1/ワンテール島 -7 アーウェンへの道行き(5/5) ささやかな秘密

「──……死にたい」

 船酔いから半ばほど回復したヘレジナが、船室のベッドの上で、枕に顔を突っ込みながら悶えている。

「ううううう……」

「俺は気にしてないって」

「カタナの手に吐くなどとぉ……!」

 ヘレジナが、足をばたばたさせる。

 古いベッドから、かすかにホコリが舞った。

「はァ……」

 思わず溜め息がこぼれる。

 どうすりゃいいんだか。

 プルとヤーエルヘルは、一時的に別室にいる。

 本来、俺はヤーエルヘルと同室なのだが、ヘレジナを慰めてほしいと二人に頼まれてしまったのだ。

 これは、いっそ、茶化す方向で行ったほうがいいかもしれないな。

「──でも、悪いことばかりでもなかったぜ」

 ぴた。

 ホコリを舞わせていた両足が、止まる。

「……どういうこと、だ?」

「あのヘレジナから、〈頭を撫でてほしい〉なんて可愛らしいお願いが出てくるとはな。いやあ、愉快愉快」

「ふぐ」

「人間、弱ると本性が出るもんな。今後は形無お兄さんにいつでも言いたまえ。手が空いてる限り、ハゲるまで撫でてやろう」

「──…………」

 ヘレジナが、クッションを抱き締めながら、上目遣いで俺を見上げた。

「……本当、か?」

「えっ」

 言い返してこない、だと。

 ヘレジナが、長い睫毛を伏せる。

「なんだ。冗談、か……」

 その口ぶりが、まるで裏切られたかのようで。

 俺は思わず、ヘレジナの頭に手を伸ばしていた。

「……まあ、冗談のつもりではあったんだけどな。ヘレジナが望むなら、本当にしてもいい」

 ヘレジナの艶やかな細い金髪を、手櫛で優しく整えていく。

「ん……」

 ヘレジナが、まるで猫のように、満足げに目を閉じる。

 隣に腰を下ろし、しばらく撫でたままでいると、ヘレジナがぼそりと口を開いた。

「……その。本当は、真っ先に礼を言わねばならなかったな」

「礼?」

 何かしたっけな。

「私の服が汚れなかったのは、カタナのおかげであろうに」

 ああ、なるほど。

「汚れたら洗濯大変だからな。手ならすぐに洗えばいい」

「それは、そうなのだが……」

 ヘレジナが、ちらりとこちらを見る。

「咄嗟にそれができるのは、本当に、すごいことだと思うのだ」

「咄嗟っつーか、反射っつーか。神眼も発動せずに、よくやったと思うわ」

「……カタナは、すごい」

「すごかないって。ヘレジナのだからできただけだし」

「……?」

「知らん他人の吐瀉物は、さすがに受け止められないってことだよ。ヘレジナのならまあいいけど、他人のは汚い気がする」

「──…………」

 ぎゅう。

 クッションを抱き締める腕に、さらに力が込められる。

「……カタナ、ずるいよ。どうしてそんなこと言うの」

 ヘレジナの口調が、変わる。

 どきりとした。

 ヘレジナの頭から思わず手を離しかけるが、逃がさんとばかりに掴まれ、引き戻される。

「えっ。な、なんか変なこと、言ったか……?」

「シオニアのときも、ずるかった。お願い権を使わなくても、そのドレス似合ってる──なんて。ほんと、女たらし……」

「た、たらしてますかね……」

「たらしてるよ」

「そうですか……」

「ネルのときは、うん。……仕方なかったけど」

「あれは仕方ないんだ」

「だって、ネルの立場にいたら、どんな女の子でもカタナのこと好きになってたと思うし」

「……木剣振ってた記憶しかないんですが」

「そういうとこだぞ」

「あ、はい。すみません」

「……カタナは、いつもそう。気付いたら私たち以外の女の子が傍にいて、いつの間にか恋心を抱かれてる。私たちがどんなにハラハラしてるか、わかる?」

 メルダヌア。

 ネル。

 シオニア。

 考えてみれば、ヘレジナの言う通りだ。

「……いやマジ、なんでモテてんだろ。元の世界では箸にも棒にも引っ掛からなかったのに」

「簡単だよ。カタナの世界の女どもが、全員見る目がなかっただけ」

「そうかなあ……」

「そうだよ」

 髪を梳かす手を止めぬまま、尋ねる。

「すこしは落ち着いたか?」

「ん……」

 ヘレジナが、小さく頷く。

「……私が、こんな話し方してたの、誰にも言わないでくれる?」

「言うなって言うなら、言わないよ。素を見せてくれたみたいで、なんとなく嬉しいしな」

「へへ……」

 ヘレジナが、てれりと笑う。

「──ん。もう大丈夫」

「そっか」

 ヘレジナの頭から手を離す。

「うむ。まだ船酔いが残っているゆえ快調ではないが、普段通りの動きはできるであろう」

「あ、戻った」

「この口調は、〈強い私〉になるために、意図的に始めたものだ。もっとも、プルさまが産まれる以前より続けていることだから、もはやどちらが素とも言いがたいがな」

「さっきみたいに話してみてくれよ」

「……やだ」

「何故」

「だって、恥ずかしい……」

 可愛いな、おい。

「ま、恥ずかしいなら仕方ない」

 ベッドから立ち上がり、きびすを返す。

「んじゃ、プルに声掛けてくる。船酔いの波が来る前に、さっさと寝るんだぞ。寝てスキップしちまえば、あっと言う間にアーウェンだ」

「ああ、わかった。次に吐くとき、近くにカタナがいるとは限らんからな」

「俺の手を当てにするんじゃない」

「あははっ!」

 ヘレジナが、愉快そうに笑う。

 よかった。

 機嫌を戻してくれたようだ。

「おやすみ、ヘレジナ」

「ああ。おやすみ、カタナ」

 挨拶を交わし、船室を後にする。

 もう夜だ。

 俺は、廊下の丸窓に近付き、外の様子を見た。

 沈まぬ月の光が波に乱反射し、きらめいていた。

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