刺殺
標識
刺殺
数秒前か、はたまた数分前か。定かではないが、少なくとも現在よりも前の時点から。その女には、視界の中で幽かに揺れる銀色の光が、朧気ながらも見えていたはずだった。けれど彼女は、それを現実の事象として認めてはいなかった。視界に入り込む目蓋の陰や目を細めたときに伸びる光などと同じで、在っても亡くても自分自身に到達することなどない、何かの間違いのようなものだと思っていた。いや、思い込もうと必死だったのだ。
しかしようやく今、彼女は実感する。
枯れるように更けた夜の香り。仰向けになった全身に沁みるアスファルトの冷たさ。そして、両手に握りしめた人肌の温もり。
そこから突き出た刃先は何の間違いでもなく眼前に存在していた。無骨なシースナイフ。
押し戻そうという抵抗も虚しく、刃先は女の心臓を目指しにじり寄るようにゆっくりと降下してきた。
ナイフの主である男の爛々とした目付きが。食いしばった歯が。女の両腕の関節にかかる負荷と噛み合うようにして一体となり、殺意の強さを伝えてくる。
比喩ではなく、視界が狭まった。弾むように高鳴る心音。全身が冷気を保ったまま燃えるようだった。
あらゆる脈絡から絶縁されたように唐突な死の感覚――いや予兆。彼女はそれを『驚き』や『絶望』という熟語が有する意義素と似た、けれど全く別種の感情で受け止めていた。
この感情には未だ名前がない。たった今生まれ出でたばかりだからだ。まだ地に落ちてすらもいない。
――――あれ? ……死にたくない。
それは彼女という一人の人間から零れた心の悲鳴。唯一無二の嘆き。刹那の間に死に行く数多の命が抱くそれらとは一線を画し、さりとてその本質には何ら変わりがない。あまりにも差違のある五十歩百歩。女は他の誰とも違っていて、それでも同種の存在でしか在り得ない。彼女が抱いた、名状し難き感情の発露は、第三者からすればごく簡単に『驚き』だとか『絶望』だとかいう言葉で一般化されてしまうありふれたものでしかないのだ。当然だ、形が大きく違うというだけの石ころにいちいち名前をつける者などいないのだから。
あるいは、最初から形などないのかもしれないが。
だとしてもそれこそ些事だろう。どのような形であれ、はたまた形があろうとなかろうと、誰かの個性や記憶、個人が個人足りうる要素、誰かがその誰かである理由を説いたところで、世界そのものに揚げ足を取るようなものだ。無意味であり無謀なのだ。
心臓の位置へとナイフを進める力に抗いきれない。それは朧気ながらも確実に降下してくる。単純な膂力の差に位置エネルギーと重力が荷担されていて、留めることすら叶わない。
理不尽を物量で体感させられているようだ。どうにもならない痛みの予兆に、女は世界の自分に対する無関心さを味わった。世界にとって彼女はあまりに矮小で、彼女にとって世界はただただ縁遠い。膨大すぎるギャップはそれだけで暴力のようだ。
やがて刃先が女の衣服に触れた。乳房を包む位置。
頭蓋の内側が冷えていく。両の眼球の奥――視神経の束が熱い。全身の毛穴を下半身から上にかけて、針のように鋭くぬるま湯のように不定形な温度がせり上がってきており、今はまだその途中だった。
刃は衣服越しに肌を突き、脂肪に沈んで肉を破り…………肋骨の間を滑る。そしてついに心臓へと達した。
胸の深くにまで侵入した氷のような冷気が、直後に生じた熱に犯される。
「カッ…………ぁ……」
あまりにもか細い断末魔。
――――あ。死ぬ。
刹那的で破滅的な致命の一撃。取り返しのつかない損傷の感触は一瞬の鼓動の中に洗練され、溢れ出した激痛は蠱惑的ですらあった。響き渡るように、突き抜けるように、常識外れなほど容赦なく拡散していく。骨の髄まで角質の先まで際限なく。あまりにも膨大な刺激に苦痛と快楽の区別すら付かず、自身の内側に吸い込まれるような奇怪な酩酊感を覚える。
意識する間もなく脱力し、両手が落ちて傷のそばに叩き付けられた。ほとんど同時に、直前までは辛うじて浮かせていた頭もアスファルトを打つ。抵抗はおろか、もはや如何なる行為も彼女の生命の維持に繋がることはないのは明瞭だった。
瞳から溢れた涙で視界が歪む。瞬きの直後、焦点が合ったのは自分を殺す男の顔などではなくその背後の夜空だった。そこに、『広がっている』とか『澄んでいる』とかという肯定的な印象は一切抱けない。墨汁で塗りたくったような深黒。煌めく星々でさえ粗末な塗り残しにしか見えない。只、只々、何億光年何兆光年先にも何者の存在も許さない重たい闇が続いているだけなのだと。
何もない。
……厭になった。
虚無的な印象を最後に。女の意識は醒めた夜空の像へと集約し、薄れ、やがて失くなった。
彼女は死んだ。
刺殺 標識 @hyoshiki0706
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