1/ワンテール島 -13 黒鯨

「──……から、……、──ろ!」


「です……、──……でき、……ん!」


 眠気を誘う波音の合間に、誰かの怒鳴り声が聞こえた気がした。

「……ん?」

 目蓋を開き、机に突っ伏していた上体を起こす。

「なんかあったのか……?」

 ヘレジナのベッドに腰掛けていたプルが答える。

「す、すこし前から、表が騒がしく、……て」

「……様子を見に行ったほうが、よいかもしれんな」

 仰向けに寝たまま自分の腕で目元を隠したヘレジナが、呟くようにそう言った。

「様子を見に行くとして、ヘレジナ。船酔いは大丈夫か?」

「ああ、平気だ。予防の大切さが身に沁みる」

「よかった」

 隣で寝息を立てているヤーエルヘルを起こさないように、そっと伸びをする。

「プル、見てこようぜ」

「う、うん……」

 プルと共に船室を出ると、遮るもののない夏の陽射しが網膜を灼いた。

 手のひらで陽光を遮りながら、甲板を見渡す。

「ボスコさん、なんか──」

 あったのか。

 そう尋ねようとした瞬間、


 ──眼前の海が、盛り上がった。


「……は?」

 あまりの事態に、脳の処理が追いつかない。

 操舵輪を握ったボスコが、こちらを振り返り、叫んだ。

「──黒鯨だッ!」

「な……!」

「黒、鯨……!」


 次の瞬間、

 海が割れ、

 漆黒の巨体が姿を現す。


 こと海において、大きいということは、それだけで暴力だ。

 全優科のグラウンドほどもある黒鯨の一部が姿を現したことで、押し退けられた海水が高波となり、船体を木の葉のように翻弄する。

「──プルッ!」

「か、かたな……!」

 慌ててプルを抱き締めた瞬間、床が壁のように眼前に迫った。

「ぐ……ッ!」

 そのまま左舷に叩き付けられ、揺り返しで、今度は右舷へと滑り落ちていく。

「もう、一刻の猶予もねえ! いいから海流に乗るぞ!」

「は、はい……!」

 ボスコの言葉に、乗組員が頷く。

 操舵輪が回されるたび船体が徐々に旋回し、黒鯨と距離が開いていく。

「……よし。やっこさん、こちらに興味がねえようだ。このまま離れるぞ」

 プルが、ほっと胸を撫で下ろす。

「よ、よかった……」

「よかねえよ。最悪だ」

「最悪?」

「言ったろ。このまま安全な距離まで遠ざかれば、確実に魔獣の海流に呑まれっちまう。おまけに東風。こりゃ、抜け出すまでに相当かかるぜ」

「ど、どうすればいい? 俺たちにできることは!」

「祈れ。海に対して、人間はあまりに無力だ」

「そ、そそ、そんな……」

 大きな音がして、船室の扉が荒々しく開かれる。

「──な、な、な、何があった! 壁に頭をぶつけたぞ!」

「どうしましたか!」

 ヘレジナとヤーエルヘルが、泡を食って飛び出してきた。

「黒鯨が出た。よりにもよって、海流の外の外を泳いでやがったんだよ。最近、海流以外の目撃例も増えてやがったが、まさか出くわすとはな……」

 ボスコが、顎で船尾を示す。

「──…………」

「──……」

 黒鯨の巨体を目にした二人が、ぽかんと口を開け、放心した。

「おっきい、でし……」

「クラニュトどころの騒ぎではないぞ……」

「栄えあるユアン号は、これより、死の海域へと吶喊する。せいぜいエル=タナエルに祈るんだな」

 思案する。

 ただ祈るだけと言うのは、性に合わない。

「……海の魔獣って、どんなやつがいる?」

「ここらの魔獣なんて知らねえよ。出会えば船は必ず沈み、生還した者はいない。それで、どうやって生態を知る? わかるのは、やつらが海流に乗って群れで泳いでいることだけよ」

「──…………」

「ワンテール島北の海流に呑まれて無事に帰った船はいる。だが、そいつらは、運良く魔獣の群れに遭わなかっただけに過ぎねえんだ」

「……そもそも、海流に乗った時点で運否天賦ってことか」

「最初からそう言ってんだよ、坊主」

 奇跡級の剣術士であろうと、海中の相手には無力だ。

 ヤーエルヘルの開孔術であれば問答無用なのだろうが、そもそも視認できない相手に当てるのは難しく、また、群れと言うからには到底一撃では済まない。

 いくらヤーエルヘルの魔力マナが膨大と言っても、決して無尽蔵ではないのだ。

 ルインラインの遠当てのような攻撃手段があれば対処も可能だったのかもしれないが、ないものねだりをしても意味がない。

「……どうする」

 できることは必ずあるはずだ。

 呟いた瞬間、眼前に選択肢が現れた。



【海流に乗り、ワンテール島を目指す】


【海流には乗らず、ワンテール島を目指す】



[星見台]だ。

 これまでは、〈する〉か〈しない〉の二択であることが多く、俺の背中を押すような印象が強かった。

 だが、今回はすこし違う。

[星見台]は、明確に、俺の選択を求めている。

「──…………」

 ヤーエルヘルへと視線を向ける。

 だが、彼女は、黒鯨の巨体に狼狽しているだけだ。

[星見台]とヤーエルヘルは無関係なのか?

