第五章 海洋国アーウェン

1/ワンテール島 -1 トレロ・マ・レボロへ行く前に

「──よし、できた」

 鉛筆を置き、ノートを見直す。

 間違いはない──はずだ。

 俺は、ノートを開いたまま対面へと滑らせた。

「シオニア先生、採点よろしくお願いします」

「はいはーい、どれどれ?」

 赤鉛筆をくるりと回し、シオニアがノートに視線を落とす。

「ふんふん、ふん。……ふん?」

 一ヶ所、添削が入る。

 どこか間違っていたらしい。

 だが、他の部分はすべて合っていたようだ。

「はい、九十八点! 惜しかった!」

「どこ違った?」

 シオニアが、赤鉛筆の先で指し示す。

「ここ。〈ウージスパインは北方大陸最西端の国である〉の、最西端のスペルが間違ってるの」

「あー……」

 言われてみれば、〈西〉のスペルが曖昧だったかもしれない。

「でも、他はみんな合ってるよ! カタナさん、できる子!」

 シオニアが腰を上げ、机越しに俺の頭を撫でる。

「はっはっは、よせやい」

 拒絶するのも角が立ちそうなので素直に撫でられていると、数冊の書物を抱えたプルが通り掛かった。

「あ、い、いちゃいちゃ、してる……」

「してます」

「してない、してません。ほらシオニア、そろそろやめい」

「えー?」

 シオニアの手が止まらない。

 その様子を見て、プルがくすりと笑った。

「と、……図書館だから、ね? ほどほどに……」

 それだけ告げて、プルが自分の席に着く。

「──…………」

 シオニアが、俺の頭から手を離し、椅子に座り直した。

「最近のプルちゃん、スッゴイ余裕を感じる……」

 すこしわかる。

「おい、ヤーエルヘル。この単語の意味なんだけどよ」

「どこでしか?」

「すまん。ドズマのあとでいいから、私のほうも見てくれんか」

「はあい」

 夏の中節十三日。

 あの事件から、既に、十日余りが経過していた。

 シオニアたちの協力のもと、八面六臂の活躍を見せるヤーエルヘルを中心にして大図書館を調べ続けているのだが、一向に成果は上がっていなかった。

「図書館には、何もないのでしょうか……」

 ヤーエルヘルの呟きに、ドズマが答える。

「すべての本を調べたわけじゃねェけど、取っ掛かりすらないのが現状だ。望みは薄いだろうな」

 ヘレジナが、読んでいた書物を閉じ、言った。

「全部の本のすべての記述を調べるのは不可能だ。期限を切る。十五日までに何も見つからなければ、出立することとしよう」

「えー! 夏休みのあいだ、ずっといてよう!」

 シオニアの言葉に苦笑する。

「前にも言っただろ。最北の国であるトレロ・マ・レボロに行くんだ。雪が降ったらわりと死ねる。マジで」

「そうだけどー……」

 ドズマが、シオニアの背中をぽんと叩いた。

「あんま、カタナたちを困らせんな。むしろ長居してくれたほうだと思うぜ」

 事実、ドズマの言う通りだった。

 大図書館に目当ての情報──ヤーエルヘルの名前の由来や、元の世界へ帰るための方法が存在しないことは、とっくに見当がついていた。

 それでも調べ続けたのは、ネウロパニエから離れがたかったから。

 シオニアたちと過ごす時間が、本当に楽しかったからだ。

「大丈夫だ。また、絶対に会いに来る。いつかまでは約束できないけどな」

「……うん」

 目を伏せていたシオニアが、俺の目を見る。

「お願い権、使用期限とかないよね?」

「ないない」

「じゃあ、取っておくから。権利七つ分!」

「……え、そんなあったか?」

「お手伝いで、一日一個の約束だし」

 そりゃ貯まるわ。

 次にネウロパニエを訪れたとき、何をお願いされるのやら。

 無理を言われて困るのも、また楽しみの一つだ。

「──さて」

 ヘレジナが立ち上がり、うずたかく積まれた書物の上に手を置く。

 そして、図書館の中央に据えられた大時計を仰ぎ見た。

「もう、六時も過ぎる。寮の夕食も近かろう。本日は、これにて解散としようか」

「ああ、そうだな。イオタ、冬華寮って──」

 ドズマが周囲を見る。

「……そう言や、あいつ、さっきから見ねェな」

「そうでしね。奥のほうまで探しに行ってくれたのでしょうか」

「おいおい。まさか、また誘拐されかかったりしてないよな」

 冗談のつもりで口にして、

「……してないよな?」

 なんだか不安になってきた。

「だ、だいじょうぶ、だよ。かたな。イオタくん、つ、強くなったもん……」

「そうだぞ。デイコスも、たった一人を残して全滅したのだ。今やイオタを狙う者はおるまい」

「わかっちゃいるんだけどな……」

「まったく、相変わらず過保護な師匠であるな」

 否定できない。

「──まあ、過保護の件はさて置くとして、探しには行かないとな。もう帰るぞって伝えんと」

「でしね」

「んじゃ、片付けがてらイオタを探しに──」

 そう口にしながら、席を立ったときだ。

