桜の木の下には愛が埋まっている

稀山 美波

彼女という桜の下には

 『桜の木の下には屍体が埋まっている』――だなんて小説を書いたのは、何という名前の作家だっただろうか。


 文学に疎い僕には、その作家の名前を思い出すことはできないけれど。桜のような幻想的かつ美しいものがこの世に存在するからには、屍体のような醜いものがその足元にあって然るべきだという思考には、どこか合点がいく。


「現実味のない美しさを誇る桜。あまりの美しさに、主人公は底知れぬ不安を感じるの。けれど、桜の木の下にはおぞましく醜く腐乱した屍体があって、その液体を桜が吸い上げているのだと想像することで、主人公の男は安心感を得たのよ」


 この小説を僕に紹介してくれた彼女は、それこそ桜の花弁のような美しさを有し、今にも消え失せてしまうかのような儚さがあった。

 授業を抜け出して、誰もいないであろう図書室で惰眠を貪ろうとした僕の眼前に現れた透き通った彼女は、窓から差し込む西日にそのまま導かれていってしまいそうな雰囲気を醸していたのを覚えている。


 一目惚れ、だったのだろう。


 誰もいないはずの図書室に佇む彼女の横顔は、ひどく美しかった。言葉を喪失し呼吸の仕方さえ忘れてただ彼女を見つめることしかできなかった僕に、彼女はその小説の一文を教えてくれたのだ。


 ――桜の木の下には屍体が埋まっている


 では、この世のものとは思えない神秘的な彼女の足元には、どんな醜いものが埋まっているというのだろう。


「美しいものをそのまま美しいと感じれずに不安を覚えるだなんて、人間はとことん矛盾を抱えた生き物よね。だけどその歪さこそ、人間が人間である――人間らしいところなんだと私は思うわ」


 どこか他人事のように、彼女はそう言った。

 窓の外で満開に咲く桜に目をやって、自分は人間ではないですよとでも言いたげな表情で、自嘲気味に語ったのを覚えている。昨年の四月、僕が高校三年生になりたての頃だった。


 周囲が大学受験だの就職だのと慌ただしい中、僕はというとその現実に目を向けられないでいた。現実という醜いものを足元に埋め、彼女という美しい桜に魅入ってしまったのかもしれない。


 どんな日のどんな時間に図書室を訪れても、彼女はそこにいた。図書室に本や本棚があるのは当たり前なのと同じように、彼女はそこにあるべくしてそこにあった。


 だから僕も毎日授業を抜け出しては図書室を訪れて、図書室に咲いた美しい桜の花弁をひたすらに眺めるのが日課となった。彼女は僕の視線などお構いなしに、はらり、はらり、と一定のリズムでページを捲っていく。肩まで伸びた黒く澄んだ髪を邪魔に思い、時折それを耳にかける以外は、一切の挙動がない。


「面白かった?」

「ええ。とても」


 彼女が本を読み終わると、二、三言だけ言葉を交わす。その後にゆらりと席を離れ、新たな本を持ってきて、それに視線を向ける。


 初めて出会った際に、桜の木の下に埋まっている屍体の話をしたきり彼女は多くを語らない。あの一文がよっぽどお気に入りだったのか、それともただの気まぐれだったのだろうか、とにかく流暢に話したのはそれきりだった。



「それはどうだった?」

「興味深かったわ。あなたは本、読まないの?」


 彼女との邂逅から数カ月経ったある日、初めて彼女の方から僕への質問があった。少しは気にかけてくれていたのだろうか、はたまた僕を迷惑に思っていたのだろうか。


「君みたいに純文学系の小説はあまり得意じゃなくて。ミステリとかみたいな、どんでん返し系の小説は好きなんだけど」

「それは残念」


 残念と口にしながらも、その表情に残念だとかそういう感情は一切こもってはいなかった。

 とにもかくにも、彼女のぴくりとも動かないその表情を変えてやりたくて、少し歯の浮くような台詞を言ってみることとした。僕の醜い恋慕とか劣情とかを地面に埋めて、美しい桜の花弁をじっくりと見据えながら。


「それに、どんな本にもないと思うからね」

「何が?」

「君の美しさとか儚さとか、それを形容する言葉が。どんな美しい比喩表現でも、どんな綺麗な文章でも、君を表すには不十分だと思うんだ。僕はそれを、君を見ながら考えるほうが楽しいかな」

「そう」


 愛の囁きにも似た僕の言葉を聞いてもなお、彼女は眉一つ動かさず、いつものようにふわりと席を立った。感情を表に出さない凛としたその態度は、まるで太い幹が彼女という美しい花弁を支えているかのようで、ますます彼女が桜木のように見えてくる。


 一方の僕はというと、彼女への恋慕が強くなっているのを感じていて、彼女を見るたびに不安や恐怖を覚えていった。それはまるで、桜の木の下に埋まっている屍体の如く醜い恋慕であり、彼女が教えてくれた小説に出てくる『桜を見るたびに不安や恐怖を覚える主人公』のようであったと思う。


 その不安や恐怖は、彼女との別れが着々と近づいていたからに他ならない。季節は廻り、桜の木にもちらほらと蕾が散見されるようになり、僕が高校を卒業する日が刻々と近づいてきていた。


