第8話
「最近、いいことでもあった?」
「え?」
昼休み。何時ものグループでお昼ご飯を食べているときに、ふと、そんなことを聞いてきたのは瑞樹だった。五人ほどのグループで、なんとなく教室の前の方を陣取って、机を寄せている。それでも5人で会話をするのは案外難しくて、最近は気づけば、3人と2人になっていることが多かった。
他の3人がなんだかよくわからない雑誌の話で盛り上がっているのを尻目に、私は購買で買ってきた紅茶で、本日のお昼ご飯であるところのメロンパンを流し込む。パン屋のものではなくて、近所のスーパーで買ってきたメロンパンは、安っぽい味がするが、その安っぽさが私は好きだった。
「なんか、ちょっと楽しそうというか…なんだか、珍しいものも食べてるし。メロンパン、好きなの?」
「好きというか…うん、まぁ、好きかな」
正確には好きだったことを思い出した。小さな頃、スーパーで母親にねだったことがきっかけだったか、保守的な私は同じものを繰り返し買っていた。けれども、なんだかそのうちあれが美味しいとかこれがいいとか、過ぎる情報によくわからなくなって、新商品のサンドイッチだとか、食べたいのかどうかもよくわからないものに埋もれていった。それを掬い上げたのは、スーパーに買い物に行ったときに目に入ったそれに、ふと思い出しただけだ。好きだったものだと、それが過去形ではなかったことは、実際食べて明らかになったわけだが。
「メロンパン、昔から好きなんだよね、最近食べてなかったけどさ」
自分でも驚くほど素直に言葉がでた。飲み物も、このメロンパンにイチゴ・オレはないと、皆に珍しがられながらも、甘さを控えた紅茶を選んだ。どちらも、私の好きなものだ。
好きなものを食べているだけで気分は浮上する。確かにこれは、いいことだ。だから柄にもなく瑞樹の質問にあっさり頷いたが、それを聞いた彼女は私以上に驚いたように目を見開いた。
「祈が好きとかいうの珍しい」
「あはは、そうかな?私だって普通に好きなものくらいあるよ」
当たり前でしょ、と笑う。瑞樹は少し呆れたみたいに、ため息を吐いた。私のことはともかく、彼女のそういう態度はそれはそれで珍しかった。
瑞樹は何時も淡々としていて、よくも悪くも他人に気持ちをよせるというか、感情移入をするタイプではない。基本的に無関心で、他人に対する期待値はゼロベースだ。そのため、呆れるとかそういったことはそもそもしない、はずだ。
(それはそれで、なんというか、だなぁ)
私とは違うベクトルで瑞樹の人間関係も、また、温度のないようなものに思えた。
「ああ、そうだ、この前みーちゃんがかしてくれた本。まだ途中なんだけど、途中でも面白い。展開よめなくて、やっぱりあの人の本はいいね」
「楽しんでるようで何よりなんだけど…ほんとにどうしたの?」
「え?」
「祈って、本を読んでも自分から感想なんか言わないじゃない。かした本に対しても、何時も、ありがとう、面白かったって一言だけ」
「…そうだっけ?」
「そうだよ」
まぁそうなんだろうと、私は納得した。本を読んだ感想なんて、自分の一番柔いとこをさらすようなものだ。何かにココロを寄せる自分を、気持ちが揺さぶられる自分を、伝えることなんて無理だった。
それでも、
「本の感想はともかく、みーちゃんが、本をかしてくれたおかげで、まぁ、楽しかったというか」
嬉しかったというか。
貴女の温度の低い優しさに、誠意を示してみたくなっただけなのだ。
いつもの不誠実なそれではなくて。
「ーそう、どういたしまして」
別にありがとうを言葉にしたわけではなかったが、瑞樹は薄く笑ってそういった。
ちらりと横を見やると、彼女はそれ以上は語らずもくもくと手作りらしきお弁当をつついている。教室の座席の前後ではなく隣同士のこの距離感と、会話のない沈黙は、いつもなら居心地が悪くて落ち着かないが、はじめてすとんと自分の中に落としこむことができた。
(そうかー、はじめてしった)
私はこの、色んなことが低体温な彼女のことが、たぶん、人として好きなのだ。
不思議な心地よさを感じながらメロンパンをまた一口頬張ると、
「祈!!祈はこのバックどっちがいいとおもう?」
「え?んー?」
私が普段手を出さない雑誌で和気藹々としていた他の子達が、唐突でありながら当然のように話しかけてきた。私にはどちらでもよい鞄のことを、死活問題みたいに話し合って、今度買うものを決めかねているらしい。どうやら三人のなかで意見がわかれていて、私には何の決定権もないのに巻き込む。
その傍若無人さに、何を選択すれば正解なのかもわからない空気間に、ずっと私は怯えていた。けれども、いまなら素直にそんな彼女たちのことを、女の子らしくて可愛らしいと思う。
何が正解かではなくて。私ならどうかと考えるだけで、世界は単純化された。
息苦しい風景が、少しだけ色鮮やかに見えたのは私の気持ちの問題だ。それを正しく理解しながら、私は下手くそに、苦笑してみせた。
仕方がないなって、でも、嫌じゃないんだって、ココロをそっと、こめてみた。
「私はこっちが好きだよ」
ねぇ、コトバケ、今日の私は正解ですか?
