泥の家
安良巻祐介
長い求職の果てにようやく働き口が見つかり、通勤の為に新しく引っ越してきた家の近くには、「泥の家」という異名のマンションが在った。
たまたま近所の奥さん連中が話しているときに、マンションを指してそう呼んでるのを聞いて、知ったのだ。
見たところ、ごく普通のマンションである。出入りしている住人も、子どものいる一家や、老夫婦、一人暮らしらしい大学生など、傍から見たところでは普通の人々だ。
なのに、なぜそんな名前で呼ばれているのか、ずっと疑問に思っていたのだが…。
ある時、夜中に稲光が轟き、激しい雨が通り過ぎた、その翌朝。
ゴミを出しに、眠たい瞼をこすりながら外へ出て、何気なくマンションの方を見やって、ぎょっとした。
灰白色だったはずの壁面が、まるで何かをぶちまけたような、一面だんだらの赤黒い色に染まっているではないか。
雨上がりの少し湿っぽい空気の中、いつもと殆ど変わらない近所の景色の中にあって、マンションだけが全く別の色になっているのは、異様な光景であった。
そればかりではない。
次の瞬間、一階の入り口からぞろぞろと出てきたものを見て、俺は腰を抜かした。
両親とその小さな子供、年老いた夫婦、痩せた大学生、OLらしき女、中学生数人、エトセトラ…それはいずれも、見慣れたマンションの住人達であったが、その全てが、頭から足の先まで、建物と同じ色になっている。
彼らは、口を動かしているのに声が全く聞こえないこと以外は、普段と同じ立ち居振る舞いで、入口から道の上へと出ていく。
それはまるで、人を模して造られた精巧な泥人形が歩いているようであった。
地面に尻餅をついて、遠目にそれを眺めていた俺は、収集の日なのに、ステーションにゴミ袋が一つもないこと、見渡す限りの景色の中に人影も見当たらないことに、その時ようやく気が付いた。
腰が抜けたまま、マンションが、際限なく赤黒い住人を吐き出し続けるのを眺める。
後から出てくる住人は、顔や服装などのディティルがあいまいになり、殆どただの人型になっているらしい。
溶けた赤土が地面を汚して染めるように、平穏な街の風景を、それらの、泥の住人が埋めていく。
やがて、その行進が、道を伝ってこちら側へも動き始めたのを見て、ようやく頭と足がまともな反応を取り戻した。
立ち上がって、踵を返して逃げ出す。
家の中に入って、鍵をかけて、全ての窓のカーテンを閉めて、その日はずっと外に出ずにテレビをつけてやり過ごした。
それから後のことは、よく覚えていない。
気が付くと、全く別の場所の、別のアパートに住居を移していて、頭には何か大きなけがをしているようだった。おまけに失業していた。
何が起きたのか、あれからどうやってあの家を出たのか、全てがぽっかりと抜け落ちて、今でも頭の中には、ただあの赤黒いマンションと住人の悪夢のような絵と、「泥の家」という不可思議な名前だけが、消えない血の染みのように、残っているだけなのである。
泥の家 安良巻祐介 @aramaki88
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