 彼女との出会いから約一年。彼女とのやり取りが始まってから約一年。

 この幸福にも絶望に似た逢瀬は、終わりを告げようとしていた。


 なんとかして、僕は彼女に思いを告げなければならない。けれどそれは、普通のものであってはならない。自分をどこか違う世界の人間であると思っている彼女に添い遂げるには、普通の告白では不足と言えよう。


 美しく儚い幻想的な彼女の下には、どんな醜いものが眠っているのだろう。

 それがわからなくては、僕は彼女と一緒になることはできない。



 ◆



「やあ」

「今日も来たのね。卒業式はいいの?」


 答えが出たのは、卒業式の前日だった。

 彼女の下に埋めるべくもの――醜いものを桜の木の下に埋めて、彼女のところへやってきた。桜の木の下には屍体が埋まっていると確信して不安が取り除かれた、例の小説の主人公のように、僕の心も晴れ晴れとしている。


「ああ。出る必要も意味もないからね」


 卒業式に参列することもなく、僕はこの図書室へと真っすぐ向かってきた。当たり前であるかのように、彼女もそこにいた。


「単刀直入に言うよ。僕は君が好きなんだ。愛している。僕と寄り添って、これからも過ごしてほしい」


 卒業式すらフケた僕に呆れた様子も見せない彼女に、ありのままの感情をぶつける。一年前に抱き始めたその醜く歪んだその愛情を、僕は何ら偽ることなく口にした。


「……ごめんなさい」


 それを聞いて、彼女は初めて困ったような表情を見せる。

 凛とした桜の花弁のような美しい表情ではなく、能面のように動かない表情ではなく、人間らしい極めて感情的な表情であった。


「あなたに添い遂げることは、できないのよ。あなたがどうとか、あなたが嫌いとかそういう理由ではなくて、もっと根本的な理由で。……あなたも、気づいているんでしょう?」


 ぎゅうと下唇を噛みしめる彼女は、苦悶の表情を浮かべている。唇が切れてしまっているが、そこから血が滴ることはなかった。血のように醜いものは、桜である彼女には備わっていないからだ。醜いものはすべて、桜の木の下に埋まっている。



「……私が、幽霊だって」



 ひどく儚く透き通った彼女は、やはり美しい。

 そこに生命の息吹があろうと、なかろうと。


「知ってたよ。とっくにね」


 彼女が幽霊とか亡霊とかそういう類のものであることは、とっくに察しがついていた。まず第一に毎日授業にも出ず図書室にいることすらおかしいし、たまに図書室を訪れる人間には彼女が見えていないようだったからだ。


 彼女がこの世に生きていなかろうが、僕には関係がなかった。ただ彼女と添い遂げたい、彼女の横にいたい、彼女の横顔を眺めていたい。


「君とずっとに一緒にいるためにはどうすればいいか、ずっと考えていた。君を見るたびに感じる不安を解消するためには、どうすればいいか。美しい君の下に埋まっているのは何なのかを見つけなければ、この不安がなくなることはないなって」


 そして僕は、見つけた。

 彼女とこれからも共にいれる方法を。彼女の足元――桜の木の下に埋まっているものを見つけて自分を納得させる方法を。


「『桜の木の下には屍体が埋まっている』――だったよね」

「え、ええ。梶井基次郎ね」

「僕は君が桜に見えて仕方がないんだ。美しく幻想的な、幽霊の君が。だから君を見ていると、ひどい不安に襲われる」


 困惑する彼女をよそに、僕は彼女に近づいていく。

 図書室に置かれた机の向こう側にいる、彼女のところへ。



「だから、僕は昨日、埋めてきた。あの桜の木の下に――僕の屍体を」



 僕の体は机にぶつかることなく、するりとすり抜けた。


 もうこの世にはいない彼女――幽霊である彼女と共に過ごすためには、どうすればよいのか。簡単な話だった。人間であることを辞め、彼女と同じになればいい。


 醜い屍体を埋めて、美しい桜である彼女を眺める。

 僕ははじめて、彼女に対する不安から解放されたのだ。


「ば、馬鹿なことを……」

「馬鹿なんかじゃない。僕は何の憂いもなく美しい桜を――君を眺めていたいんだ。君の足元には僕の醜い屍体が埋まっていると思うだけで、僕はすべてが納得できる。君と同じ存在になれてよかったんだと、喜びを感じてる」


 そう言いながら僕は机をすり抜けていき、彼女の目の前へと躍り出た。

 今にも泣きそうな顔をしている彼女を、そっと抱きしめようとする。当たり前のことではあるが、幽霊である彼女と僕は、触れ合うことはできない。


 けれども、この美しい花弁が散ってしまわないように、僕は彼女を必死に抱きしめようとする。


 水分が体にない彼女が涙を見せることはない。けれどもその顔はまるで泣いているかのように俯き、体は小さく震えている。


 すべてを悟ったか諦めたか、彼女はゆっくりと顔を上げ、その表情を僕に見せてくれた。


 風に舞う桜の花弁のように、美しく、儚く――眩しい笑顔だった。



「ほんと、ばか」



 窓の外から見える桜の木の下には――僕の愛が埋まっている。

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桜の木の下には愛が埋まっている 稀山 美波 @mareyama0730

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