ー†ー
お昼休みの後の授業は化学だった。
私の通う学校では、授業準備が必要な時は日直がそれを行うことになっている。
今日が偶然日直だった私は、実験の準備をするべく、一足先に教室をでていた。
「柳先生、準備にきました」
「ああ、ありがとう」
職員室で、化学の担当兼担任であるところの柳先生に声をかける。
彼はいつも浮かべている頼りなさそうな笑顔でへらりと答えた。
柳先生は、三十代にもいってなさそうな若い先生だ。少しくたびれた白衣と、猫背。もやしみたいにひょろりと背が高く、細い。縁のない眼鏡の奥の眼差しが、いつも困っているみたいな表情だから、何をしてても弱々しそうに見える。けれども穏やかで柔らかな雰囲気のせいか、生徒には比較的人気だった。もしくは、なめられていた。
「悪いね、お昼休みなのに」
「いえ、別に、日直なんで」
「今日は実験の準備と、あと、このプリントをとりあえず運んでほしい。重たくてごめんね」
そう言いながらも、ほとんどは自分で持ってくれるので、私は全く重たくない。なんだか逆に申し訳ないくらいだが、積極的に主張する気にもなれず、与えられたプリントを抱えて黙々と柳先生の後ろを歩く。
担任とは言え、特に問題もおこさない生徒であるところの私は、一対多数の関係性でしかない。そのため、こんなに急に一対一にされると、気詰まりだ。
それは先生も同じなんだろう、話題を探しているみたいに宙を眼差しがうろうろとしている。
大人なのに、そういったことが取り繕えない。だから余計に頼りなくみえるということを、彼は知っているのだろうか。
「そういえば、神前は美術部だったな?」
とってつけたような話題提供だが、私は浅く頷いた。
「はい」
「美術の顧問の先生が誉めてたぞ?すごく、いい絵を描くって」
「は、い、ありがとうございます」
面と向かって誉められても、どう答えるのがいいのかわからない。同年代の子達とも上手く付き合えていない私は、一回り以上も歳の離れたこの人に、どんな応答をすればいいのだろうか。
理科室の方は特別教室棟になるため、どんどん、喧騒から離れていく。静けさが、余計に私を落ち着かなくさせた。
ふ、と気まずさに耐えられず眺めた窓の向こうに旧校舎がみえる。こうしてみると、外観がやっぱり古ぼけている。取り壊させるのも道理だと言えた。
「懐かしいなぁ」
私の視線の先を追った柳先生がそんなことを呟くものだから、つい訝しげに見上げてしまった。
「懐かしい?」
「あ、知らないか。僕は、実はこの学校の卒業生でね。最もその頃は、今は旧校舎って呼ばれているほうが、僕らの校舎だったんだけど」
「そうなんですか」
はじめて知った事実だが、そんなこともあるんだろう。それでも、私には大人になって、社会人になって、もう一度学校に戻ってくるという気持ちが上手く想像できなかった。
「学校、好きだったんですか?」
「え?」
柳先生は私の問いかけにひどく驚いた顔をした。
「え、と、わざわざ先生になられたということは、少なくとも学校とか学生生活とか、先生にとっては、いいものだったのかなと思って」
深く考えたわけでもない問いかけだったが、もしかしたら不躾だったかもしれないと思い、言い訳じみた言葉を続けてしまう。
「ああ、なるほどね、まぁ確かに学校を嫌いだと思ってる人は普通学校には戻ってこないね」
柳先生はやんわりと笑った。
「僕にとっても思い出深いものではあったよ」
「そうです、か」
「まぁでも、思い出とは色々変わってるけどねぇ。校舎なんて最たるものだし、例えば制服とかも変わってるしね」
「制服?」
こつこつと、足音が響く廊下を淡々と歩く。先生が前を向いてしまっているので、揺れる白衣の裾を目で追った。
「女子の方が変わったかなぁ。リボンの色がね、違うんだよ。もっと昔は、古典的な赤いスカーフだったけど、いまはほら、かなりおしゃれだよね」
