けんかをやめて
RAY
けんかをやめて
★
とある日曜日の午後、飛び込みの執筆がひと段落した私は、リビングのソファに腰を下ろして、いつものようにティータイムを楽しんでいた。
ティータイムとは言っても、ホテルなどで提供されるものとは程遠く、スーパーの安売りで買った、輸入物のティーパックと観光土産のクッキーによる、ごくごく庶民的なもの。
ただ、紅茶好きの私にとっては、仕事の合間の
二杯目の紅茶を
何事かとインターホンのカメラで確認すると、そこには、泣きながらチャイムを押し続けるケンちゃんの姿があった。
ケンちゃんというのは、私がジョギングの途中で立寄る公園に、いつもお母さんといっしょに来ている、幼稚園児の男の子。会って何度目かに挨拶をしたところ、互いの家が近いことがわかり、それが縁で言葉を交わすようになった。
今では、互いの家を行き来してランチをすることもあり、ケンちゃんとは、年が離れた友だちといったところだ。
ただ、これまで、私の家にケンちゃんが一人で訪ねてきたことは一度もない。
インターホン越しの様子からも只ならぬ雰囲気が感じられる。
私が玄関のドアを開けると、声を掛ける間もなく、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたケンちゃんが抱きついてきた。
私は、その場にしゃがむと、ヒックヒックとしゃくりあげるケンちゃんを
「ケンちゃん、今日はお母さんといっしょじゃないんだ。何があったのか、おねえちゃんに教えてくれない?」
笑顔の私を見て安心したのか、ケンちゃんは、鼻をすすり上げながら状況を説明する。
「おねえちゃん、大変なの。お母さんが買い物に出掛けて、お父さんといっしょに留守番をしていたら、知らないおじさんがやってきたの。そしたら、いきなりお父さんとけんかを始めたの。大声で叫びながらたくさん血が出てたの。僕、怖くなって、おねえちゃんのところへ走ってきたの。おねえちゃん、お願い! 助けて!」
「わかった。今からケンちゃんのお家へ行ってみよう」
細かいことはわからないが、すぐに対処しなければならない事象が起きているのは間違いない。私が行って解決できるかどうかはわからない。ただ、このまま放っておくわけにもいかない。
ケンちゃんの家には何度か行ったことがあり、場所はわかっている。ただ、いつも平日の昼間だったため、ケンちゃんのお父さんとは面識がない。
警察へ通報することも考えたが、幼稚園児の言うことだけに、ある程度状況を確認するべきだと思った。ケンちゃんの家は、普通に歩いても十分もかからないため、それほどロスはない。
私は、ポケットに携帯電話があるのを確認すると、ケンちゃんの手を引いて、早足に彼の家へと向かった。
★★
ケンちゃんのうちに到着するや否や、私は静かに玄関のドアを開ける。
突きあたりのリビングの方から男の怒鳴り声が聞こえる。時折、壁や床に何かがぶつかるような、鈍い音と衝撃が走る。
ケンちゃんは、身体を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で私にしがみつく。
「おねえちゃんが様子を見てくるから、ケンちゃんは外で待ってて」
私は、小声でそう言い聞かせると、ケンちゃんを玄関の外へ行かせた。
靴を脱いで抜き足差し足でリビングの入口へと向かう。そして、ガラス戸の隙間から中の様子を覗いた。
二人の男が、怒声を張り上げて取っ組み合いのけんかをしている。
お互いの顔には殴られた跡があり、口や鼻から血が出ている。お互い興奮しているため会話は成り立っておらず、二人が何を言っているのか、よくわからない。
ただ、一つ言えるのは、私が二人の間に割って入ったところで、事態が沈静化する可能性は極めて低いということ。
警察に連絡するのが得策だと判断した私は、リビングを後にしてケンちゃんの元へと向かった。
「ケンちゃん、ごめんね。おねえちゃんの力では、お父さんたちを止めることはできないみたい。でもね、おまわりさんなら何とかしてくれる。今から110番に電話しておまわりさんに来てもらおう」
「うん。わかった」
携帯電話を取り出した私だったが、思い当たるところがあって、電話を掛ける手を止めた。
「ケンちゃん、一つ教えて。おねえちゃん、お父さんの顔を知らないの。どっちの人がケンちゃんのお父さんなの? ええと……赤いシャツを着た、ひげを生やした人? それとも、青色のジャージを着た、太った人?」
私の質問に、少し間が開いて、ケンちゃんはポツリと言った。
「……わからないの」
「えっ?」
私は思わず耳を疑った。
気が動転しているのかと思い、もう一度、ゆっくり尋ねてみた。
「ケンちゃんのお父さんだよ。着ている服なんかが思い出せないなら、どんな人なのか、教えてくれないかな?」
私が努めて笑顔で問い掛けると、ケンちゃんは、困ったような表情を浮かべながら、呟くように言った。
「どっちが僕のお父さんなのかわからないの。それがケンカの原因なの」
RAY
けんかをやめて RAY @MIDNIGHT_RAY
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