違和感を覚える人たちの梁山泊

新座遊

登戸研究所を探ろう

まず最初に言っておくが、この物語を叙述する俺が犯人である。


駅から歩いて10分程度の川沿いに建つ校舎。校門には「海軍経理学校分室」と達筆な文字が掲げられている。陽が沈む間際の、遠近感がぼやけた空気の中、間の抜けた人影とともに、俺は歩哨に敬礼した。階級的には歩哨が先に敬礼しても良さそうなものであるが、兵学校を退学した身としては、二等兵扱いされてもおかしくはないのだ。

歩哨が退屈そうにあくびをする。戦時下の海軍にしては、あまりにものんびりした雰囲気である。校舎の方から、かすかにピアノの音が聞こえる。モーツァルトの軽快な曲調。レコードなのか、実際にピアノを弾いているのかは、判別できない。ナハトムジークか。夜を迎える音楽なのかな。


身分証を示した俺は、歩哨に聞く。校長室の場所を。歩哨は身分証を一瞥したあと、何も言わずに、ベルを押し、めんどくさそうに校舎の玄関口を指し示し、行けと言わんばかりに顎で校舎の入り口を案内する。これは思った以上に酷いところのようだ。海軍の梁山泊という話も嘘ではなさそうである。

行李を背に改めてお辞儀をしてから玄関口に向かうと、そこから小さな女の子が駆けてきた。小学生くらいのおかっぱ娘がメイド服を踊らせながらこぎみ良く俺に近づいてくる。

「お話は伺ってます。江田島の落第生さんですよね。どうぞこちらへ」


校長室で、アルベルトアインシュタインのようなとぼけた顔をした初老の男が俺を待っていた。この人こそ悪名高い分室長、一石有帯と自称する海軍大佐である。現役定限年齢に達してるのではないかと疑われているが、現役大佐とのこと。


「よう、来たか。井上成美には聞いておるぞ。自由主義者だそうだな」

「分室長は井上校長とは同期と伺っています。井上中将も自由主義者と陰口を叩かれているそうですが、お嫌いですか、主義者は」

「嫌いだな、主義主張するやつらは全般的に。普通にしてればいいんだよ。ま、そんなことはこの分室ではどうでもよい」

「どうでもよいんですか」

「仕事さえすれば、それこそ自由だ。早速、貴様には登戸研究所を探って来てもらいたい」

「は?陸軍の研究所ですか。あいつらの領域に踏み入れるんですか。いやその前に、俺は諜報活動の訓練を受けてないですよ」

そこでノックの音がして、校長室に若い女性が士官服姿で入ってきた。後ろには大柄の背広姿の男が続く。

「海軍少尉、青木碧です。特例にて軍に所属してますが、日本の悪しき文化に従って、命令口調は控えさせていただきますね」

若い女性がのんびりした口調で俺に挨拶する。特例でもなんでも、女性が軍人になるのは流石の俺でも驚いた。ソ連では女性が軍で活躍しているとの話も聞くが、あれは共産国家だからこそだろう。我が国体でそれが許されるとはちょっと考え難い。

後ろにいた大男がそれをフォローするように、厳しい口調で俺に言った。

「お嬢、いや少尉はこういうが、階級通りに貴様はへりくだれよ。気安い態度は俺が許さん。俺はお嬢、いや少尉の従者であり、分室の教師である。海軍大尉だ」

「大尉が少尉の従者ですか。何が何だか」

「これは国家機密だが」分室長が言葉を添える。「彼女はさる皇族の御落胤だ。粗相のないように気軽に接してくれ」


場面は転換して、陸軍登戸研究所の応接室。

なぜこうもあっさり中に入れてもらえるのかというと、青木碧という人物のおかげである。名を伏せるが、陸軍の将官で皇族である方からの紹介状のおかげとも言える。

もしかすると本当にこの海軍少尉は皇族なのかも知れない。

研究所所長が、恭しく少尉をソファに案内する。

「軍装の麗人に見学いただく機会を賜りまして、大変光栄でございます」

というか、皇族というのは国家機密じゃないのか。研究所所長というのはおそらく陸軍大佐だ。単なる大佐が知っていてよいことなんだろうかね。

「所長、表向きは単なる海軍軍人ですので、もうちょっと敵対的に対応いただいてもよろしくてよ?」

「滅相もない。陸海軍は皇国の両輪。敵対するなどあり得ません。で、ご一緒のこの若者はどういう?」

「はい、俺は江田島の兵学校を追い出されて職を探している一介の浪人です。少尉とは江田島でご一緒させていただいておりました」

「ほう、只者ではないと思っていたが、只者だったな」

所長は少尉に対する態度の反動のせいか、極めて侮蔑的な口調で俺を見た。


少尉は見学後、足取りも軽やかに帰っていった。俺は登戸研究所に残された。工員として雇われたのである。恐らく俺は、青木少尉につながるコネとして役に立つだろうとでも思われただけだろう。しかしまずは第一関門を突破した。これでこの研究所を探ることが出来る。


