3/魔術研究棟 -終 炎竜殺し [第四章・了]
次に目を覚ましたのは、その日の深夜だった。
宿の店主に無理を言ってパンだけ分けてもらい、風呂に入って身を清め、再び床に就いた。
「──……ん」
朝方に再び覚醒し、トイレに立つ。
小用を済ませて部屋に戻ろうとしたとき、廊下の最奥にある窓の前に誰かが立っていることに気が付いた。
「──プル?」
「あ……」
俺の声に、振り返る。
振り返った少女は、思った通りプルだった。
梳かす前の白髪はぼさぼさで、普段よりさらに幼く見える。
俺は、無言でプルの隣に立った。
宿の二階の窓からは、夜が終わり、朝日が差し込む直前のネウロパニエの街区が覗いていた。
「──…………」
「──……」
プルが隣にいる。
それだけで、心が落ち着く自分がいた。
こうして、プルと二人きりで時を過ごすのは、本当に久し振りだ。
俺は、全優科では常にイオタと共にいた。
プルは、ヘレジナやヤーエルヘルと離れることはなかった。
朝から得をした気分だ。
「……あの、ね。かたな……」
ぼそり、と。
躊躇いがちな声が、プルの口から漏れた。
「ん?」
「わたし、ね……」
プルが、伏せていた顔を上げる。
その瞳に込められた感情はひどく複雑で、すべてを読み取ることはできなかった。
「……わたし、みやぎに、行かなくてもいい、……よ?」
「──……!」
一気に目が冴える。
横っ面を、いきなり殴られたような気分だった。
「どうして、だ……?」
「だって……」
プルが微笑む。
悲しげに、微笑む。
「か、かたなは、ネルのこと、諦めた。シオニアさんのことも、諦めた。……わたしたちの、ために」
違う。
それは違うよ、プル。
俺は、選んだんだ。
俺が、選んだんだ。
プルと共に歩く道を。
だから、そんな顔をしないでくれ。
しかし、一気に溢れ出ようとした言葉は、喉のあたりでほとんど詰まってしまって。
「……っ、違う……」
出せたのは、その一言だけだった。
プルが、ゆっくりと首を横に振る。
「違わない、よ。わたしとの約束、重荷に、なってる。だから」
満面の笑みを浮かべ、言った。
「──もう、いいよ」
目尻から、一筋の涙をこぼしながら。
嗚呼。
俺は、何も変わっていない。
あの地竜窟から、一歩たりとも進めてはいなかった。
この子の涙を見るのは、もう嫌なのに。
また泣かせている。
今度は、俺が、プルを泣かせている。
「え、……と。わ、わたし、部屋に戻──」
体が勝手に動いた。
「──わっ」
俺は、プルの矮躯を、思いきり掻き抱いていた。
「……違う」
ようやく言葉が滑り出す。
「俺は、ネルが好きだった。シオニアが好きだった。でも、彼女たちと道を違えることを選んだ。どうしてか、……わかるか?」
「わ、……わたしと、約束、したから。みやぎに、連れて行くって。そ、それと、家族に会いたい、って……」
「半分、正解だ」
「はん、ぶん……?」
「もう半分は、な」
抱き締めた右手で、プルの髪を手櫛で梳く。
寝起きでぼさぼさのはずの白髪が、俺の指をさらりと受け入れた。
「俺が、お前と一緒に歩きたいからだ」
「……!」
「気付いてなかったかもしれないけど……」
そう前置きし、ごくりと喉を鳴らす。
この言葉を口にするのは、炎竜に挑む以上の勇気が必要だった。
だが、言うべきだ。
伝えるべきだ。
俺は、プルを抱く腕にさらに力を込めると、そっと口を開いた。
「──お前は、俺の特別なんだ」
俺にはわからない。
これが恋情なのか、家族愛なのか、親愛なのか、経験のない俺には判別がつかない。
しかし、一つだけ言えることがある。
この特別な感情は、ヘレジナに抱くものよりも、ヤーエルヘルに抱くものよりも、シオニアに抱くものよりも、ネルに抱くものよりも、大きい。
プルは、俺の生き方を変えてくれた人だから。
人間という存在の底の底から、俺を救い出してくれた人だから。
「あ──」
俺は、プルの頭を俺の胸元に押しつけた。
「ぎゅむ」
「武士の情けだ。泣き顔は見ないでおいてやる」
「……う、あ、……ああ、かた、な……! ああ、……うああああああ──……!」
寝間着の胸元に熱いものが染み込んでいく。
これから先の人生で、俺は、何度プルのことを泣かせてしまうのだろう。
わからない。
でも、いつだって隣にいようと思った。
こうして、泣き顔を隠してやれるように。
抱き締めてやれるように。
