1/ワンテール島 -12 栄えあるユアン号
翌朝、まだ夜の明けきらぬうちに、俺たちはウォーラートの港を訪れた。
漁港ではないためか、港湾はまだ静かで、寄せては返す波の音ばかりが心地良く耳朶を打つ。
石造りの地面に描かれた番号を頼りに十一番港へと辿り着くと、ボスコと、乗組員と思われる男性三名が、既に俺たちを待っていた。
「おう、来たな。坊主たち」
「おはようございます」
「おはようございまし!」
ボスコのものと思しき帆船は、ウォーラートを訪れた際の定期船と比べ、遥かに小型で、また年季が入っている。
「なんだ、随分小さいではないか」
「へ、ヘレジナ、失礼……!」
「す、すみません。つい……」
ボスコが、呵々と笑う。
「なに、構わねえよ。小さい船には小さい船の良さがある。儂に言わせりゃ、大型船にゃ風情がない」
「風情、でしか?」
「大型船の操舵手も、何度も務めたがな。あれは大きすぎて、何をするにもすっとろい。手足のように扱えるのは、コイツくらいの大きさまでだ。でかけりゃいいってもんじゃねえ。女の乳だってそうだろ?」
「は、はい!」
「その通りだと思いまし!」
「なかなか良いことを言うではないか」
平均未満の三人娘が、揃って深く頷いた。
「いや、坊主に言ったんだが……」
ボスコが、サングラスを掛け直す。
「快晴、快風、風向き良し。問題なく出航できるぜ」
「ルートはどうするんですか?」
「魔獣の海域を大回りして、ワンテール島の南へ回り込む。時間はかかるが比較的安全なルートだぜ。黒鯨の目撃情報も少ないしな。よっぽど運が悪くなけりゃ、夕方までには着くはずだ」
「わかりました。それでは、予定通りよろしくお願いします」
「おう、さっさと乗り込みな。船室も自由に使っていい」
「はい」
帆船に乗り込む。
タラップから甲板に下りた瞬間、船がかすかにぐらついた。
「けっこう揺れるな……」
ヘレジナの顔が青ざめる。
「ゆ、揺れるのか」
「そら、大型船なんざより揺れるに決まってんだろ。嬢ちゃん、船酔いひでえのか」
プルが頷く。
「て、定期船でも、た、たいへんなことに……」
「だったら、船室で横になっとけ。目さえ閉じときゃ揺れても酔わねえ」
「……すまん、そうさせてもらおう」
「坊主たちも、気分が悪くなりそうな予感がしたら、目を閉じるか水平線を見ろ。いったん酔っちまったらそうそう治せねえが、ひどくなる前に手を打つことはできるからな」
「ほう、随分と親切ではないか」
「おいおい、お前らは客だぞ。丁重に扱わねえと、金の払いが悪くなるかもしれねえだろ」
ヤーエルヘルが苦笑する。
「ちゃんと払いましよー……」
「いいから、客は客らしく、でーんと構えてろ。儂らもそのほうがやりやすい。下手な敬語もいらねえよ」
「ああ、わかり──わかった。ワンテール島まで頼むわ、ボスコさん」
「おうよ!」
乗組員がタラップを回収し、持ち場につく。
ボスコが操舵輪に手を掛け、大声を張り上げた。
「──栄えあるユアン号、出航だ!」
二本のマストが帆を広げ、船が港から離れていく。
「に、二回目だけど、どきどきする、……ね!」
プルが声を弾ませる。
「出港するだけなのに、何か新しいことが始まる予感がするんだよな」
「わ、わかるー……」
「わかりまし!」
「私は、別の意味でどきどきしておるのだが……」
「へ、……ヘレジナは、船室いこ。わたし、つ、付き添うね」
「すみません、プルさま……」
「俺も、しばらく海を眺めたらそっち行くわ。まだ眠いしな」
「朝の五時過ぎでしもんね」
「宿の店主叩き起こして朝食作ってもらうのもな……」
操舵輪を握るボスコが、振り返らずに言う。
「船室に、水と干し肉、適当な果物を用意してある。船酔いの嬢ちゃん、横になる前に食っとけ。空きっ腹だとズガンと来るぞ」
