3/トレロ・マ・レボロ -17 心臓

 それは、あまりに一瞬の出来事だった。

 気付けば、俺は、宙を舞っていた。

 青空が美しい。

 神眼による時間遅滞が、体感速度を狂わせる。

 俺は、そのまま、ゆっくりと、背中から石畳へと叩きつけられた。

 痛みが走る。

 恐らく、左の鎖骨と肋骨が数本折れている。

 だが、それどころではない。

 一瞬未満で立ち上がり、ルインラインの元へと再び駆け出す。

 駆け出そうと、した。

「──……あ」

 そして、見た。

 見てしまった。


 ルインラインの長剣が、

 ヘレジナの左胸を、

 その根元まで貫いていた。


「あ、……ああ、あ……」

 絶望に膝をつきそうになる。

 震えが止まらない。

 ヘレジナ。

 ヘレジナ。

 ヘレジナ。

「ヘレジナ……ッ!」

「──…………」

 ルインラインが、無造作に長剣を振り、ヘレジナを地面へと叩きつけた。

 その衝撃で、胸に刺さっていた長剣が、貫通していた左胸から、肺、肋骨、皮膚と、すべてを斬り裂いた。

 俺たちの誰もが、呼吸を止めていた。

 俺たちの誰もが、現実であると認められなかった。

 俺たちの誰もが、夢なら覚めろと願った。

 そう、たった一人を除いて。

「──ッ!」

 プルが、駆け出す。

 その足に迷いはない。

 ルインラインの足元に両膝をつき、ヘレジナに治癒術を──

「魔竜ルインライン。プルクトを捕まえて」

「あ──」

 ルインラインが、無慈悲にも、ヘレジナに治癒術をかけている最中のプルを肩に担ぐ。

「待って! 一緒に行く! い、一緒に行くから、治癒術だけ……!」

 ハルユラが、満面の笑みで言った。

「だーめ」

「──……ッ」

「だって、こっちはアイヴィルを失っているもの。有能だったのに、もったいない」

 プルが唇を噛む。

 八重歯が唇を切り、血が流れ出した。

 悔しいのだ。

 悲しいのだ。

 無力な自分が、許せないのだ。

 俺も、同じだった。

「──さ。わたしたちは、もうすこしマウダンテトを壊してから行くけど、貴方たちはどうする? 無謀にも、もう一度挑む?」

「──…………」

 ハルユラが嘲るように笑う。

「……そんな気力もないみたいだね」

 こぶしを、痛いほど握り締める。

 痛ければ痛いほどよかった。

 自分を許せそうになかったから。

「パレ・ハラドナへ連れ帰って、場を整えたら、プルクトを民草の前で処刑する。見に来てもいいよ。勇気があれば、ね」

 プルが、口を開く。

「──来ないで」

 震える声で、微笑みながら。

「かたな、……来ないで。絶対に」

「──…………」

 パン、と。

 両頬を叩き、気合いを入れる。

「迎えに行く。ヘレジナと一緒に」

 プルが、笑顔で俺を見た。

 こんなにも悲しげな笑みは、初めてだった。

「それでは、ごきげんよう」

 ハルユラが、プルを担いだルインラインを伴って、歩き去る。

 俺は、それを確認すると、アーラーヤに視線を送った。

「おう!」

 片膝をついていたアーラーヤが、可能な限りの速度でヘレジナへと駆け寄る。

 治癒術の光がアーラーヤの手から放たれ始めた。

 奇跡級上位の剣術士にして、奇跡級の治癒術士。

 こんなチート人間は、サンストプラ広しと言えど、アーラーヤくらいのものだろう。

 ルインラインのような本物の怪物を除けば、だが。

「──…………」

 アーラーヤの顔が曇り始める。

「……ッ」

 俺は、ヘレジナの手を取った。

 ヘレジナの体はまだ温かく、不安が一瞬だけ和らいだ。

 だが、俺は脈を測ってしまった。

 気が付いてしまった。

 脈拍が、ない。

 奇跡級の治癒術によって、貫かれた心臓や肺自体は形を取り戻しているはずだ。

 かつてプルが言っていた言葉を思い出す。

 奇跡級の治癒術では、内臓機能までは回復できない。

 心臓は、内臓だ。

「あ──」

 くしゃり、と。

 俺の心が現実に踏み潰される音が聞こえた。

「カタナ、サン……」

 クロケーが、慰めるように俺の肩に手を置く。

「……まだだ。まだ、何か!」

 そう口にした瞬間、



【ヘレジナを助ける】


【ヘレジナを見捨てる】



[星見台]の選択肢が眼前に現れた。

「──…………」

 あるのか?

