けんかをやめて

RAY

けんかをやめて


 とある日曜日の午後、飛び込みの執筆がひと段落した私は、リビングのソファに腰を下ろして、いつものようにティータイムを楽しんでいた。

 ティータイムとは言っても、ホテルなどで提供されるものとは程遠く、スーパーの安売りで買った、輸入物のティーパックと観光土産のクッキーによる、ごくごく庶民的なもの。

 ただ、紅茶好きの私にとっては、仕事の合間のいこいのひとときであり、至福の時間ときと言っても過言ではない。


 二杯目の紅茶をれたとき、玄関のチャイムが立て続けに鳴った。


 何事かとインターホンのカメラで確認すると、そこには、泣きながらチャイムを押し続けるケンちゃんの姿があった。

 ケンちゃんというのは、私がジョギングの途中で立寄る公園に、いつもお母さんといっしょに来ている、幼稚園児の男の子。会って何度目かに挨拶をしたところ、互いの家が近いことがわかり、それが縁で言葉を交わすようになった。

 今では、互いの家を行き来してランチをすることもあり、ケンちゃんとは、年が離れた友だちといったところだ。


 ただ、これまで、私の家にケンちゃんが一人で訪ねてきたことは一度もない。

 インターホン越しの様子からも只ならぬ雰囲気が感じられる。


 私が玄関のドアを開けると、声を掛ける間もなく、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたケンちゃんが抱きついてきた。

 私は、その場にしゃがむと、ヒックヒックとしゃくりあげるケンちゃんをなだめながら、泣いている理由を尋ねてみた。


「ケンちゃん、今日はお母さんといっしょじゃないんだ。何があったのか、おねえちゃんに教えてくれない?」


 笑顔の私を見て安心したのか、ケンちゃんは、鼻をすすり上げながら状況を説明する。


「おねえちゃん、大変なの。お母さんが買い物に出掛けて、お父さんといっしょに留守番をしていたら、知らないおじさんがやってきたの。そしたら、いきなりお父さんとけんかを始めたの。大声で叫びながらたくさん血が出てたの。僕、怖くなって、おねえちゃんのところへ走ってきたの。おねえちゃん、お願い! 助けて!」


「わかった。今からケンちゃんのお家へ行ってみよう」


 細かいことはわからないが、すぐに対処しなければならない事象が起きているのは間違いない。私が行って解決できるかどうかはわからない。ただ、このまま放っておくわけにもいかない。

 ケンちゃんの家には何度か行ったことがあり、場所はわかっている。ただ、いつも平日の昼間だったため、ケンちゃんのお父さんとは面識がない。


 警察へ通報することも考えたが、幼稚園児の言うことだけに、ある程度状況を確認するべきだと思った。ケンちゃんの家は、普通に歩いても十分もかからないため、それほどロスはない。

 私は、ポケットに携帯電話があるのを確認すると、ケンちゃんの手を引いて、早足に彼の家へと向かった。


★★


 ケンちゃんのうちに到着するや否や、私は静かに玄関のドアを開ける。

 突きあたりのリビングの方から男の怒鳴り声が聞こえる。時折、壁や床に何かがぶつかるような、鈍い音と衝撃が走る。

 ケンちゃんは、身体を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で私にしがみつく。


「おねえちゃんが様子を見てくるから、ケンちゃんは外で待ってて」


 私は、小声でそう言い聞かせると、ケンちゃんを玄関の外へ行かせた。

 靴を脱いで抜き足差し足でリビングの入口へと向かう。そして、ガラス戸の隙間から中の様子を覗いた。


 二人の男が、怒声を張り上げて取っ組み合いのけんかをしている。

 お互いの顔には殴られた跡があり、口や鼻から血が出ている。お互い興奮しているため会話は成り立っておらず、二人が何を言っているのか、よくわからない。

 ただ、一つ言えるのは、私が二人の間に割って入ったところで、事態が沈静化する可能性は極めて低いということ。

 警察に連絡するのが得策だと判断した私は、リビングを後にしてケンちゃんの元へと向かった。


「ケンちゃん、ごめんね。おねえちゃんの力では、お父さんたちを止めることはできないみたい。でもね、おまわりさんなら何とかしてくれる。今から110番に電話しておまわりさんに来てもらおう」


「うん。わかった」


 携帯電話を取り出した私だったが、思い当たるところがあって、電話を掛ける手を止めた。


「ケンちゃん、一つ教えて。おねえちゃん、お父さんの顔を知らないの。どっちの人がケンちゃんのお父さんなの? ええと……赤いシャツを着た、ひげを生やした人? それとも、青色のジャージを着た、太った人?」


 私の質問に、少し間が開いて、ケンちゃんはポツリと言った。


「……わからないの」


「えっ?」


 私は思わず耳を疑った。

 気が動転しているのかと思い、もう一度、ゆっくり尋ねてみた。


「ケンちゃんのお父さんだよ。着ている服なんかが思い出せないなら、どんな人なのか、教えてくれないかな?」


 私が努めて笑顔で問い掛けると、ケンちゃんは、困ったような表情を浮かべながら、呟くように言った。


「どっちが僕のお父さんなのかわからないの。それがケンカの原因なの」



 RAY

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