第7話

 二日目。

「今日は嫌いなものの話でもしようか。昨日とは逆だね」

「嫌いなものって…」

 昨日の会話を経て、残念なことに私のコトバケへの警戒心はかなり薄れていた。それはもう自覚しないとうことが無理なほどの薄れかただった。

 最も、音楽室での私やその行動を知られている時点で、これ以上の弱味はないといえた。もはやこれ以上取り繕えることもなかった。

 そのため私は淡々と空の絵の続きを描きながらコトバケと話していた。

「そうだよ、嫌いなもの。ちなみに今回は何かと何かを比較してこっちの方が好きとか嫌いとかそういうのは求めてないから。純然な事実として、嫌いと定義するもの」

「難しいですね」

「おや、嫌いなものがないのかい?」

「そんなことはー」

 ないはずである。

 好きなことばかりで溢れているというなら、日々はこんなに息苦しいはずがない。

「そう?例えば嫌いな食べ物は?」

「嫌いというか……、なんかこう、酸っぱいものは好きではないです。梅干しとか」

「じゃあ、嫌いな音楽」

「音楽?嫌うほど知らないんですけど……、しいていうならシャウトっていうんですか?あれは苦手です」

 昔一度クラスメートにすすめられて聞いたビジュアルバンド。メロディラインや歌詞がいいなと思っても、がなるようなシャウトだけは、耳に残り過ぎて苦手だと感じたことを思い出す。

「んー、そういうのじゃないな。僕の質問のしかたが悪かったかも。君のそれは嫌いというより苦手とか、積極的に選びとりはしないけど、程度のものだ。もっとちゃんと、嫌悪の対象は?」

「嫌悪って……」

 コトバケが発する、思う以上に強い言葉に困惑する。思わず、キャンバスを走る筆がとまる。

「ーわからないんです。わからないものを嫌うことはできないです」

 そうだ、わからない。私には分からないことが多すぎた。

 教室の、無言の同調圧力も、その中でもしっかりとした意見を言うあの子のことも、一見楽しそうに見える皆が何を考えているのかも、相性がいいとは思えない人と仲が良いあの人のこともー何が欲しくて、何が楽しくて、言葉を損なっている私のことも。

 わからないものは怖かった、怯えていた、だから余計にみないふりをして、大多数の何かに当たりをつけて、息をした。今日がつつがなくおわりますようにと、息を詰めた。

 たけどもそれは、別に嫌悪の対象ではなかったのだ。

「そう、君はそういう子か」

 ひどく幼いものを見る目でコトバケは、微笑んだ。

「どうやら君が一番苦手なのは、君自身のようだね」

 それはまだ他のものと比較するとよくわかるものだった。だから、嫌いだ。私は私の曖昧さに、いつだってうんざりしていた。

「そうかもしれないですね……」

「そう、分からないものは嫌えない、か。なんとも生きづらいことを考えてるね」

 ひとはー


 分からなくたってなにかを嫌えるイキモノだ。


 一瞬表情が見えなくなったコトバケが、ぼそりと口の中で呟いた言葉は、驚くほど温度がないように思えた。しかし、瞬きの間に彼はいつも通りの泰然とした笑顔を浮かべていたので、ほんとのところは分からない。