「──みんな!」

 イオタが、一冊の書物を小脇に抱えながら、小走りで戻ってきた。

「おう、イオタ。そろそろ帰ろうって話になってンぞ」

「帰る前に、これ! これ見てくださいよ!」

 イオタの様子に、場がざわめく。

「求めているものとは違うかもしれませんが、これはこれですごいものだと思います」

 そう言って、イオタが書物を机の真ん中に置く。

 皆が、表紙を覗き見た。

「〈ロンド古語の文法〉──でしか?」

「え、何がすごいの?」

 ヤーエルヘルとシオニアが、顔を見合わせる。

「まあまあ。めくればわかりますよ」

「どれ」

 ドズマが手を伸ばし、表紙をめくる。

 表題の下に、著者名と思しき記述がある。

 プルが、その名を読み上げた。

「──な、なな、ナナイロ、ゼンネンブルク!?」

 ヤーエルヘルの背筋が伸びる。

「こ、これ、ナナさんが書いた本でし!」

「そうなんです。たまたま見つけたんですよ!」

「よ、読んでみていいでしか……?」

「もちろん。ただ、本当にロンド古語についての資料で、それ以外の記述はほとんどないみたいです。流し読みしただけですけど」

「──…………」

 イオタの言葉が聞こえていないかのように、ヤーエルヘルがページを繰っていく。

「これを、ナナさんが……」

「魔術研究科の教授だったってのは知ってるけど、ロンド古語の研究までしてたんだな。さすがヤーエルヘルの師匠」

 ロンド古語とは、神代の言葉だ。

 現在の共用語と共通する部分はあれど、基本的には別の言語と考えて差し支えない。

「本当に、なんでも知ってるひとでしたから……」

 ヤーエルヘルの瞳は愛おしげで、邪魔をすることは憚られた。

 最後のページが開かれる。

「……!」

 ヤーエルヘルが、どんぐりのような目をさらにまるくした。

「〈この書を、故郷であるエン・ミウラ島の人々に捧ぐ〉……」

 故郷。

 それは、求めていたものとは異なるものの、新しい情報には違いなかった。

 ヘレジナが小首をかしげる。

「エン・ミウラ島。知らん名だな。皆は知っているか?」

 皆、一斉に首を横に振る。

「ま、幸いここは図書館だ。地図ならいくらでもある。帰る前にざっと調べてみようぜ」

「はい、調べまし!」

 エン・ミウラ島。

 北方大陸の地図を持ち寄り、その名だけを頼りに隅々まで調べていく。

 だが、一向に見つかる気配すらなかった。

「ないねー……」

 シオニアが、机に全身を預ける。

「ひ、ひとの住める島って、そう多くない、……のに。や、ヤーエルヘル。ナナさんの出身って、き、聞いたこと、ある……?」

 プルの問いに、ヤーエルヘルが答える。

「えと、はっきりとは。でしが、西のほうとは言っていました」

「西──」

 イオタが、地図のある一点を指差す。

「なら、恐らくアーウェンですね。海洋国アーウェン」

 アーウェンとは、北方大陸最西端であるウージスパインの更に西に位置する島国だ。

 本島の南に小島が点在しているため、地図に記載されていない島があってもおかしくはない。

「……あの」

 ヤーエルヘルが、何か言いたげに俺たちを見上げる。

 俺は、帽子の上から、ヤーエルヘルの頭をぽんと撫でた。

「行こうぜ、アーウェンへ。エン・ミウラ島へ」

「いいんでしか……?」

「ネウロパニエからまっすぐトレロ・マ・レボロへ行くんじゃなくて、多少は観光する予定だったろ。海とか見たいって話もしてたしな。だったら、ついでにアーウェンに寄るくらい、なんてこたないさ」

「う、……うん。わ、わたしも、海、見たことないから。た、楽し、……み。ふへ、へへへ……」

「お前の師には、純粋魔術を研究した咎で尻叩きをせねばならんからな。会えるかどうかはわからんが、唯一の当てでもある。立ち寄るのも一興だろう」

 イオタが、ヤーエルヘルの前に立つ。

「いつかは、言えなかった。だから、今言います」

 そして、深呼吸と共に、口を開いた。

「ナナイロさんが何者であろうと、ヤーエルヘルさんの大切な人であることは変わりません。その行いが正しければ、認めればいい。間違っていれば、止めればいい。それができるのは、きっと、ヤーエルヘルさんだけです」

「──…………」

 ヤーエルヘルが、その言葉を噛み締めるように目を閉じる。

「ありがとう、ございまし。あちし、そうしたいでし……!」

 その様子を見て、イオタが慈しむように微笑んだ。

 トレロ・マ・レボロへ行く前に立ち寄る場所ができた。

 海洋国アーウェン──そのどこかにあるはずの、エン・ミウラ島だ。

 ナナイロさんに会えるとは限らない。

 だが、当てがあるのなら、探せる限りは探してみたい。

 ナナイロ=ゼンネンブルクは、ヤーエルヘルにとって、大切な人なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る