか」

 いつかこの息苦しさがなくなるのではなんて、そんな夢は描いていないが、それでも大人になることはそれらを諦めて、なんでもないものにすることだと、期待していた。

 この放課後の音楽室もノートに踊る言葉も、空の絵も、私のモラトリアムだと正しく理解している。いつかどうでもよくなって、いつか悩まなくなる。

 大切だと思ったものを損ないながらも、人は薄情に生きていけるものなのに。そのはずなのに。

「私はずっと、こんなままなんでしょうか」

「ーさぁ、その答えは君にしかわからないよ。君はどう思うんだい?」

「私は……、」

 続く言葉は、なかった。

 期待値ゼロの瑞樹のようになることも、息苦しい子どもが息苦しいまま成長した柳先生のようになることも、どれも私ではない気がした。

 私は私のままでしか、いられない。

「言い方をかえようか。君に僕は、コトバケは必要かい?」

「え……、」

 私の言葉の亡霊は、笑いながら問う。

「その抱えられない言葉を、なんでもないと、なかったことにだってできるだろう。だけどもそれを、どこにも吐き出せなくても大事なものだと抱え続けることもできる。どちらでもいいんだ。君も、君の友達も、先生も、選ぶのは自分自身だよ」

 そのどれもが間違いじゃないと、コトバケは肯定する。未練と感傷のかたまりのくせに、私の殺した全てを代弁しながら、それが必要なものなのかを今更ながらに彼は言う。


 ー私と貴方が話している、それがほとんど答えだと言うのに。


「いいんだよ。君はこの亡霊を抱えていなくてもいいんだよ。なくしていいし、なくさなくてもいい、折り合いをつけて消化して、なんでもないといって、上手に生きていくことだって必要だ。ああ、でもねー」


 コトバケは笑んだ。

 それは透明な笑顔だった。だけど、痛みを抱えた笑顔だった。それはやっぱり、柳先生に、似ていた。


「僕はね、君や先生の、色んなものを引きずって生きていくありかたを、好きだなって思うんだ」


 吐息のような言葉だった。

 それははじめて私が聞いた、彼自身の言葉だったのだ。


 問 私にコトバケは必要か。

 自由記述。欄外の問題とし、採点対象外とするが、心の許す限り考察せよ。


 解答はー求めない。




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