 気がつけば、音楽室から見える空は深い藍が滲み出している。ああー夜の気配だ、急な実感に心が落ち着かない。

「君のそれはきっと美徳だね。けれどもおぼえておいて。嫌うべきものを、きっちり嫌うことも大切だということを」

 それが何かは今は分からなくても。


「いつかその時が来たときに、君が正しく嫌いになれますように」


 問2  私の嫌いなものは何か。

 自由記述、ただし、無回答を認めるものとする。

 正答ー不明。解答権利はいつかの私へ。


「夜が来る前に、今日は帰らなきゃ。さぁ、明日は正しさの話をしよう」


 答えられないものを胸に抱えて家路につく。それは何時ものことだった。

 ひとつ、薄闇が深まった。それでもまだ夜は訪れない。


 ー†ー


 三日目。何時もと同じ音楽室にコトバケは、当然のように佇んでいた。

「いつも、はやいですね」

 必ず私より先に音楽室にいる彼のことを指して言うと、軽く肩をすくめた。

「まぁね、君よりもはやくいないと、君が帰っちゃうかもしれないだろ」

「放課後は此処で過ごす以外ないんで、そんなことは用事がない限りはしませんけど」

 此処以外に私は居場所を知らない。

「ふふ、そうかい?」

 なんだか嬉しそうなコトバケの言葉を背中で聞きながら、私は今日もキャンバスをひろげる。

 絵というものはこだわりの世界で、何をもって完成とするのかは分からないが、ああ、終わったなという一瞬がある。そこに辿り着くまでの道中は、いつも手探りだが、今描いている空の絵はそろそろ完成が見えてきたようだ。夕暮れ時の空の絵ーそれは私が一番好きな時間だということを意識したのはコトバケとの会話を経てだったが。

「君は美術部だ。基本的には自分がしたいように絵を描いているように見えるけど、なんか縛りみたいなのはないの?」

「しばり?」

「ほら、こういうのって、顧問の先生くらいから、次は人物画にしなさいとか、次の賞に応募するために、こういった題材にしなさいとか。あるんじゃないのかな?あくまで部活動なんだし」

「ああ、そういう意味ですか。勿論ありますよ。ありますけど、まぁ弱小な部活なんで、基本自由といいますか。偶然募集要項に合致したら、それをだしてるといいますか」

「まぁ、あんまり意欲なさそうだもんね、君。その絵は何かに出されたりするのかな?」

「私自身にそのつもりはないですが……顧問の判断じゃないですか?そこまで私も意見言えませんし。何かだしてくれとは言われてますけど……そういう風に絵を描きたいわけじゃないというか」

 別に誰に認めて欲しいわけでもない。なんなら、誰にも見てすら欲しくない。だけどそれでは折り合いがつかないから、そのあたりは顧問にまかせていた。

「私の絵って私のためのもので、惰性で、何かを生み出しているわけではないんです」

 大事なものを、切り取って、宝箱にしまいこむような、そんな作業。忘れないように、なくさないように、それだけのもの。

「なるほどね。ねぇ、君のように君の思うままに絵を描くことと、お仕事として、誰かの望む何かを描くこと、正しいのはどっち?」

「それは別に……、どちらが正しいとかはないのでは?学生が趣味の範疇で描いているのと、仕事で描いてる人では立場が違うでしょう」

「そうだね、そのとおりだ。じゃあ、好きなものを好きに描くことと、好きでもないけれど描かないといけないから描くこと、どちらが正しい?」

「それはーそういう聞かれ方をされると……前者になると思いますが」

「ふふっ、そうだね。不思議だね、状況は同じなのに、条件が異なると解答が変わるかい?」

 少し意地の悪そうな笑顔を浮かべるコトバケは、話を続ける。どうやら、今日の議題はスタートしているらしい。

「質問を変えよう。明日地球がなんらかの原因で滅びるとしよう。君にはなんらかの助ける手段がある。さぁ、全員を助けること、はたまた誰も助けないこと、君の大切な人だけ助けること、正しいことはどれ?」

「スケール大きすぎません?それは当然全員を助けることですよ」

「うんうん、君が倫理観の持ち主でよかった。じゃあそうだね、助ける手段には限りがあって、君には誰を助けるかを選ぶことができる。頭の賢い人を助けたら、その後もっと多くを助ける手段をこうじてくれるかもしれない。いずれにしても時間はないよ。さぁ、国にとっての要人を助けること、君の大切な人を助けること、いっそ誰も助けないこと、正しいことはどれ?」

