1/ワンテール島 -6 アーウェンへの道行き(4/5)あるいは夏でいっぱいの海
ウージスパインは平地の多い国だ。
目の前に広がるような、高低差のある道は珍しい。
御者台に座り、騎竜を気遣いながら丘を上がっていくと、ふと風が湿っていることに気が付いた。
騎竜車内を振り返る。
「おーい! そろそろ海が近いかもしれないぞ!」
「ほう」
雑談を交わしていた三人が、前部扉から顔を出した。
「──あ、なんだか、へ、へんな匂い、する、……かも」
「潮の匂いでしよ」
プルが深呼吸をする。
「こ、これが、潮の匂い……」
「カラッと晴れているせいか、湿度はさして気にならんな。このあいだの雨の時はひどかった」
「湿度の暴力って感じだったよな」
騎竜が、ゆっくりと丘を登っていく。
頂上へ辿り着いた瞬間──
「おお……」
青と緑の入り混じる淡い海が、視界いっぱいに広がった。
水平線の向こうに入道雲が立ちのぼり、これでもかと夏を主張している。
「わ、わあー……!」
「これは──予想していたより、遥かに美しいな」
「東部の海より、色が薄いでし。きれい!」
「俺も、こんな綺麗な海は初めてだわ。海と言えば、もっと青黒いイメージだったから」
エメラルドグリーンと言うのだろうか。
海水はひどく澄んでおり、沖縄の海を彷彿とさせる。
「──あ、向こうに島が見えまし! アーウェンでしょうか」
「本当だ」
水平線のギリギリに、島らしき影が見える。
「いや、少々小さくはないか。地図で言えば、ラーイウラの三分の一はあるはずだぞ」
「たぶん、ウージスパイン領の島だろうな。水平線って、案外遠くないらしい」
確か、四キロほど先までしか見えないと聞いたことがある
丘の上だからもうすこし遠くまで見えると思うが、それでもいささか近すぎるだろう。
「海は、ひろーいでしねー……!」
「ほ、ほんと、だねー……。すごい迫力。こ、これ、ぜーんぶ海水、なんだ……」
「不思議なものだな……」
「俺の世界と同じなら、世界全体から見れば淡水のほうが珍しいんだよ。世にある水のほとんどが海水」
「それだけ海が広大ということか」
ヘレジナが、深々と頷いた。
「──ああ、そうだ。前から聞こうと思ってたんだけどな」
「な、……なにー?」
「この世界ってさ。北方大陸以外に──たとえば南方にも大陸があったりするのか?」
「幾度も地図を見ているからわかると思うが、北方大陸の南にも島国は点在している。ペレポトラ、アイニース、ナーバイなどがそうだな。これらの小国は、北方十三国に加盟していない」
ヤーエルヘルが、ヘレジナの言葉を引き継ぐ。
「さらに南方には、未踏大陸と呼ばれる大きな島があるらしいでし。未踏大陸が存在していることは確かだけど、上陸して戻ってきた者はない。だから、大きさも、地形も、人が住んでいるかすら不明なんでし……」
「おお、なんかロマンを感じる」
人跡未踏の地。
その言葉に、俺の心の男の子がくすぐられる。
「巨大な怪物の跋扈する地であるとか、逆に帰る気がなくなるほどの楽園であるとか、解釈はさまざまでし。未踏大陸をモチーフにした小説もたくさん出版されていて、どれも面白いでしよ」
「へえー、読んでみたいな。そのためには勉強頑張らなだけど」
「よかったら、あちしたちが読み聞かせましょうか?」
プルが頷く。
「ろ、朗読会、……いいかも。寝物語とかに」
「カタナは、この世界の物語に触れたことすらほとんどないものな。私たち三人が、順繰りに読んでやろうではないか」
「子供に戻った気分だ……」
「甘えていいでしよ!」
「お言葉にではあるけど、甘えよう。本屋で見掛けたら一冊買おうぜ」
「お、……面白いの、あれば、いいね」
「我々の知る物語であれば、そう外れもないでしょう。あるいは、当地の言い伝えであるとか」
「海にまつわるお話とか、読んでみたいでしね!」
騎竜車が丘を下り、海岸線を進む。
しばらくすると、遠くに街が見えてきた。
「あれがリンシャか?」
「地図を見誤っていなければ、そのはずだ」
「──あ! む、向こう! 船が見える!」
プルが指差した先に、砂粒のような船が海に浮かんでいた。
距離があるため、大きさはよくわからない。
「船に乗れるの、楽しみでし!」
「……先に言っとくけど、揺れ方が騎竜車の比じゃない。酔いやすい人は覚悟しておいたほうがいいぞ」
「だ、だだ、大丈夫かな……」
乗り物酔いは、怪我ではない。
故に治癒術も通じない。
苦しむ時は、本当に苦しむのだ。
「なに、揺れると言っても限度があるだろう。何も問題はあるまい」
ヘレジナが綺麗にフラグを立てた。
本当に、酔わなければいいのだけど。
「──……うッぷ」
ヘレジナが、船縁に背を預けたまま、ずるずると座り込んでいく。
「揺れ、揺れる……、世界が回るう……」
「へ、ヘレジナ! だいじょうぶ……?」
「気をたしかに、でし!」
