2/エン・ミウラ島 -1 人歴1071年 夏の中節二十九日

「──……ん、う」

 西日に当たらないよう、木陰でプルに膝枕をされていたヤーエルヘルが、ゆっくりと目蓋を開いた。

「あちし……?」

 プルが、ヤーエルヘルの前髪を払う。

「お、おはよ、ヤーエルヘル。具合は、ど、……どう?」

「あ、はい。大丈夫でし。あちしはどうしたのでしょう……」

「遺跡の半輝石セルに、魔力マナを送りすぎたみたいなんだ。覚えてるか?」

 ヤーエルヘルが、小さく目を見開く。

「──そうだ。途中で止めようと思っても、魔力マナが吸われるみたいに動けなくて。気が付いたら、気を失ってて……」

 どうやら、強制力の働くものだったらしい。

 ヘレジナが、身を起こしたばかりのヤーエルヘルに視線の高さを合わせた。

「お前が気を失っているあいだに、とんでもないことになっておる」

「とんでもないこと、でしか?」

「ああ。まず、そうだな──」

 背後を振り返る。

 そこには、マナナの腕にぶら下がって遊んでいる女の子の姿があった。

「あの子は……?」

「聞いて驚くな。あの少女は、自らを、ナナイロ=ゼンネンブルクと名乗った」

「……へ?」

 ヤーエルヘルが、どんぐりまなこをまんまるにする。

「他にもわかったことが幾つかある。ヤーエルヘル。今年は人歴何年だ?」

「え、えと、1131年でしょうか……」

「そうだけど、そうじゃない。今日は、人歴1071年、夏の中節二十九日。俺たちのいた時代から、まるまる六十年巻き戻ってるらしい」

「──……???」

 ヤーエルヘルの頭上に、無数のハテナが浮かぶ。

 いきなり言われても、そうだよな。

 プルが、ヤーエルヘルの肩に手を置く。

「な、ナナイロは、ま、魔獣に襲われてた、……んだ。それで、ね。ま、町が、大丈夫じゃない、……って」

「大丈夫じゃ、ない……」

「状況から考えて、可能性は低くない。俺たちが、本当に時を遡った可能性。そして、俺たち自身が、六十年前の英雄──ワンダラスト・テイル当人だって可能性だ」

「あちしたちが……」

 ヤーエルヘルの表情に、徐々に理解と驚愕が浮かび始める。

「それと──」

 ヤーエルヘルの前に屈み、その左手首を指し示す。

「これが何か、わかるか?」

 そこには、黄金の腕時計の姿があった。

「……? なんでしょう、これ」

 ヤーエルヘルが、半球状の蓋を指先でカチリと押す。

 すると、磨き込まれた黄金の蓋が徐々に透けていき、その中身が露わになった。

「え──」

 そこにあったのは、四本の針だった。

 光を押し固めたかのような赤い針が宙に浮き、それぞれが反時計回りにゆっくりと回転している。

 あまりの奇妙さに絶句し、目を奪われる。

 異様だが、美しい光景だ。

「──お、やっと起きたなコノヤロウ!」

「わ」

 ナナイロの声に、ヤーエルヘルが反射的に腕時計を隠す。

 その行動を意にも介さず、ナナイロが帽子を取って頭を下げた。

「おれは、ナナイロ=ゼンネンブルク! よろしくな!」

「や、ヤーエルヘル=ヤガタニ、でし……」

「名前なげえ! 今日からヤー姉な!」

「は、はい……」

 ヤーエルヘルが、目を白黒させながら、尋ねる。

「……その。ナナさん、なのでしか……?」

「?」

 ナナイロが、不思議そうに大きく首をかしげる。

「おれはおれだぞ。ナナイロだぞ」

「──…………」

 ヤーエルヘルは、言葉もない。

 当然だろう。

 目の前の少女が六十年前の師だと言われて、戸惑わない人間は恐らくいない。

「ははっ! ヤー姉はへんなやつだなー!」

 マナナが、ナナイロの頭を、痛くないようにこつんと叩く。

「こーら、ナナイロ。初対面で失礼でしょうに」

「はーい」

 さすがだ。

 マナナは子供の扱いに慣れている。

「ヤーエルヘルも起きたし、いったん町に戻ろう。歩きながらでいいから、現在の状況を教えてくれないか」

「おーけーだぜ、カタナ兄!」

 ナナイロが、ビシッと親指を立てる。

 本当に元気な子だ。

 町へと通ずる獣道を辿りながら、ナナイロが事情を話す。

「まず、そーだな。一年くらい前から、島に魔獣が出始めたんだって。んで、おっちゃんやらにーちゃんやらが北の入り江に討伐に行ったんだけど、戻ってこなくてさ。それを何度も繰り返してたら、島に男がぜーんぜんいなくなっちまったんだと」

「──…………」

 聞き覚えがある。

「そのうち、黒ずくめの海賊やらなんにゃらが出てきて、今度は女のひとまでさらい始めたんだ。残ったのは、おれたちみてーな子供と、うまく隠れた大人だけ。やべーぞまじで。おれでも年長者なんだぞ」