「ありがたい。用意がいいのだな」
「船をゲロまみれにされるよりゃ、気ィ遣ったほうがましだ」
「うぐ」
「あ、ありがとう、ございます……! ほ、ほら、いこ」
プルとヘレジナが船室へ入るのを確認し、俺とヤーエルヘルは左舷へと向かった。
船縁に肘をつき、朝焼けに滲む丸みを帯びた水平線を眺める。
「きれいでしねー……」
「だな。潮風も心地いいし、船出日和って感じだ」
「……ヘレジナさん、かわいそうでしね。あんなに酔うなんて」
「俺たちも他人事じゃないぞ。ボスコさんも言ってたが、小さい船ほど揺れるんだ。定期船では平気だった俺たちも、こっちではどうなるか……」
「ど、どうしましょう……!」
「そうだな」
船酔いは、心理的な要因も大きいと聞く。
つまり、緊張を解きほぐすことができればいいわけだ。
「んじゃ、船酔いを防ぐおまじないでも」
「おまじない、でしか」
「ああ。手のひらに人って字を三回書いて、それを飲むんだ」
「ひと……」
本来は緊張をほぐすおまじないだが、この際なんだっていい。
〈おまじないをしたから大丈夫〉と信じることができれば、それだけで効果は見込めるはずだ。
「共用語でいいのでしか?」
「いや、日本語だな」
俺は、自分の左手をヤーエルヘルの前に差し出して、〈人〉という字を書いてみせた。
「これで、ひとって読むんでしか。すごくシンプルでしね……」
「日本語って、シンプルな文字と複雑な文字の落差がすごいんだよな。たとえば──」
自分の手のひらに、俺の知る限り最も画数の多い漢字を書き記していく。
「これで、〈鬱〉って読む」
「そ、それ、ふつうに使われてるのでしか……?」
「使われてはいるな。手で書く機会は少ないけど」
「ほわー……」
感心しているのか、呆れているのか、ヤーエルヘルがどんぐりのような目をさらに見開いた。
「さ、おまじないの続きだ。〈人〉って三回書いてくれ」
「はあい」
人、人、人。
指を六回滑らせたのち、俺は、手のひらに書いた文字をぱくりと食べるふりをした。
「こうして、飲む」
「飲む!」
ヤーエルヘルも、俺の真似をする。
「これで、もう、酔わないのでしか?」
「そのはずだ。あとでヘレジナとプルにも教えてやろうな」
「はい!」
朝日が半分ほど姿を現した頃、俺は、日光から逃げるように頭上を仰いだ。
満月に向けて満ちつつある月は、あの太陽よりも遥かに印象深い。
「──気のせいかもしれないんだけどさ」
「?」
「西へ西へと進むうちに、月の位置が東に動いてないか? 前はこんなに低い位置になかった気がするんだけど」
「あ、動いてましよ」
「よかった、錯覚じゃなかったか」
「月は、巨大な球体でし。天空でほぼ静止しているので、あちしたちが動くと、月が動いて見えるのでし」
「なるほどな……」
「ちなみに、月が真南に見える国の中で、一年間における日食の回数が最も多い国は、パレ・ハラドナだと言われてるんでしよ」
「あ、そうか。月が動かないから、場所によっては毎日のように日食が起こるのか」
「でしでし」
「パレ・ハラドナが銀輪教の総本山だって言うのも、日食と無関係じゃないのかもな」
「歴史的にはいろいろあったんでしけど、たしかに関わりはありましね」
「ヤーエルヘル先生の歴史の授業、面白いな。でも、朝日が昇るところも見られたし、いった船室で横になろうか。おまじないはしたけど、強い船酔いには負けちまうかもしれないからな」
「強い船酔い、こわいでしね……」
太陽が恭しく昇り、空が青く染まり始める頃、俺とヤーエルヘルは船室へと向かい朝食を取った。
それは、美味とは言いがたいものだったが、決して悪くはなかった。
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