3/再び、ワンテール島 -5 寿命
「ふー……」
ゼンネンブルク診療所の浴室を出て、タオルを首に掛けたまま待合室へと戻る。
そこには、ナナイロとバルマの姿しかなかった。
「お帰り、カタナ兄」
「おう」
「カタナ。お前も休むといい。六十年前の獅子奮迅の活躍、今でも覚えているぞ。あれから休息を取っていないのだろう?」
「そうだな。正直、だー……いぶ、疲れてる」
ソファに深々と腰掛け、背もたれに両腕を預けたまま天井を見上げる。
「果実水飲むか、果実水」
「飲む飲む」
ナナイロが、水差しからグラスに果実水を注いでくれる。
「サンキュー」
俺は、花の香りのするポニーニの果実水をひとくち飲み下すと、そっと目を閉じた。
「……なんか、思い出すな。六十年前も、こうして、ナナイロが果実水を持ってきてくれてさ」
「ああ、おれが水差しとグラスをぶちまけちまったやつな」
「そうそう。俺にとっちゃ、つい昨日のことだけど」
「……同じさ。おれにとっても、つい昨日の出来事のような気がしてる」
「そっか……」
「あのときは、──げほッ!」
ナナイロが、背中を丸め咳き込む。
「ナナイロ?」
「けほッ! ごほ、ゴホッ! ……げほッ!」
「ナナイロ!」
慌ててナナイロの傍へ駆け寄ると、その背中を優しく撫でる。
ナナイロが、懐からあの小袋を取り出し、黒い丸薬を飲み下した。
「ふゥー……」
「……大丈夫か?」
「なあに、大丈夫だぞ。慣れたもんさ」
ナナイロが落ち着くのを待ち、隣に腰掛ける。
「なんの病気なのか、聞いてもいいか?」
「──…………」
俺から目を逸らし、口をつぐむ。
「ナナイロ」
バルマが、諭すように言った。
「伝えるべきではないのか?」
「今じゃあ、ないだろ……」
「……ここにいるのがヤーエルヘルであれば、私も何も言わなかった。その双肩に世界の命運がかかっている今、彼女に精神的な負担を与えるべきではない。私とて、それくらいはわかる。だが──」
バルマが、呟くように続けた。
「唐突な別れほど、残酷なこともあるまい」
「……ったく、ほとんど言っちまってるじゃないか」
首の後ろに手をやりながら、ナナイロが深々と溜め息をつく。
「──…………」
嗚呼。
聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくない。
だが、俺は、聞かなければならない。
現実から目を逸らしても、待つのはより深い悲しみだけなのだから。
「カタナ兄。おれは、病気じゃあない」
ナナイロが、俺をまっすぐに見つめ、言った。
「──寿命だ」
「寿、命……?」
信じられなかった。
ナナイロの肉体年齢は七十歳だ。
だが、七十歳の女性としては壮健で、健脚で、死の影など微塵も見えない。
彼女の思い込みだと信じたかった。
「おれは魔獣だ。あの願望器によって造られた、ナナミのできそこないだ。覚えてるか、カタナ兄。701号が、いつ亡くなったか」
「それは──」
バルマの言葉を思い出す。
「一年近く前、だって」
「ああ」
ナナイロが頷く。
「より正確に、わかりやすく言うのなら、701号が製造された六十年後、だ」
「──!」
六十年。
奇妙な符合だ。
神隠しの遺跡は、六十年前のエン・ミウラ島と繋がっていた。
701号は、製造された六十年後に亡くなった。
神代の魔術にとって、六十年は、一つの単位なのだろうか。
「──いや、待て。待ってくれ。ナナイロが産まれたのは、六十年より前のはずだぞ。パタネアが半年前に拾ったって言ってたんだから!」
「ああ、その通りだぞ。だからな」
一拍か二拍置いたあと、ナナイロが、その言葉を口にした。
「おれは、もう、とっくに寿命を過ぎているんだよ」
「──…………」
絶句する。
「……いや、だって。おかしい。ナナイロはこうして」
「この丸薬はな」
ナナイロが、小袋を逆さに振り、中身をすべて手のひらに出す。
残る丸薬は、たったの三粒だった。
「魔獣の遺骸から精製した、魔獣用の延命薬なんだ」
「──ッ」
「ま、最初は随分効きも良かったんだけどな。こういうもんは、得てして、だんだん効果が薄くなってくるもんだ。この三粒で得られる命は、せいぜい数時間ってところだな」
「じゃあ、ナナイロ。お前は──!」
ナナイロが、当然のような顔で頷いた。
「ああ。数時間後には、死ぬ」
「──…………」
ギリ、と。
俺の奥歯が軋みを上げた。
何が奇跡級上位の剣術士だ。
何がハィネスの神眼だ。
何が[羅針盤]だ。
何が[星見台]だ。
俺には、仲間一人の命を救うことすらできないのだ。
「……泣くなよ」
「無理、……言うな、よ……!」
ナナイロが、俺の右手に、骨張った両手を重ねる。
「なあ、カタナ兄」
「──…………」
「おれの人生を、どう思う?」
「どう、……って」
「──六十年前、おれは、魔獣として生を受け、パタ姉に拾われた。カタナ兄たちと出会い、ワンダラスト・テイルの仲間となって、遺跡の奥で自らの出自を知った。そして、同時に、生きる理由を手にした」
「生きる、理由……」
「六十年後の終末を回避する。それが、おれの使命。生きてていい理由になったんだ」
「──違う」
それだけは、違う。
「お前は、お前であるだけでよかった。俺たちも、パタネアだって、お前に生きていてほしかった。お前のことが、大好きだったんだ」
「──…………」
ナナイロが、薄く微笑む。
「きっと、そうなんだろうな。パタ姉も、皆も、おれを条件付きで愛してくれたわけじゃない。わかってる。わかっていて、なお、この人生に意味があったことに、おれは救われたんだ」
ナナイロはナナミのなりそこないとして産まれた。
オリジンは彼女に見向きもしなかった。
だが、パタネアは、彼女に価値を与えてくれた。
生きてもいいと、生きていてほしいと、ナナイロの存在を無条件で肯定したのだ。
しかし、自らの出生に、両親の愛どころか意味も価値すらもなかったという事実は、産まれて半年の少女にとってあまりに重すぎた。
だから、生きる意味にすがったのだ。
世界を救う。
その使命はきっと、ナナイロに、自分の人生には価値があると信じさせてくれたのだろう。
「──それから数年して、パタ姉とライナンのあいだに子供が産まれた。可愛らしい男の子だったよ。マナナの父親だ。そのとき、おれは思ったんだ。この子が手がかからない年になったら、
「なんでだよ。パタネアのことだから、ナナイロに寂しい思いなんてさせやしなかっただろ……」
ナナイロが、首を横に振る。
「だから、だよ。パタ姉の愛は、これからは、この子だけに注がれるべきだと思ったんだ。おれに余計な時間を費やしてほしくなかった」
「──…………」
「パタ姉の子供が四歳になったとき、おれは島を出た。そのときには、もう、ワンテール島になってたかな。あんまり覚えてないな……」
俺は、ナナイロの話に自然と聞き入っていた。
彼女の人生を知りたいと、ずっと思っていたからだ。
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