そういわれて、私は自分の胸元を眺める。紺色のセーラー服のなかでシックな印象を受ける、同じく紺色に白い線が入ったそれは、スカーフというよりも、ほとんどタイみたいだ。全体的にモノトーンな学生服は、いつも陰鬱な印象を受けていたが、これはおしゃれといえるのだろうか。
私の失礼な印象をよそに柳先生は、なにかを思い出すように虚空を見上げる。
「男子はねー、まぁほとんどかわってないかな。知ってる人がみたら、ああそうなんだって気づくくらい」
「はぁ、そうですか」
「まぁ、それでも、やっぱりときどきとても、懐かしい気分にはなるんだけど」
いつのまにか到着した理科室の扉をあけて、柳先生は目を細める。
「そういえば、神前はなんでか、旧校舎にでいりしてるんだってな」
「え?」
「この前、お前を探しにいったら、クラスのやつが、言ってたぞ。神前は旧校舎で部活動だって」
「ああ、はい、そうですね」
「あんなとこに、何か気になるものあるかい?」
「気になるっていうか……、単に静かで描きやすいの
で」
「それでも、好んで旧校舎に出入りしているのって神前くらいじゃないかなぁ」
柳先生は不思議そうにしながら、素早い手付きでプリントをさばいていた。どうやらグールプごとに分けているらしいことを察して、わけられた山を実験用の机の上においていく。
好んでといわれるとわからないが、別に旧校舎に出入りしているのは私だけではない。文化系の部活の部室が残っているため、いくつかの部屋は日常的に使われている。先生が指摘するほどのものではないように思いながらも、そうかしれませんねと、適当な相槌をうった。
「旧校舎にはお化けがでる、なんて噂もあるくらいだしな」
「おばけ?」
「あれ?知らないか?けっこう有名だと思ったんだが。だから旧校舎ではあまり遅くまで残るなっていわれている。実際ほとんどの生徒は遅くなると旧校舎に寄り付かない」
「はじめてききました」
思わず目を瞬く。お化けときいて、コトバケを思い出すが、あんなに質感のあるお化けはいないだろう。
ただし、確かに旧校舎は下校時間より前に人の姿がなくなっていく傾向にはあった。情報弱者な私だけが知らないまま取り残されていたのかもしれない。
(コトバケは、しってるんだろうか……)
なんとなく、私と話す前から、彼は旧校舎に出入りしているんだろうなとは感じていた。とはいえ、こんな話をしたら、僕がそのお化けだよとでも言われそうだ。
「ま、お化けなんてみんな信じてないだろうけどね。それでもひなびた印象はうけるし、夕方以降は物寂しげだ。だからかな、なんとなく、寄り付かない」
それはそうなのだろう、と思う。
多くの人は、人の少ない校舎で、静けさの中で、自分のたてる音だけを感じる。そうして深まる己の影に、なんだか、冷たいものを感じて、夕闇の中を足しげく家路につくのだ。
私は、黄昏時の、深まる夕闇を、眩しい西日を、いつだって好ましく思っていた。あのノスタルジックな箱庭は、自分の影にさえ怯えなければ、安全な場所だと知っていた。
私と同じ、夕暮れ時の彼ーコトバケにとっては、どうなのだろう。彼のことはなにも知らないが、あの場所を優しげなものにしているのは、彼の存在もあってのものだとわかっている。それは彼にとっても同じなのだろうか。
「まぁでも、私は嫌いじゃないですよ。旧校舎。先生と違って、思い出の場所ってわけではないですが」
「……そうか」
気づけば笑いながらそういった私に、先生は深くうなずいて、微笑んだ。
「本当に、最近いい顔をするな、神前」
「え?」
微笑みながらも、なんだか困ったような印象をうける表情で、柳先生は手元だけは素早く動かし続ける。その目線は、決して私とかち合わなかったが、私はじっと見ていた。ことの真意をはかるために。
「ああ、勿論いい意味だよ。なんというか、お前はいつも真面目で大人しいけれど、そりゃあ、手もかからないけどな。あんまり表情が変わらないし、正直、ちょっと気になっていたんだ」