この研究所はもともとが怪しい。

電波兵器の研究などはまともだが、中野学校から研究受託された謀略戦用の兵器研究などは、眉につばをつけたくなる。

また、敵国の経済破壊のために、偽札作りをしているという噂もある。

本来であれば中国の偽札を研究していたはずだが、昭和16年の対米戦中止を受けて、中国大陸からの引き上げを行い、ついでにドイツとの同盟を破棄したことで、偽札の対象はドイツ帝国マルクになっただろう。

山下大将指揮下で、シベリア鉄道経由で欧州戦線に投入された帝国陸軍が、スターリングラードを包囲していたドイツ軍を蹴散らしたというニュースとともに、登戸研究所での動きがよりきな臭くなった、というのが海軍側の見解である。欧州で何か情報を得て、何かを研究し始めたのではないか、という不信感。


しかしこの目まぐるしく変わる国際情勢は、どこかおかしいのではないか。違和感というか、非現実感というか。ちょっと前まで日独伊三国同盟を謳っていた陸軍の連中が、こうも易々と同盟破棄に同意し、あまつさえ、ソ連と同盟を組んで対独戦に力を入れるというのは、不自然極まる。

海軍は置いてけぼりだ。海軍のいら立ちも良くわかる。この俺を、陸軍に対するスパイにするくらいに焦っていると言えよう。

海軍経理学校分室こそ、海軍の違和感を象徴する存在なのかも知れない。組織の常識から外れた人材をかき集めている姿は、いっそ滑稽でもある。その一員である俺も滑稽かも知れない。


研究所の第五科が入る33号棟から、音楽が聞こえてくる。ワーグナーか。敵国の音楽を奏でるのは、我が分室と同じ感覚か。

彼を知り己を知れば百戦殆うからず。

陸軍にこの常識があることに驚きを隠せない。奴らはもっと傲慢だったはずだが。やはり陸軍所属といえども科学者は合理的な思考を持っているのだろう。

俺は33号棟に近づき、窓から中を覗いてみた。


少女がいた。

おかっぱ頭でメイド服。見たことがある姿だ。なぜここにいる?

俺に気づいた少女は、にこりと笑い、俺を手招きした。


ここでどんでん返しが起きる。文字通りというか語源の通りに。

窓がクルリと回り、外にいたはずの俺が、いつの間にか部屋の中に入っていた。

「やっと来ましたね。ちょっと遅くないですか」

「嬢ちゃんはなぜここにいる。海軍の雇員じゃなかったのか」

「ここは海軍経理学校分室ですよ。モーツァルトのレコード掛けましょうか」


そんなはずはない。確かに海軍経理学校分室と陸軍登戸研究所は近い。歩いて1時間くらいだったはずだ。だが、同じ敷地であるはずがない。

「俺を翻弄して、誰が得するんだ。俺は夢でも見ているのか」

「夢かもしれませんね。私の。しかし夢と現実の違いなんて、粒子と波の違いみたいなもんですよ。例えば私も」

少女は一瞬で消えて、すぐに表れた。海軍少尉、青木碧の姿で。

「こんな夢を見ても罰は当たらないってもんです」

「どういうつもりだ」

俺は少女、少尉に近づき、壁ドンをした。と思ったら後ろから大男に羽交い絞めにされた。

「分をわきまえろ、お嬢様に触れるな」海軍大尉が突然現れたのだ。

「理由を言え。俺にこの世界で何をさせたいんだ。世界を救えとかいうつもりか」

「世界はどうかわからないけど、日本はもう救われてますよ。いまさらあなたに期待することはありません」少尉は眠たげにそう言う。「この世界に転生したのだから、違和感を抱えてこの世界の行く末を眺めていただければいいんです。観察者としてね」


ようやく正体を現したな、化け物め。どうも変だと思っていたのだ。俺は令和時代に生きる日本人だったはずだ。

しかし、気づくと昭和の初期、海軍兵学校の生徒として転生していた。夢じゃなければ、普通に異世界転生である。いや普通じゃないか。

夢だろうが現実だろうが、その違和感だけは我慢できない。俺の知っている歴史では、海軍経理学校分室なんてものはなかった。日本は昭和16年、英米と戦争をして、大敗北するものだった。しかし、今ここでの出来事は、まったく見たこともない歴史である。

もしかすると、米国と戦わなかったというだけでもマシな歴史なのかも知れない。しかし、そんなものは嘘っぱちだ。誰もあの悲劇の反省をしないことになるではないか。

「俺をもとの世界に戻せ」

「私を殺せば、元に戻りますよ。殺しますか。大尉を振りほどいてでも」


俺は令和時代に戻った。

あの時、俺は少女を殺したのだろうか。あるいは別の方法で帰ってきたのか。

慌てて日本の歴史を検索した。

昭和18年、海軍経理学校分室の青木碧海軍少尉が何者かに殺害された。犯人は捕まっていない、という記事を発見した。









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