港町リンシャへと辿り着いた俺たちは、預かり所経由で騎竜車の改造を依頼し、そのまま宿を取るつもりだった。
だが、アーウェン行きの定期船が一時間後に出航することを知り、すぐさま予定を変更。
慌てて飛び乗ったところ、潮の関係で船が揺れ、今に至るというわけだ。
「吐けるなら吐いたほうが楽になるぞ。経験上」
「……は、吐けるわけ、なかろう。うぷ。お前の前で……」
近しい異性にリアル吐瀉シーンを見られたくない、という気持ちはよくわかる。
「俺、どっか行ってるわ。三十分くらいで──」
「い、……行くな!」
「いや、吐いてるあいだ一時的に離れるだけで……」
「行くなあ……!」
ヘレジナが、泣きそうな顔で、俺のシャツを握り締める。
奇跡級上位の剣術士の姿か、これが。
「へ、ヘレジナ、風邪一つ引いたこと、な、なくて。初めての体調不良、で、だいぶ、よ、弱ってる、……みたい」
「行かないであげてくだし。きっと寂しいんでしよ」
「わかったわかった。ほら、どこにも行かんて」
ヘレジナの隣に腰を下ろす。
「船酔い予防には目を閉じたほうがいいらしい。予防法ではあるんだが、なったあとでもまったく効かないってこたないだろ。ほれ、つぶれつぶれ」
「目を閉じれば、いいのか……」
ヘレジナが、目蓋をぎゅっとつぶる。
「ああ、そんな力いっぱい閉じるな。リラックス、リラックス」
ヘレジナの背中を撫でてやる。
「はァ……、はあ……」
こちらへともたれ掛かってくるヘレジナを、受け止める。
苦しんでるところ申し訳ないが、ちょっとエロいな。
「この姿勢のが楽か?」
「──…………」
こくり、と頷く。
あとは──
「ああ、そうだ。ヘレジナ、手を出してくれ」
「……?」
「乗り物酔いに効くツボってのがある。たしか、手のひらの中心だったか」
差し出された手を、うろ覚えで指圧していく。
小さく、しかし固い手のひらだ。
ヘレジナが重ねてきた努力の証だ。
俺は、そんな力強いヘレジナの手が好きだった。
数分ほど、無言でツボを押し続ける。
「ど、どどど、……どう? 楽になった……?」
プルの言葉に、ヘレジナがなんとか頷く。
「はい、すこしは……」
「お水、飲みましか?」
ヤーエルヘルが、水筒を差し出した。
「ありがとう……」
目を閉じたまま、こくこくと水を嚥下する。
口の端から雫が垂れ落ち、ヘレジナの顎を濡らした。
「ほら」
手の甲で、それを拭う。
「すまん……」
「俺も、ガキの頃はよく車酔いしてたからわかるわ。逃げ場のない気持ち悪さっつーかさ。でも、しばらくの辛抱だ。なんとかやり過ごすことだけ考えよう」
「しばらく……」
「ああ」
船の後部に視線を向ける。
リンシャは、まだ、目と鼻の先だった。
「明日の朝まで、だな……」
「──うぷ!」
「だ、大丈夫だ! 寝てればすぐだ!」
ヘレジナが、遠い目で青空を見上げる。
「私は、ここで死ぬのだ……。ヘレジナ=エーデルマンの旅路は──うッ。ここで、終わるのだ……」
「終わらんて!」
ただの船酔いで死なれてたまるものか。
「プルさま、ヤーエルヘルも、先立つ不幸をお許しください……」
「し、死なない、死なない」
「死にません、死にません」
二人が慌てて首を横に振る。
「ほれ、ヘレジナ。何かしてほしいことあるか?」
「して、ほしいこと……」
「とにかく気を紛らわそうぜ。早く時間が経てばいいわけだから」
「──…………」
しばし考え込んでいたヘレジナが、ぼそりと答えた。
「……頭、を」
「うん」
「頭を、撫でてほしい……」
「よし来た」
かつて、ティビコン川の源流でそうしたように、ヘレジナの頭をそっと撫でる。
「どうだ? すこしはマシになるか?」
「──…………」
ヘレジナは、目を閉じたまま、ただただ俺の手を受け入れている。
大きなものに寄り添って、褒めてほしい、認めてほしい──か。
いつかプルがヘレジナを評して言った言葉だが、やはり間違いではないのだろう。
普段は自制しているが、こうして余裕がなくなると、甘えん坊のヘレジナが顔を出す。
プルとヤーエルヘルの見守る中、ヘレジナの船酔いは徐々に落ち着いてきているように見えた。
だが、それは、あくまで見えただけに過ぎなかった。
あまりにも唐突に、
「えれ」
水音が、聞こえた。
「へ、ヘレジナさん!」
ヘレジナの口から吐瀉物が溢れ始めていた。
「やべえ!」
このままでは、ヘレジナの服が汚れてしまう。
俺は、慌てて、吐瀉物を両手で受け止めた。
「プル! ヤーエルヘル! 海に吐かせてやってくれ!」
「はい!」
「わ、わわ、わかった!」
それから先は、てんやわんやだ。
もっとも、船酔いで吐く客は一定数いるらしく、船員たちはさして慌てもせずに、こぼれた吐瀉物をおがくずで掃除していたけれど。
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