驚いた。先生と言えども赤の他人で、こっちは沢山の生徒の中の一人でしかない。よくもわるくも、目立たず騒がず大人しく。互いに印象の残らない関係性でしかない、教師と生徒である私を、それでも彼は個として捉えていた。友人関係の中ですら、集合体の中の部分でしかない私を。
「友達は……いるんだろうけど、そんなに楽しそうでもないし。いつも心ここにあらずって感じだったから」
「そんなことは、ないですよ」
「ああ、ごめん、僕が話したいだけなんだ。あんまり気にしないで。ただ、うん、最近の神前は、なんだか、地に足がついた感じがするよ。何かきっかけでもあったのかな?」
地に足がついたなんて、大袈裟だ。それこそ、お化けではないのだから、地に足はついている。いつだって、どこだって、行き場がないほど根付いている。
「いや、うん、ほんとごめん、別に答えて欲しいわけでもないんだ。ただ、神前、僕が、気になっていただけなんだ……」
それだけのことなんだと、相変わらず目線の合わない先生が、何を伝えたいのかは分からない。けれども、多分大事なことだと分かったから、私は黙りこんだ。子供のように行き場のない言葉を浮かべる大人に、私ができることはなにもなかった。
それでも、
(どうして?)
理由が欲しかった。
貴方と私の距離感を正しくはかるためのそれが。
その言葉の感情の色を知りたかった。
相も変わらず他者に問いかけることが苦手な私の気持ちは、声にもならず言葉にもならない。それでも、じっと見つめる視線の気配で、先生は察したのだろう。
ちらりと一瞬こちらを見やり、また、目線を反らした彼は、あらぬ方向をみながらぽつぽつと話す。
「なんでだろうな、神前、お前のそれを僕は知っている気がしたんだ。たぶんそれは、昔のー俺ーいや、昔の自分と同じように思えたんだ」
眼鏡の奥の瞳には、旧校舎と同じノスタルジアが滲んだ。それでも彼は凪いでいて、過去を過去として呑み込んだ、その寂寞を纏っていた。
ああーおとなだな、と私は感じる。
「ただ、知っているだけだ。大人しくて、何も言わない人間が、別に何も思ってないわけでもないってことを。言っていることが、表面にでていることが、全部じゃないってことを」
その当たり前を知っているだけだと。
「それからな、神前、言ってないからって、見せてないからって、それが大切なものじゃないなんて、そんなことはないんだよ」
そこにだって、大切なことはあるんだよ、と噛んで含めるように、穏やかに彼は言った。穏やかながらも、無理に落ち着かせたみたいな、そんな声音で。
私の方を見ない彼の瞳は、静けさだけをたたえていて、此処ではないどこかを見ているみたいに透明だった。その底に、きっといつかの自分を描いた、それだけのことだった。
ふ、と私達の目が合う。かつての子供は、今はなんでもないような大人の表情で、私を見やった。私と同じようだといったその人と私には、どうしようもない時の流れと、違いが横たわっていて。
一瞬、歪むように揺れた眼差しだけが、子供の彼の名残。瞬きの間に失せたそれを、もう一度探そうと目をこらすが、彼はにこりと、お手本のように笑むだけで。
「まぁ何かあったら、“先生”にも話してくれ。神前」
ーあんまりだ。
一瞬でも無防備な感情を向けられたら、それをなかったことになんてできないのに。
何でもないように、元々無かったかのように、その言葉ひとつで、境界線を引いた。その身勝手さを、卑怯さを、私は許容できない。
(ああー先生、それができないから私はこうなんです。それができるから貴方はそうなんです。)
かつての自分をお行儀よく呑み込んで、過去だと嘯く。
未だ、未だ、そうはなれない私を、かつての貴方を、覚えたまま。
その言葉の亡霊を抱いて貴方は大人になった。
それだけのことだった。
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