星が生まれた日

街、恐怖、静

大きな角と星の名前を持つふたりが、生きて死ぬはなし







 名無しは何も持っていなかった。

 誰かに呼ばれるための名前も、腹を満たすための食べ物も、足を守るための靴も。痛いとか寒いとか、断片的な感情ばかり抱えながら毎日ただ生きていた。

 腹に重い衝撃が走る。唾が喉の奥でからまって咳が出た。灰色の壁に背中をぶつけ、暗い路地の汚い地面にモノのように横転がる。名無しをいたぶる二人組の男は、ぐったりと地に伏した名無しを嗤った。腹が減ったからと、街になど降りたのは失敗だった。どうしたって人の世界では名無しは目立ちすぎる。


「見ろよ、本当に角がある」


 畜生のようなその角は、名無しが人でないことの証だ。痩せこけた体に不釣り合いな、不格好で無骨な角。


「折ってやろうぜ。角は高く売れるんだと」


 面白そうに笑いながら、男は角に手をかける。

 その瞬間、怖気が走った。どれだけ鈍くあろうとしても決して無視できない感覚が、名無しに襲いかかる。とっさに抵抗しようとしたが、それよりほんのわずか早く割って入った声があった。


「何をしている」


 なめらかで少し低い心地のよい声だ。雨が降ったあとの土の匂いにすこし似ている。

 暗い路地に立つその人は、後ろに白い光を背負って立っていた。それは彼の背後の大通りに差す太陽の光にすぎなかったが、その人の不思議な雰囲気もあいまってやけに神聖な白に見えた。

 長いローブに身を包みフードをかぶったその人は、手に細長い杖を持っていた。その人は一見して状況を把握したらしく、続けてこう言った。


「離してやりなさい。その子がなにか悪さをしたというわけでもないんだろう」

「何だよ、善人ぶって」


 男は鼻白んだ様子で吐き捨て、名無しの角を掴み上げた。苦しくてかすかに呻きが漏れる。


「こいつらは人じゃないんだぜ。何の意味もなく生まれては死ぬバケモノだ。それなら、少しくらい人間様の役に立った方がこいつも幸せってもん……」


 その人は彼に最後まで言わせなかった。男は名無しの角から手を離して蹲っていた。細長い杖で突かれた腹を痛そうに押さえて咳き込んでいた。くしくも名無しが殴られたのと同じ箇所だ。


「意味がないか、幸せかどうかはこの子が決める。君じゃない」


 その人は傍らで立ち尽くすもう一人の男を冷たく一瞥する。


「逃げるなら追わないよ。私は君たちと違って狩りが得意なほうではないから」


 もう一人の男は片割れを置いて一目散に逃げていった。目で追えぬ速さで杖を振るう御仁を前に、戦って勝てる可能性など見いだせなかったのだろう。

 その人は蹲って呻く男をつまらなそうに見おろしてから、名無しに目を向けた。


「帰るところがないのなら、一緒に来るかい」


 まるで明日の天気の話でもするような気安い言い方にむしろ安堵して、名無しはその人についていった。親鳥を追いかける雛のように。

 その人は名をスワロキンといって、森の奥の小屋にひとりで住んでいた。

 スワロキンが初めに与えてくれたのは名前だった。

 名を聞かれたので「ない」と答えると、彼はしばらく考えていた。

 そして名無しにひとつの名を告げた。遠い空に輝く星の名前だそうだ。


「この名が君を守ってくれますように」


 スワロキンが祈るように言ったその日から、名無しはルファと呼ばれるようになった。

 スワロキンはとても物知りだった。天気の読み方、畑の管理の仕方、獣用の罠の仕掛け方など、ルファはたくさんのことを教わった。少しだけだが読み書きや算術も教わった。そして、身を守る術も。

 そういうときのスワロキンはとても容赦がなく、ルファは何度も地面に転がされてはえづいていた。


「立ちなさい」


 いつぞやならず者を退治したのと同じ杖を持ち、スワロキンは低く命じる。


「自分の身は自分で守らないといけないよ」


 彼よりも少し短い杖を地面に突き、それを支えに立ち上がる。しかし何度やってもついぞスワロキンに膝をつかせることはできなかった。その人がいつも頭に巻いていた布を落とすことすらも叶わなかった。

 そう、その人は頑なに頭を見せようとしなかった。頭に巻く布は日替わりで、日によって夜空のような紺だったり花のような薄紅だったりした。長く垂れた布と白い髪の色が混ざり合って鳥の羽のように鮮やかだった。