 わからない。

 だが、すべきことは一つだった。

 選ぶのだ。


「──海流には、乗らない」


「は?」

 ボスコが眉をひそめる。

「坊主、何言ってやがる。ここから海流を避けるのは無理だ。こいつは絶対だ。四つん這いの頃から船に乗ってる儂にゃ、手に取るよりも確実にわかっちまうんだよ」

「条件が変わればどうだ?」

「諦めて祈れ。人がぶっ飛ぶような暴風がベストな方角から吹きゃ話は別だが、そんな──」


 その瞬間、脳裏で鳳仙花が弾けた。


 人がぶっ飛ぶような強風。

 俺には覚えがあった。

「──ヤーエルヘル、行くぞ!」

「ふわ!」

 ヤーエルヘルを小脇に抱え、船尾へと向かう。

「え! え! なんでし? なんでしか?」

「ボスコさん、今から風を〈作る〉! 操舵だのなんだの難しいことは全部任せた!」

「風を作るったって、坊主──」

「一刻を争うんだろ! ただ祈るより足掻いたほうがマシだって、今から見せてやるよ!」

 俺の言葉に、ボスコが腹をくくったように頷いた。

「……ああ、わかった!」

 ボスコが操舵輪を全身で回す。

「──いいぜ、坊主!」

「ああ!」

 俺は、ヤーエルヘルの後ろから、彼女の肩に手を置いた。

「ヤーエルヘル、あのクソみたいに蒸し暑い日のことを思い出せ。騎竜車で汗だくになった日だ。操風術。風を、帆にぶつけるんだ」

「!」

 こちらを振り返ったヤーエルヘルの双眸に、理解の光が灯る。

「わかりました!」

 ヤーエルヘルが、天高く指を持ち上げ──そして、振り下ろした。


 ──轟ッ!


 暴風が吹き荒れる。

 帆が張り詰め、マストがぎりぎりとしなる。

 船が、一瞬で加速した。

「な──」

 栄えあるユアン号が、海の上を、滑るように走っていく。

 あの黒鯨が、見る間に小さくなっていった。

「……なんだ、こりゃあ」

 ボスコも、乗組員も、目をまるくしたまま固まっていた。

「ボスコさん、安全圏まで出たら言ってくれ! さすがにヤーエルヘルの魔力マナが持たねえ!」

「あ、ああ! わかった!」

 それから、五分も風を起こし続けただろうか。

「……は、……はあ、……はァ……」

 ヤーエルヘルが、目に見えて衰弱し始めた。

「ボスコさん、まだか……!」

 ボスコが、望遠鏡と羅針盤を用い、船の位置を確認する。

「──ああ、もう大丈夫だ! 問題ねえ!」

 その言葉を聞いたヤーエルヘルが、操術を止め、ふらりと倒れる。

 俺は、彼女の小さな体を受け止めると、その場に腰を下ろした。

「ふゥー……」

 緊張で吐き出し損ねていたぶんの二酸化炭素を排出し、ヤーエルヘルの頭を撫でる。

「ありがとう、ヤーエルヘル。よくやった!」

「……え、へへ……。頑張り、ました……」

「──ヤーエルヘル!」

「や、ヤーエルヘル、だい、じょうぶ……?」

 ヘレジナとプルが駆け寄ってくる。

「はい、なんとか……」

 ヤーエルヘルが、力なく微笑んだ。

「……でも、すこし、休ませてくだし」

「ああ、そのほうがいい」

「──んじゃ、頑張ったで賞ってことで」

 俺は、ヤーエルヘルの細い体を両腕で抱え上げた。

 お姫さま抱っこ、というやつだ。

「わ」

 一瞬だけ目をまるくしたヤーエルヘルだったが、すぐに破顔し、俺に体重を預けてくれる。

「えへへ、お姫さまでしー……」

「船室のベッドまで、お姫さま気分に浸ってな」

 船室に戻ろうと階段を下りたとき、渋い表情を浮かべたボスコが道を塞ぐように立っていることに気が付いた。

「今ので航路をショートカットした。あと一時間もしねえで着きそうだ」

「おお、それは素晴らしいな! まだ酔っていないとは言え、揺れから解放されるのは早いほうがいい」

「よ、よかったー……」

「ま、客の事情はあれこれ聞かねえとして──ヤーエルヘルつったか、嬢ちゃん」

「は、はい。そうでし……」

 ボスコが、サングラスを外す。

 そして、満面の笑みを浮かべて言った。

「ありがとうな。助かったぜ」

「い、いえ! 自分たちのためでもありましから……」

「自分のためだろうがなんだろうが、助けられたからには礼を言う。そいつが儂のスタイルよ」

 ヤーエルヘルが、微笑んだ。

「……では、どういたしまして、でし!」

「おう!」

 それだけ言うと、ボスコは再び操舵輪へと向かった。

「えへへ……」

 ヤーエルヘルが、甘えるように、俺の胸元にほおずりをする。

「あちし、お役に立てました」

「ああ、すごかったぞ」

「う、うん。すごかっ、……た!」

「あのような操風術の使い方があるのだな。ヤーエルヘルの潜在魔力マナ量あっての神業だが」

 ヤーエルヘルをねぎらいながら、船室へ戻る。

 ベッドに下ろしてシーツをかけてやると、本当に疲れていたのか、あっと言う間に眠りに落ちたようだった。

 ワンテール島まで、あと一時間。

 お疲れさま、ヤーエルヘル。

 すこしのあいだ、おやすみ。

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