第六章 亜人国家トレロ・マ・レボロ

1/ハウルマンバレー -1 港町リンシャ

「──ッ、あ゙ァー……!」

 長めのタラップを歩きながら、思いきり伸びをする。

 背中の関節がパキリと鳴った。

 今日は、夏の後節五日。

 ワンテール島を後にした翌日だ。

 これほど早くウージスパインにまで戻ってこられたのには理由がある。

 栄えあるユアン号でウォーラートへと戻る際、ヤーエルヘルの操風術で再び航路をショートカットしたのだ。

 そのおかげで、一日に一度出航する港町リンシャへの定期船に間に合ったという次第である。

 懐かしいと言えるほど滞在した町ではないが、アーウェンを出国し、ウージスパインへと戻ってきた事実こそが、俺の心をかすかにぐらつかせていた。

「へ、ヘレジナ。だいじょうぶ、だった……?」

「はい。この通り息災ですとも」

 俺の背中の荷物を掴みながら目蓋をギュッと閉じている状態で、そう得意げに言われてもな。

「ヘレジナ、もう陸に着いたぞ」

「おお、本当か!」

 荷物を掴む手が離れる。

 振り返ると、ヘレジナは既に目を開いていた。

「しかし、本当に残念だ。酔いさえしなければ心地よい旅路であったのに……」

「ぎょ、御者の必要もないし、……ね」

「まさしく」

 ヘレジナがうんうんと頷いたあと、言った。

「しかし、他の乗り物に乗って実感した。騎竜車は、やはり良い。馬より気性も大人しく、引く力も強く、人馴れもしやすくて、何よりも指示を違わない。おまけにエサはそこらの雑草で構わないと来たものだ。飼い葉を与えたほうがよく走るが、冬場以外は必須ではないしな。騎竜車ほど旅に適した乗り物もないであろう。まあ、重箱の隅をつつくのであれば、不満点はなくはないが」

「んじゃ、その重箱の隅を聞かせてくれよ。気になる」

「やはり、雨の日であろうな。屋根があるゆえ、ある程度ならば問題ないが、風向きと雨足によっては濡れに濡れる。夏であれば涼しいで済むが、秋、冬と季節が巡れば、雨具を用意したとしても足止めを食らう場面も出てくるはずだ」

「御者は俺も代わるし、無理はするなよ」

「ああ。そこはしっかり甘えるとしよう」

 プルが右手を上げる。

「わ! わたしも、いっこ、ある……」

「お、なんだなんだ」

「空気が、こもる……」

「ああ……」

 わかる。

 特に、湿度が高い日に顕著だ。

 騎竜車は、前方から後方へ向けて空気が吹き抜ける構造になっている。

 なってはいるのだが、客車内の気密性を保つためか、多くの騎竜車は御者台へと通じる扉を小さくする傾向にあるらしい。

 雨戸もあるものの、俺たちの所有する騎竜車では顔がギリギリ出せる程度で、空気を取り入れるにはあまり向いていない。

 夏の暑さと冬の寒さ、後者を重要視しているということだろう。

「ヤーエルヘルはあるか?」

「……えっ?」

 ぼんやりしていたヤーエルヘルが、驚いたように俺の顔を見上げた。

「──…………」

 ナナイロのことを考えていたのだろう。

 当然だ。

 彼女が亡くなってから、まだ三日しか経っていないのだ。

「騎竜車への不満、なんかないかなってさ」

「不満、不満……」

 真面目に考えてくれるのが、いじらしい。

 唐突にワンテール島を後にしたのは、ヤーエルヘルが、島にいるとナナイロのことを思い出してつらいと漏らしていたからだ。

 ヤーエルヘルの心も、俺たちの心も、まだ傷だらけだ。

 彼女のことを考えると、じくじくと痛む。

 すこしだけ時間と距離が必要だった。

「──あ、一つ思いつきました。下に蛇口がついてる水用の樽がありましよね。あれ、床に置いておくと水を出すのが手間なので、いいかんじの高さに水樽用の棚があればってずっと思ってたんでし」

「ああ、わかる……」

 そのままだと汲みにくいんだよな、あれ。

 樽を二つ重ねればいいと試したこともあるのだが、悪路で倒れそうになって以来、不便を受け入れることにした。

 樽が割れて客車内が水浸しになるよりはましだ。

「雨の日の御者は、しばらくは雨具でなんとか。空気が篭もる件はこれから寒くなっていくからひとまずいいとして、水樽用の棚は、先に頼んでおいてもよかったな」

 そう。

 俺たちは、アーウェンへと出立する直前、リンシャの預かり所で騎竜車の改修を依頼していたのだった。

「でしね。ごめんなし……」

 俺は、ヤーエルヘルの頭を帽子の上から撫でた。

「いんや。あのときは定期船が出るってんで全員アホみたいに急いでたからな。仕方ないって」

「う、……うん! ふへ、ベッドがつくだけで、十分……」

「──…………」

 俺は、ヤーエルヘルの頭を撫でながら、十歳のあの子を思い出していた。

 実を言えば、ナナイロとは、ほんの一日しか行動を共にしていない。

 六十年後の──現在のナナイロとの時間を含めたとしても、せいぜい一日半くらいだ。

 たったそれだけの邂逅であるにも関わらず、これほどまでに俺たちに自分の存在を擦りつけていった。

 俺たちの心に、埋めがたい穴を残していった。

「──よし、預かり所へ向かうとしよう。改修が終わっていればよいのだが」

「そうするか。まだかかりそうなら、宿を探そう」

「せっかく色をつけてやったのだ。早さか質かのどちらかは、あって然るべきであろう」

「早くて質もよかったら、いちばんなんでしけどね」

「そ、……それは、ぜいたくかも?」

 俺たち四人は、降りたばかりの定期船に背を向けると、十日ほど前に騎竜車の改修を依頼してあった預かり所へ行くことにした。

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