 ある日、手合わせが終わったあとにスワロキンが分厚い本を持ってきた。飴色の革表紙のその本はとても古いものらしく、頁を捲れば綴じ糸が切れてバラバラになりそうな危うさがあった。テーブルの上に本を広げ、二人並んで覗き込む。


「君たちは古い時代にはケラトと呼ばれて、吉兆として大事にされていたそうだよ」


 スワロキンの言った通りのことが本には書かれていた。文章の横に添えられた挿絵もそれらしきものだ。


「……そんなはずない」


 本に書かれていることを、ルファはどうしても信じられなかった。

 だってそれが本当なら、どうして今こんなに疎まれているのか。


「そうだね」


 スワロキンは存外あっさりとルファを肯定した。


「そうあってほしいと望んだ誰かの、作り話かもしれないね」


 そう言ってほほ笑む横顔は、どこか寂しげに見えた。

 その頃からスワロキンは少しづつ弱っていった。それが自然の摂理であるかのように衰弱してゆく。花が枯れるように、雨が降るように、池の水が澱むように。それはどうあっても避けられないことだった。

 すっかり寝たきりになったスワロキンの傍らに立ち、痩せこけたその人を見下ろす。いつかとは反対だ。あのときやせ細って弱っていたのは、見下ろされていたのはルファの方だった。


「死ぬのか」


 静かに問う。


「そう遠くないうちに」


 まるで他人事のように言う。


「何故あんたは、こんなに良くしてくれたんだ」


 小さな小屋の外では雨が降っている。ガラスの窓に水滴が伝っては流れてゆく。


「探し物をしていたんだ。ずっと見つけられなかったけれど、ようやく見つけられた。君のためじゃなくて自分のためだったんだ。初めから」


 今日もスワロキンの頭には固く布が巻かれている。体が弱ってもそれだけは毎日けして欠かさなかった。

 その布を取る。布の下にあったのは、角を折られた痕だった。根元に少し残った灰色の角が額から突き出している。


「あまり驚かないね」

「予想はしていた。だって、そうでないとあまりに……不自然だ」

「君は手合わせでもいつも頭を狙ってきた」


 スワロキンはおかしそうに少しだけ笑った。口角がほんの少し持ち上がって、かすれた息が漏れるだけの弱々しい笑みだ。


「私たちはとても丈夫だけれど、角を折られると途端に弱くなる。二年ほど前にうっかり折られてしまってね。大きな角は隠すのにも難儀する」


 口元に浮かべた笑みを消し、スワロキンは胸元の衣服をきつく握りしめた。


「じきに死ぬと分かって、怖くなった。とても恐ろしくなった。私の生きた意味はなんだったのだろうと」


 もうじき死ぬという段になって、スワロキンの目は常よりも冴えた輝きを宿した。それは、遠く輝く星に似ている。儚く強く、うつくしい輝きだ。

 この人の恐怖はルファにもよく分かる。ルファもいつかこの人と同じ恐怖に直面するだろう。そのとき自分は、この人のように足掻くだろうか。それとも諦めて無意味な生を受け入れるだろうか。今はまだわからない。それはまだ遠くかなたにある未来だ。


「私は……そう」


 今まで自分の服を掴んでいたスワロキンの手がルファの方へ伸びる。


「私の命が、君に繋がってくれたらいいと、思ったんだ」


 ルファは伸ばされたその手を取らない。ただ見つめていた。

 この人の知恵を、経験を受け継いでルファはこれから生き残る。今なら人間相手に遅れは取らない。繋がるとは、また随分と綺麗な言葉を選んだものだと思う。ルファはただ食っただけだ。死にかけの命を食べて自分のものにして、薄汚く生き永らえようとしている。


「身勝手な親でごめんよ」


 尽きていく命を見つめる。スワロキンは笑っていた。


「君は、私よりはやく、みつけられるといいね」


 とすん、といやに軽い音を立ててその人の手が白いシーツの上に落ちる。その人は眠るように死んでいた。生きているうちはけして取らなかったその手を握る。冷えているのに、まだ少しだけ体温が残っていた。

 雨は飽きもせず降り続いて小屋の屋根をぱらぱらと叩く。


「……まるで呪いだ」


 乾いた手のひらに雨が一粒こぼれた。







追記

 スワロキン

 いるか座α星。星言葉は「理想と現実のバランス」

 とある天文台のとある助手の名前をラテン語化して逆から読んだもの。


 キタルファ

 こうま座α星。星言葉は「はるか遠くを見つめる瞳」




 彼らに性別はない。ひとりで生まれてひとりで死ぬので本来は群れる必要がない。とても丈夫で長生きだが、角を折ると数か月から数年で死んでしまう。

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きみの見た夢のはなし 深見 鳴 @manganeseblue

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