「それは……、手段が限られているなら……私の大切な人を助けること、ですかね」

「おや?その選択は結果として世界を滅ぼすかもだよ?」

「でも、国の要人を助けて、世界を救う方法が考えられても、その時に大切な人がもういないなら、意味なんてないじゃないですか」

「なるほどね。一理ある。全員を助けることが正しいことだと分かっていても、自分にとって価値あるものを選ぶこと。それが君の正しさか」

「いや、別に……正しくはないのでは?やっぱり。そりゃ、大多数を助ける選択のほうが客観的には正しいですよ」

「そうかい?では、君の手元にはいくつかのパンがある。目の前にお腹をすかせた子どもがいるよ。さぁ、そのパンをあげること、あげないこと、正しいのは?」

「あげることです」

「うんうん、お腹をすかせた子どもにパンをあげる、それは正義だ間違いない。それじゃあ、その場所はとっても貧しい国だとしよう。君の手元にはひときれのパン、それも、君が必死に掴んだパンで、君自身はお腹をすかせて今にも倒れそうだ。そこに同じくお腹をすかせた子どもがいるよ。そのパンをあげること、あげないこと、正しいことは?」

「……できるかは分かりませんが、正しいことはその子にパンをあげることです」

「その選択は君を殺すかもしれないよ?」

「いま聞かれているのはできること、できないことですよね?正しいことなら、たぶん子ども助けることのほうが正しい」

「そうかな?では、君は富める国からやってきた。手元にはいくつかのパンがある。目の前には沢山のお腹をすかせた子どもがいる。どうあがいても、皆にパンはわたせない。なんだったら、君がパンをあげるそぶりを見せたら、子どもたちの間で暴動がおこるかもだ。さぁ、パンをあげる、あげない、正しいことは?」

「っ、それはーやっぱり、あげないと、」

「あげないと?」

「ひとりでも救うことが、正しい、んじゃないんですか?」

「さぁ?僕には分からないよ。正しさは君のなかにしかないもの。だけども一般的な話として、例えば海外旅行中とかにはそういうことをするのはダメだといわれるよね。何もかもを無視して、なにもしないことが正解だと言われるね。それはよその問題はよそで解決するべきだという話かもしれないし、中途半端な優しさは誰も救わないということかもしれない」

「……」

「質問を変えよう。君の前に怪我をした犬がいるよ。もうどうあがいても、現代の医学では治らない。君には犬を楽にする手段がある。その手段を講じることは合法とされている。では、その犬を殺すこと、最後まで生かすこと、正しいことは?」

「正しいことは、正しいことは……、」

 そんなのどちらも、正しくない。

「ではそれが犬ではなく人間だとして。二人いるよ。どちらも君にとっては赤の他人だ。一人を助けて、一人を見捨てる。どちらを救うのが正しい?」

「そんなのーそんなのどっちも選べないじゃないですか。選ぶりゆうが……」

「理由がないと選べない?理由がないと正しくない?そうこう考えている間に時間がなくなるよ。一人でも救うのが君の正しさじゃなかったかな?」

「っ、それなら、それでも、」

「じゃあ、片方が大切な人だったら選べたかい?」

「りゆうをつけて、大切な人を助けます」

「そう、りゆうをつけて、ね」

 沈黙。

 ああ、これ以上言葉がない。選びたくない。何も正しくないと私のココロが叫んでいる。だけどそれが上手く伝えられる気がしなくて、選択肢にもなくて、何も言えなくて。

「はい、おしまい。今日は意地悪をしてしまった。ごめんね」

 ふっ、と空気がやわらいだのを感じた。気がつけば詰めていたらしい息を吐く。

「ただの例え話だよ。そんなに真面目に考えて、気持ちをよせちゃあいけないよ。本質的には君には無関係だ、君にそんな選択は訪れていない。まったく、そんなんだから、君は日常的に何も話せなくなってしまうんだよ」

