今夜カンポ・サントで

柚木呂高

今夜カンポ・サントで

「それで私は新規事業を任されるようになって、右も左もわからないまま、頭に糖分を巡らせて、凸凹なチームメイトと一緒に四苦八苦したの。毎日残業して、毎日頭を下げて、とにかく勉強して、色々な人に相談して。その甲斐があってか結局そのプロジェクトは大成功。ハッピーエンド。って言うわけには行かなかった。私は同僚のつまらないいざこざに巻き揉まれて、その流れで責任を取らされクビ、青天の霹靂、天国から地獄へ大どんでん返しってわけよ。」

「なるほど、そりゃ災難だ……。飲んで忘れたくもなるね。」


 神奈川のローカル駅、そこから十数分歩いたところにある小さなバー、カンポ・サント。白い壁にはテオ・アンゲロプロスの"旅芸人の記録"が映写機で大きく上映され、店内のBGMはそれとは全く関係のない電子音楽が薄く流れている。店主の雑多な趣味が雑多なまま顕れてしまったような散らかったコンセプトが読み取れる。客は二人だけ、高級そうな二つボタンのテーラードジャケットにオーバーサイズの柔らかい生地のカットソー、ふわりしたくせ毛を無造作風に整えた男。毛先にパーマを当てたレイヤースタイルの髪に、生地の切り替えが面白いブラウス、グレンチェックのワイドパンツをプレッピー風に着こなした女。男はマティーニを、女はニコラシカをちびちびと飲んでいる。


「それで今は失業保険を受給しながら職探し。来年で私も三十路になっちゃうし、急がないと再就職に響きそう。でも仕事をするのも今は嫌なのよね……。」

「気持ちはわかるよ、今はゆっくり休養期間と思っても良いのかも知れないね。」

「ねえ、私はそんな理由で初めてこのバーに来たんだけれど、あなたはどんな理由があってこのバーに来ているの?」

「俺?俺は常連なんだよ。よく来るんだ、仕事帰りに本を読みに寄ったり、買い物や映画を楽しんだ後、最後の余韻に浸りに来たり。」

「へえ、確かに落ち着くところよね。私、アンゲロプロスは好きよ。」


 壁の映像では海辺で兵隊たちが旅芸人を囲んでいる。「共産主義者じゃない」「語ってくれムーサよ、かのさまよい人の物語を……」場面が切り替わり演技をする。男と女は暫く押し黙ってそれを眺めている。ただ眺めているだけだ、物語を追おうとはしていない、沈黙を正当化するためのジェスチャー。男が口を開く。


「この曲のアーティスト知ってる?Burialって言うんだ。ロンドンのアーティストでさ、寒い雨の日の夜、雨に濡れたコンクリートの壁が、走り去る車のライトを反射するようなモノクロームな音楽だろ。」

「へえ、知らなかったわ。音楽に詳しいのね。私も電子音楽は嫌いじゃない。この音楽も、うん、良いわね、孤独感が染みるようでいい。」


 女は酒で唇を湿らせると話を続ける。


「数年前も鎌倉で友達と一緒にレイヴパーティーをしたわ。みんなでお金を出し合って自家発電装置を持ち込んで、浜辺で二つの音楽ブースを用意して踊ったの。テントが沢山立ってて、お客もそれなりにいたわ。友人の男の子がエクスタシーを溶かし込んだ自家製バターを使ってチャーハンを作ってみんなに配ってた。実際そんなのが効くのかわかんないけどね。みんな煌々と光る月を見て叫んで踊って。中には海に飛び込んだ一団もいたわ。秋も終わり頃、冬も始まろうとするのにね。私は疲れてテントの中で豚汁を啜っていた。友達はまだ元気に踊っていて。そこにまだ二十歳くらいのきれいな男の子が入ってきたの。寒そうにしていたからその豚汁と少し分けてあげて、それからキスをした。調子に乗って胸を触られたから横っ面をひっぱたいたわ。それからまた続きをしたの。」

「青春だな。すごく楽しそうだ。俺なんかはそういうの音楽フェスティバルでしか経験がないよ。うん。ハメを外す遊びってていうのは、恥と後悔がつきまとうものだけれど、時間が経つと急に輝きだして、美しい思い出に変わることがある。だから俺は思うんだけれど、人間はいつも全力で遊ぶべきだと思うんだ。遊びが全てを豊かにしてくれる。仕事も、アイディアも遊びが鍵を握っている。それも疲れる遊びをしなくっちゃダメだ。明日の朝起きれるかな、とかそういうことを考えて遊ぶんじゃなくて、クタクタになるように本気で遊ぶ。それが糧となる。」

「含蓄のあるような言葉ね。」


 男はおかわりを頼む。女もそれに倣う。マスターがこなれた手付きでそれらを作る姿をなんとはなしに眺める。女は男の落ち着いた、しかし物事を楽しもうと言う姿勢に惹かれ始めているように見えた。男もまた、女性の若さと年の割に幼い容姿、そして時にやんちゃな雰囲気に魅力を感じていた。二人はグラスを合わせて乾杯をする。