 可能性が、まだ、残されているのか?

 気が付けば、ヤーエルヘルが俺の顔を覗き込んでいた。

 吸い込まれそうなほど深い、翡翠の瞳で。

 あのときのように。

 ネルが、死んだときのように。

「──助けますか? それとも、見捨てますか?」

 考えるまでもない。

「助ける」

 ヤーエルヘルが、薄く微笑んだ。

「わかりました」

 そして、ヘレジナを見て目を伏せる。

「[星見台]は、ただ、それが可能であるとあなたに教えるだけの能力に過ぎません。ですが、それゆえに、ヘレジナさんが助かる道があることだけはわかる。方法は──」

 ヤーエルヘルが、俺の胸を指差した。

「あなたの中に、あるはずです」

「──…………」

 考えろ。

 考えろ。

 考えろ。

 この小賢しい頭で、なんとかひねり出せ。

 ヘレジナと共に生きる未来を掴み取れ。

 ネルのときはどうだった?

 そう。

 あのときは、サザスラーヤの血潮をネルに飲ませたのだ。

 だが、サザスラーヤの血潮はない。

 ここには、ない。

 ここには。


 ──本当に、そうか?


 脳裏で鳳仙花が弾けた。

「──クロケー! コップ一杯でいい。水を持ってきてくれ!」

「ワ、ワカッタ!」

 戦闘、そして城斬りによって、俺たちの周囲から人はいなくなっていた。

 クロケーは、近くの民家の扉を蹴破り、無理矢理屋内へと侵入すると、ほんの数十秒で木製のコップと共に駆け戻ってきた。

「コレでいいか!」

「ああ!」

 俺は、懐に手を入れた。

 それは、肌身離さず持っていたもの。

 大切な、思い出の品。

 そして、サザスラーヤの血潮がたっぷり染み込んだ、ネルのリボンだった。

 リボンをコップに入れ、再びクロケーに手渡す。

「この水、沸騰させてくれるか」

「……ワカッタ」

 俺を信じ、一切の口を挟まずに行動してくれるクロケーが頼もしかった。

 ぼこぼこと、あっと言う間にお湯が沸く。

 リボンの端をつまんだまま、幾度もそれを上下させる。

 サザスラーヤの血潮が、すこしでもお湯に溶け出すように。

「──カタナ。長い時間死んでると、蘇生率が下がる。そろそろ頼む!」

「わかった!」

 俺は、ヘレジナの後頭部を持ち上げると、サザスラーヤの血潮を煮出した湯を口へと流し込んだ。

「……熱いのは勘弁してくれよ」

 ヘレジナの口の端から沸騰したお湯が溢れ、俺の指を灼く。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 頼む。

 生きてくれ。

 頼む。

 俺と一緒にいてくれ。

 そして、プルを助けに行こう。

「──ヘレジナ」

 お前がいてくれないと、俺は。

「頼む。俺を、置いていかないでくれ……」

 その瞬間、


 とくん。


 ヘレジナの首筋が、かすかに動いた気がした。

「!」

 手首の脈を取る。

「……動い、てる」

「マジか!」

「──あ、……うああ、ああああああ……」

 涙が溢れる。

 止まらない。

 俺は、夢中でヘレジナを抱き締めた。

 意識は、まだないかもしれない。

 それでも生きている。

 それだけで、よかった。

「……カタナさん」

 ヤーエルヘルの声に、顔を上げる。

 溢れる涙を拭って、真剣な表情を作った。

「ヘレジナさんは、一時的には助かりました。ですが、いまだ危険な状態であることに変わりはありません」

「そう、……なのか?」

「ああ」

 アーラーヤが、気まずそうに頷く。

「継続治療を続ければ、死を先延ばしにはできる。本来なら、それでも数日がいいとこって重傷だ。だが、今回は、かなり薄いとは言えサザスラーヤの血が入ってるからな。もうすこし持つとは思うが、確定的なことは言えねえ」

「なら、どうすりゃいい! どうすれば、ヘレジナは助かる……!?」

「陪神級の治癒術士なら一発。奇跡級の治癒術士が二人以上なら、一ヶ月程度の継続治療。それで命は取り留める。剣を握れるようになるかどうかは、その後のリハビリ次第だな」

「あ──」

 プルが、いれば。

 プルがいれば、確実に助かったのだ。

 トレロ・マ・レボロの亜人たちは魔術を忌避している。

 奇跡級、まして陪神級の治癒術士など、いるはずがない。

 手段は一つだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る