 プルが目を伏せる。

「そ、それは、……たいへんだった、ね」

「大変なんてもんじゃねーよ! たい……ッ、へん! だぞ!」

 昨夜朗読してもらったワンダラスト・テイルの伝説と、そっくり同じ状況だ。

 今ならわかる。

 未来のナナイロさんは、この事実を知っていた。

 これから起こる出来事を、覚えていたのだ。

 マナナが尋ねる。

「ナナイロ。記憶喪失ってのは、どういうことだい?」

「あーね。おれ、もともとこの島の人間じゃねーんだよ。半年くらい前、森で倒れてたんだと。昔のこと、なーんも思い出せない!」

 ニカッと笑うナナイロに、ヤーエルヘルが尋ねる。

「……大丈夫、でしか? つらくはないのでしか?」

「ないぞ! だって、パタ姉も、島のひとたちも、ちょーやさしーもん。だから──」

 その瞳に決意が灯る。

 子供らしからぬ、意志の光だ。

「今度は、おれがみんなを助けるんだ」

 ふと、気付く。

「……まさか、お前。魔獣に追われてたのって」

「あいつらが町を襲いに来たから、石投げて引きつけてやったんだぞ!」

「いや、それは──」

 どう考えたって、危険だ。

 そう言い掛けたとき、

「──やめてくだし!」

 ヤーエルヘルが、ナナイロの肩を掴んだ。

「ナナさんを心配してるひとたちだって、たくさんいるはずでし。そのパタ姉ってひとだって、他の子供たちだって!」

 ナナイロの表情が、悔しげに歪む。

「だったら──だったら、どーすればいいんだよ! 一歳の子だっているんだぞ! 大人だって、てーはなせない! メシだって作んなきゃなんない! おれしか、いねーだろ!」

「──…………」

 俺は、ナナイロの帽子の上に、ぽんと手を乗せた。

「ヤーエルヘルの言葉は、間違っちゃいない。ナナイロの覚悟も間違ってない」

 ゆっくりと、ねぎらうように頭を撫でる。

「頑張ったな」

「うん」

「怖かったな」

「……うん」

「でも──」

 俺は、力強く微笑んでみせた。

「俺たちがいる。ここにいる。あっと言う間に全員助け出してやるから、安心してろ」

「──……う」

 ナナイロは、涙の出掛かった目元を手の甲でこすり、気丈に言い返した。

「……カッコつけやがって、このやろう」

 ヘレジナが薄い胸を張る。

「カッコつけているのではない。カッコいいのだ。その証明として、この島を救ってくれよう」

「う、うん。だから、む、無理しなくていいんだ、よ。……ナナイロ」

「お前らあ……」

「……もう、無茶しないでくだし。お願いでしから……」

 ヤーエルヘルが、ナナイロを抱き締める。

「──…………」

 ナナイロが、照れたように視線を地面に向けながら、答えた。

「……わかったよ。もう、しない」

「よろしい!」

 ヤーエルヘルが、ナナイロから離れる。

「えへへ、なんだかへんな気分でし。ナナさんをいさめるなんて」

「ヤー姉は、よーわからんことを言う……」

「ごめんなし」

 くすりと笑って、ヤーエルヘルが俺を見上げる。

 その様子に微笑みを返すと、話の区切りを待っていたのか、マナナが口を開いた。

「──ナナイロ。パタ姉って、もしかして、パタネアって名前だったりする?」

「そーだぞ! よく知ってんな!」

「やっぱかー……」

 なんとなく想像はついていた。

「パタネアさんって、その。マナナの?」

 ナナイロが察することがないよう、言葉を濁す。

「ああ、そうみたい」

 ナナイロが大叔母であるからには、パタネアはマナナの祖母なのだろう。

 血の繋がりこそなさそうだが、大きな問題ではあるまい。

「……複雑な気分だな。まだ若い──パタネアに会うのって」

「おいおい。パタ姉に年齢のこと言ったら、どつかれるぞ! ちょっと気にしてんだから!」

 マナナがからからと笑う。

「ははッ、了解了解! 第一印象は大切だもんな」

「おう!」

 町へと辿り着く頃には、太陽はすっかりその姿を隠していた。

 島の北西にある小高い山の稜線に沿って、光の線が薄く引かれているのみだ。

 俺たちは、この町を、深くは知らない。

 だが、それでも拭えない違和感のようなものが、僅かに感じ取れる。

「……やっぱ、違うわ。うちの知る町とは違う」

「?」

 マナナの言葉に、ナナイロが首をかしげる。

「勘違いとか、イタズラとか、万が一の可能性は消えた。ここは確かに──」

 そこまで言って、マナナが言葉を止める。

 六十年前。

 その言葉をナナイロに聞かせることを躊躇したのだろう。

「……しかし、暗いな。どの家にも明かりがついてない」

「連れて行かれちまったかんな。いまは、みんな、おれんちの近所に固まってる。おれんちは診療所だぞ」

「ああ、わかった。さっさと帰って、パタネアさんを安心させてやろうぜ」

「おう!」

 六十年の時を跨ぎ、俺たちは、ゼンネンブルク診療所への帰途についた。

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