ロスト・パラダイス

水円 岳

「ポポウ?」


 波打ち際に立ち尽くしていた俺は、同僚の声で我に返った。


「ああ、キリタニか。すまん。ちょっと考え事をしてた」

「ラジオゾンデはもう上げたのか?」

「定時に。いつも通りだよ」


 太平洋にぽつりと広がる環礁。今日も晴天だ。環礁の中は波が穏やかで、海面のトルコブルーが、外洋のエメラルドブルー、天空のライトブルーと美しい対比を見せている。

 ある角度から上は青と白しかない清廉な世界。さっき放ったラジオゾンデの白い気球も、その世界から拒絶されることなくゆっくりと上昇していった。ほどなく、測候所の受信機に各種の気象情報を送信してくるだろう。


 俺の隣に立ったキリタニは、眩しそうに目を細め、空と海の溶け合うあわいを見つめた。


「本当に、この世の楽園だな」

「そうか? 俺らにとってはこれが日常だ。楽園なんてものは今までも、今も、これからもずっとないね」


 いつもは口にしない皮肉をぶちかましたことに驚いたんだろう。キリタニが恐る恐る俺の顔色をうかがう。


「そうなのか?」

「そらそうさ。あんたのひい祖父さんたちがここに入植して来た時だって、そうだったと思うよ。生き延びることが命題。ここに来れば何もしなくても暮らせる楽園だなんて、誰も思っていなかっただろさ」

「確かにな」


 屈んで足元の珊瑚砂を掴み、それを頭上に掲げて風に流す。わずかな風に乗って、砂が優美なドレイプを描いた。


「俺が風に流したこの一掴みの砂の分、ここは陸地を失う」

「……ああ」

「だが、生きることで精一杯の俺たちは、誰もそんなことを意識しなかったんだよ」


 キリタニも、俺と同じように屈んで砂を掴み、風に流した。その砂に憂いを紛れ込ませる。


「地球の平均気温が上がれば、海面上昇によって没する国がある。それをもっとも深刻に考えるべき俺らが、楽園にいると一番勘違いしてる」

「勘違い、か」

「そらそうだろ。島っていうのはいつまでもあるもので、それがなくなるってことは誰も考えなかったんだ」

「……ああ」

「あほか。地球は生きてる。まだ激しく身悶えしている。変化は決してどんでん返しなんかじゃない。通常の脈動の上に位置づけられた、既定の事実だ」


 穏やかな海洋島の風景。そのワンシーンだけを切り取って楽園だと勘違いするのは、外国人だけじゃない。俺らだってそうなんだ。今生じている変化がわずかずつというレベルを大きく上回るようになれば、俺たちはこの世の終わりが来たかのように騒ぎ立てるだろう。楽園が失われた、と。

 違う。楽園なんてものは最初からない。どこにもない。楽園なんてのは変化を否定する概念だ。まず足元の事実をきちんと見据えないと、俺たちには明日が来ない。

 たった一握の砂。それを気にしないで済む国は恵まれていると思うよ。その見かけがどんなに楽園のイメージから遠くてもね。


「なあ、ポポウ」


 再び手に砂を握り取ったキリタニが、今度はそれを握り締めたまま俺に尋ねた。


「何か……あったのか?」

「おまえも気象観測員で給料をもらってるなら、少しは情勢を見ておいた方がいい」

「は? どういうことだ?」

「楽観派の論拠を増やすような研究発表が続いてるんだよ」

「なんだと?」


 キリタニが、握っていた砂を足元に叩きつけた。


「どういうことだ?」

「俺たちを取り巻く海の水位は、年に4ミリほど上昇している。温暖化現象による島嶼水没の危機は確実な事実なんだ」

「これまでずっとそういう観点で議論してきたし、その事実は誰も否定していないだろ?」

「そうさ。だがそれと相反する事実がある。陸地の面積は逆に増えてるんだよ」

「え……」


 まるで、信じていたものがひっくり返ったかのような。どんでん返しを食らったような顔をしてやがる。だから、楽園なんて発想はだめなんだって!


「それも昨日今日の発表じゃないよ。もう何年も前から実測値が出てるんだ。あんたの父祖の母国日本でも、四方を海で囲まれていながら陸地面積は減ってない。増加してる」

「……」


 陸地の発生と消滅には、短期間に生じるものと長期的な変化によるものがある。年に数ミリの海面上昇なら百年で数十センチになるから「物理的に」沈む陸地は少なくない。だが、その間に造山活動や生命活動で生じる陸地があると、消失分は小さく見積もられてしまうんだ。


「頭ン中が楽園な連中は、その目先の数字だけを見て大丈夫だと思ってしまうんだよ。実質減ってないじゃないかってね。そりゃそうだ。連中は百年先のことなんか考えやしないからな」

「茹でガエルのたとえそのもの……か」

「その通り」


 俺の危機意識はさっき放ったラジオゾンデの気球みたいなものさ。警告発信はしているよ。でも大勢の中に埋れれば、どこにあるのかすらわからなくなってしまう。その無力感に捕まると、俺たちは今楽園にいるという奇妙な幻想にすっぽり抱きかかえられてしまうんだ。


 首が痛くなるまで真っ青な空を見上げ、キリタニにではなく、自分自身に言い聞かせた。


「どんでん返しなんてものはどこにもないね。全ての事象は事実に基づいていて、事実の連なった通りに発生する」

「ああ」

「だが俺たちが楽園にいると考えている限り、好ましくない事実からは目をそむけようとするだろう。それよりも」

「楽園はもう失われている。いや、楽園なんてものは最初からない。そう考えた方がいいってことだな」

「こんな気持ちのいい日に、憂鬱なことを考えたくはないけどな」


 黙り込んだ俺たちを、単調な波音が何度も揺さぶり続けた。


「神は天にあり。世はすべてこともなし、か……」



【 了 】

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ロスト・パラダイス 水円 岳 @mizomer

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