「そんなこといわれたって……」

「ほんとに真面目だ。生きづらいし、息が詰まる」

 あ、だめだ。と、思った時には遅かった。表情が歪むのが止められなかった。

「っ……、」

「なんて顔してるんだい……」

 かろうじて泣いていない。泣いてなんかいない。人に見せられる涙なんてない。

 だけど、押さえられない何かに、目尻が熱い。頭がぐらぐらする。

「ごめんね、本当に。僕は別に君を傷つけたいわけじゃないんだよ」

「そんなふうに、思ってません」

 それは事実だ。コトバケに悪意がないのは分かっていた。私でも分かるのだそれは。

 ただ、自分自身の不甲斐なさに、やりきれなさに、何だか表情が歪んだ。これは熱だ。感情の熱。

「いつも、なんでも、他人事みたいな顔なのにね……」

「それは余計です」

 私自身のことをここまで問われて、他人事みたいにはいられなかった。それだけだ。

「それでも、今回の事は他人事だよ。君が君自身の事として考えるのはもっと別のことだ。だからそんなに痛まなくていいんだよ。何かに揺れて欲しいとは思ったけど、悲しませたいわけじゃないんだよ、ほんとだよ」

「はい……」

「さぁ、僕が意地悪な質問のしかたをしたから、君が言えなかったことがあるはずだ。君が話した通りだ、できること、できないことを聞きたいわけじゃない。正しいと思うこと、君の正義を問うたよ。それが条件と選択肢の中でぶれてしまった。だけど、本質的にはそうじゃなかったはずだね」

 そうだ、そうだった。選べるなら前提から覆したかった。

「地球が滅びるとして、正しいことは、全員を救うことだったね。条件しだいで、どれだけ選別をしなきゃいけなくても、ほんとの正しさはそうだった。飢えた子どもがいたとして、君のできることに限りはあっても、本当は」

「飢えた子どもの全てにパンがいきわたることが、正しい」

「そこに死にかけた犬がいたとして、犬を救う手だてがなくても」

「犬を救う医学があることが正しい」

「死にかけた人間が二人いたとして、その二人の命は」

「それが誰であっても、助かるべきです」

「そうだね、きっとそうだ」

 コトバケは、深く微笑む。実際はそんなに単純じゃないことを百も承知しながら、私達は拙い正義を語った。

 本質がどれだけ単純でも、現実はひどく複雑だ。私達ができることには限りがあって、選別を、選択を、余儀なくされる。

 それは重く、苦しく、痛みを伴うものだ。ああ、そうか、だから私は正しきを選択し行動することをやめた。強いて言うなら、何もしないを選んだ。選ばなかった何かに想いをはせる苦痛から免れるために、誰かの選択の中で息をした、息を殺した。

「そうだね、今日きいたほどの重たい話はなくても、日々は選択の繰り返しだ。僕らは自分がおかれた条件を、状況をふまえて、せいぜいより正しいものを選んでいる。百点満点の正しさで選べることなんて稀だ。それでも、覚えておいてね。それは何もしないを肯定するものではないよ。君が君の正しさでもって、何もしないことを、あえて選ぶならよいけれども、惰性で選ぶことは間違いだ。痛みを覚えてこその選択だ」

 切り捨てることも選択だ。その先で誰を傷つけても。

「そうして、大切なことはもうひとつ。ねぇ、より正しいものを、考える時に、僕らの正しさの先には本当に欲しかったものがあったはずだ。正しさは理想と共存する。その理想を綺麗事だと嘯くのも、夢想だと嘲笑うのもけっこうだ。でも、そもそもの理想があるからこその、選択だ。それをなかったことにして、今の選択が絶対的に正しいものだなんて思っちゃあいけないよ。より正しいものを選んだときには、同じくらい、理想と反した過ちを理解しないと」

 その全てを疎かにして、へらへら笑っているのが私だと、私はようやく理解した。痛みと共に、理解したのだ。


「ねぇ、だから大切にしてね。本当は自分がどうしたかったのか、その理想を、なかったことにしちゃいけないよ。正しさはそこからしか生まれないのだから」


 問3 私にとっての正しさは何か。

 選択問題、ただし、選択外の理想解がある場合は、それについて記述すること。

 採点基準、本問題において、満点を示す正答はなしとし、理想解との、差分について採点を行うものとする。


「さぁ、今日はここまで。少しは君が殺した言葉の数々を思い出してきたかな?」


 まだ、未だ、わからない。

 暮れ行く空に、今日も夜が滲み出し、ひとつ、明日が近づいた。

 それでも、境界線の私は今日を揺蕩う。未だ、この一時(トキ)は終わらない。


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