「ご結婚はされてるんですか?」

「ははは、俺くらいの歳になるとやっぱりそう聞かれるよな、恋人はいますか、じゃなくて、伴侶はいるのか、っていう。残念ながらいないんだ、恋人もいない。いくつかの会社を持ってて、それで毎日忙しいよ。こうしていられる時間だけが自由なんだ。」

「実業家なんですね、凄いなぁ。容姿も整ってらっしゃるのに不思議。私も恋人はずっといなくて、友達と遊ぶのが一番の気晴らし。でも今回のお仕事がクビになったのはちょっと自分の中で整理がつかなくて、頑張ってたし成功もしてたから恥ずかしい、知られたくないという気持ちが強くて。」

「そう言う時期は辛いね。確かにこんな話は行きずりの俺のような男に話したほうがいいし、ずっと楽だ。」

「あ、気を悪くしてしまったらごめんなさい!」

「いや、良いんだ、かわいらしい女性の秘密、今知ってるのは俺だけなんだろう?何だか親密な感じがして嬉しいよ。」


 女性は頬を赤く染めてごまかすように酒を口に運ぶ。


「恋人、作らないんですか?」

「情けない話なんだけど、昔付き合ってた女の子がさ、知らない男たちと一緒にマジックマッシュルームパーティーをしてて、その実況電話を聞かされて。ラリった彼女が支離滅裂なことを俺に嬉しそうに喋って、その後ろで男たちが彼女の尻を触っただの、胸を触っただの騒いでて、そういうのがあってから女性と付き合うのが億劫になっちゃってね……。」

「それは結構最悪な思い出だと思います。」

「ははは、嫌な思い出だけど、悪い思い出じゃないよ。」

「私だったらそんな嫌な思いさせません。」


 二人は見つめ合う。女の酔いの回った表情に男は色っぽさを感じてグラりと来る。女の手に男は手を乗せる。女はそれを拒まない。この世の中で、特別な理由がなくて手が触れ合い、その状態が保たれることはない。況や男女である。荒涼とした気持ちを抱えた女と、日常に渇きを覚えた男である。二人は暫く飲んだあと、店を出てタクシーで男の家に向かった。小綺麗な一軒家、玄関は広くリンドウが一本活けられた美しいモダンな花瓶。居間には大きなテレビとバング・アンド・オルフセンのオーディオ機器。建築家が意匠を凝らしたデザイナーズインテリアも美しかった。男はアニス酒を注ぐと女に渡す、二人は再び乾杯をする。


 女が目を覚ますと手術台のようなベッドに手足を縛られて全裸で寝かされている。男は嬉しそうに女を覗き込む。


「あの、何をしているんですか!?」


 男は無言で注射器を取ると女の手首に針を刺す。


「大丈夫、大丈夫、気持ちよくなる薬だから。」


 女は背筋が凍るような恐怖に襲われたのであろう、顔がみるみる青くなり、恐れとも憤りとも悲しみとも捉えられる複雑な表情で男を見やった。


「あー、そうそう、そういう表情がいいんだ。最高にそそるんだ。」


 男はビデオカメラをセットするとそれを起動する。そして何度も使っているのか、ところどころ汚れの目立つメスを手に、彼女の鎖骨に沿うように切れ込みを入れていった。そこから滴り出る血が鎖骨の凹みに溜まっていくと、それを筆で拾い、彼女の臀部や乳首を中心に模様を描いていく。女は恐怖と全身を這う舌のような筆が、体の芯を震わせるような快楽に変わっていくのを感じていた。


 しかし彼女が感じるような動きを見せると、男はそれが許せないようで、顔面を思い切り殴った。歯が抜けて鼻が曲がったのを感じる。その痛みさえも快感に感じるようで彼女は恐れを抱いた。


「これ、俺のもう一つの趣味なんだ。見てこのDVD、全部俺が撮ったんだ。やっぱり遊びは本気じゃないとつまらないからね。」


 遊びも佳境に入り、男は女の胸から腹まで切開しようとしていた。ところがその時、チャイムが鳴る。男は警戒して物音を消す。するとガラスが割れる音、いくつもの足音が家の中で聞こえる。そしてその足音が部屋の前で止まると、勢いよく扉が蹴り開かれる。


「大丈夫ですか姐さん!」

「おっせーんだよボケ!」

「何だお前たちは!?」


 男は顔面を殴られてその場でへたり込む。何人もの黒服が部屋に入り、女の拘束を解くと、黒服が女に一本の刀を渡す。女はそれを引き抜いて男の右腕を切り落とした。血しぶきが部屋に舞う。女は男に近づいて口づけをする。


「ねえ、覚えてる?私、マジックマッシュルーム食ってあんたにフラれた女。今日はあなたを貰いに来ました。」

「お、お前、嘘だろ、あのとき11歳だったガキか!?」

「そ、ロリコン野郎のあんたに弄ばれたガキが、人殺しになって迎えに来たわけ。」

「どうします?止血しておきますか。」

「あー、うん、死なれたら困るからしておいて。あと両足と左腕も行くから。」


 女は男の左腕を落とす。防音の部屋に響く叫び声。鮮血、刀を持った全裸の女。


「ねえ、これからは私たち、ずっと一緒だよ。ご飯も食べさせてあげるし、下の世話もしてあげるから。こんな甲斐性のある彼女いないよぉ~。幸せになろうねぇ。」

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