最終話

 昨日の夜は叫び疲れてベッドに倒れこんだ。しかし、一睡もできなかった。放心状態のまま講義室に入った私のなかには、まだ興奮が残っている。

「会う……ギボルさんに会う」

 それは、彼とつながってから、毎日夢に見たこと。

 実現するはずのなかったこと。

 でも、明日、彼の姿を、彼の顔を、彼という存在を、この目に映すことができる。画面上だけではもの足りなかったすべてを、望んでやまなかったすべてを、この目に……。

 彼は、私の姿を見てどう思うかしら?

 やっぱり普通だと思うかしら。まあ、それならそれでいいの。だって、私はノーマルタイプなんだから。むしろ、その印象をどう色づけていくかが勝負だよ。彼は現時点で、きっと少しは私のことを考えている。今日の夕飯のメニューよりは重要なこととして考えているはず。それをもっと、いま以上に深めて、誰よりも特別に思ってもらうためには、どうすればいいのか。

 これは妄想じゃない。

 いままでとは違うんだ。

 これから実際に起こることなんだ。

「失敗は、許されない」

 そんな世界。

 これまで私は、周囲の他人を材料にして、いろんな妄想をして自分を満たしてきた。リストを更新しては、彼らの一挙一動を観察して、自分にとって都合のいいように解釈してきた。彼らはみんな、自分に興味をもっているのだと思い込んでは、真上から偉そうに私を見下ろしている『私』に罵られた。それでも、汚れた地べたに生きている私には、やめられなかった。自意識ばかりが強くて、なんのとりえもない私にはそれしかできないんだもの。しょうがないじゃない。

 だけど、それも、今日で終わり。

 私は、私の頭で動く。妄想だけの、受け身な自分はおしまいなの。これからは、自分の力で周囲に私を刻み込んでやる。きっと、できる。ギボルさんは、私に変わるチャンスをくれた。消えなくたって、この世界で、私は生まれ変われるんだ。ギボルさんが絶対、それを証明してくれる。面白味のある人間だって、興味をもたれるべき人間なんだって認めてくれる。この先の人生は、自分をどん底まで卑下したり、言葉で切り刻んだりしなくてもよくなる。私、ギボルさんに未来を託すから。

「……あは」

 自分の頭で動くなんて、嘘っぱちね。やっぱり自意識は他人がいないと満たされないわ。……でもきっと、彼との出会いの向こうに、穏やかに生きている私が待ってる。自他ともに特別だと、唯一無二だと認められた私が笑ってるはず、だよね。

 私、あなたのこと――。

「し、ん、じ、て、る、か、ら」


 自動ドアの外では、はらはらひらひらと白いものが舞っていた。

『放課後、正門で会いましょう』

 ため息が出た。もちろん幸せなものだよ。

 ギボルさんに会うまでの、この一秒、いや、この一瞬一瞬に、私は祈りを捧げる。明るい未来の訪れよ、新たに生まれ変わる私よ、彼と私を引き会わせたすべての偶然よ、どうか最後までここにいて。私を置いて消えないで。夢じゃないって、私に教えて。

 やだ、涙が出てきちゃった。

 急に込み上げてきた不安に、顔を覆った。

 いま頃、講義室から出て、肌寒い廊下を進んでいるのだろうか。

 緊張をほぐすために一度トイレに寄って、深呼吸をしているのだろうか。

 意を決して、正門までの並木道を歩き出しているのだろうか。

 私も外に出た。サァッと視界が明るくなる。

 正門には、まだ誰もいなかった。

 赤茶色のレンガに背中をあずけ、目をつぶった。

 彼はきっと、すぐそばまで来ているはず。

 白い息を吐きながら、マフラーの位置を整えて、ポケットのなかで携帯を握りしめていたその手で、私の肩を、そっと触ってくれるはず。

 三分、四分、五分。

 待ち遠しいわ。

「……、……♪」

 気づいたら、勝手に口が歌っていた。たしかこれは、なにかのCMソング。美しい冬の歌。こんな情景にぴったりね。

 ギボルさん。

 あなたの体にそっとついた、小さな雪のすべてが妬ましい。その白い雪のすべてが、私なら、私の一部なら。

「私の目なら、いいのにね」

 流行りのメンヘラみたいな呟きに、思わず失笑した。

 目を開けると、いつもの道路に、いつもの弁当屋、いつもの雑居ビルとその窓に映った曇り空が見えた。これまで数えきれないほど眺めてきたこの景色が、カメラの連写機能のように、パパパパと高速で浮かんでは消えていった。

『放課後、正門で会いませんか?』

『放課後、正門で待ってるから』

『放課後、正門に来てくれたら嬉しい』

『放課後、正門でうろついてる奴いたら、俺だから』

『放課後、正門で――……』

 いつの頃からか数えるのをやめたが、私は何度も、非現実的な偶然を経て誰かと会う約束をしている。そのたびに正門で、そのときの『彼』を待っている。桜に、日差しに、落ち葉に、この雪に、軽蔑の視線を向けられながら。

 運命の出会い。

 そんなもの、私の頭のなかにしか存在しない。

 何千回、何万回ここに立っていたって、待っているかぎり誰にも会えないことを、真上の『私』は知っている。

 ここにいる私も、いまは知っている。


 すっかり暗闇に包まれた校舎を一度振り返り、何事もなかったかのように、雪を踏み荒らす無数の人間たちに吸い込まれていった。

 途中、点滅する青信号を駆け足で横断していたら、渡りきるところでつまずいて、少しよろけた。そのとき、愛用している手提げカバンのなかで、複数の携帯がぶつかり合ったような音がしたが、トラックの排気音がそれをかき消した。

 私は体制を整え、再び電飾の街を歩き出す。

 少なくとも正気でいるつもりの自分と、その反動から狂気に身をゆだねた自分との境界を行ったり来たりしながら、この脳みそが朽ち果てるまで、きっとこのまま歩いていくのだろう。

 少し高いところで浮遊しながらあとをついてくる『私』が、卑しい笑いを漏らす。振り返って上を向くと、目が合った。彼女は言う。

 お前は、死ぬまで変われないよ。


「……生まれる前から、知ってますとも」



  

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運命の出会いごっこ シラス @04903ka7

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