不定期に発行される新聞が世間を騒がせていることを知ったのは、正午を大きく回った頃だった。
「──なるほど、なるほど」
昼食をとるために入った喫茶店で、ヘレジナが新聞を開く。
恐る恐る尋ねた。
「なんて書いてる……?」
「おおよそ予想通りと言っていい。〈元老院議員ツィゴニア=シャン、暗殺される〉。デイコスの名は出ておらん。パドロめ、上手くやったのだろうな」
柔らかな白パンをあぐあぐと食べながら、ヤーエルヘルが口を開く。
「魔術研究科と炎竜のことは載ってないのでしか?」
「研究棟が焼け落ちた件は載っている。あのまま火災は止まらず、地下部分を含め完全に崩落したとのことだ。だが、炎竜についての記事はないな。あれは、魔術大学校──それも全優科の敷地内でのことゆえ、隠蔽しようと思えばいくらだってできるのだろう。あの様子であれば、魔術研究科は再起不能であろうし、放っておいても構うまい。もっとも、人の口に戸は立てられないだろうが……」
プルが、両手で包んだカップで紅茶を飲みながら言う。
「し、知らなくていいと、思い、まっす。自分たちは死ぬかもしれなかった、……なんて、知っても仕方ないし……」
「だよな」
プルに頷き、言葉を継ぐ。
「ひとまず、竜殺しの二つ名は避けられそうでよかった」
「──…………」
ヘレジナが俺の顔を覗き込む。
「また、自分を卑下しているのではあるまいな」
「なんでだ?」
「今度は、自分じゃなくて神剣が強いんだー、とか言い出しそうでな」
「ああ……」
前の俺なら、いかにも言いそうだ。
「──大丈夫だ。俺は、利用できるものをすべて利用して、炎竜を倒した。それは俺自身の強さだ。俺が、ツィゴニアの野望を打ち砕いたんだ。そのくらいは認められるようになったさ」
「ほう、殊勝ではないか」
「弟子に教えられたからな。俺は、自分の成したことに自信を持っていい。自分を認めていいんだって」
プルがくすりと笑う。
「い、イオタくん、すごい、……な。わたしたち、いくら言っても、か、かたなは自信を持ってくれなかったのに」
「それは──」
イオタの顔を思い浮かべる。
「それは、きっと、イオタが俺の弟子だからだと思う。だってそうだろ。俺が自分を認めてやらなければ、イオタは絶対にそれができないんだ。イオタの師匠である限り、俺は自信を持ち続けなければならない。ただそれだけで、どっちがどっちってのはないからさ」
「う、……うん。わかってる、よ?」
プルが、機嫌よさそうに頷く。
今朝、彼女が俺の特別であると伝えられてよかった。
ラーイウラを出立してから、プルの様子がおかしいことが度々あった。
自分が、そして交わした約束が、俺の重荷になっていると勘違いしていたからだろう。
俺でなくてもいい。ヘレジナやヤーエルヘルにでも打ち明けてくれればいいものを、本当に一人で抱え込む子だ。
野菜サンドをたいらげたところで、言った。
「今日、これからどうする?」
プルが答える。
「だ、大図書館、かなあ。まだまだ調べる書物、あ、ありそう、……だし」
「二、三週間は留まり続ける必要があろうな」
半月弱、といったところだろう。
「イオタたちも手伝ってくれるし、そんくらいかな」
「皆で遊びに行って、そのぶんトントンになる未来しか見えんのだが……」
「気分転換は必要でしよ」
「う、うん。ヤーエルヘルの言う、……通り。ずーっと、調べものしてたら、頭痛くなる……」
「だな」
ヘレジナが、うんうんと頷く。
「たしかに、皆の言う通りである。私も彼奴らのことは気に入っているし、すこしくらいは遊んでもよかろう」
俺たちはもう、全優科の学生ではない。
だが、それだけだ。
俺たちが得たものは、全優科の内外を問わない。
一生の宝物、なのだから。
「──学園生活の延長戦、だな」
そう呟くと、三人が嬉しそうに頷いた。
昼食を終え、大図書館へと向かった。
相も変わらず立派な玄関をくぐり、係員に身分証を提示する。
「えー、ヘレジナ=エーデルマンさんに、ヤーエルヘル=ヤガタニさん。カタナ=ウド──カタナ=ウドウ!?」
係員の大声に、周囲が騒然とし始める。
「──……え?」
「炎竜を倒したっていう、あの!?」
「え、カタナ=ウドウ?」
「炎竜殺しのカタナ=ウドウがいるの? どこ!?」
「す、す、す、すみません! 握手していただけますか……!」
俺は、慌てて後退った。
「そ、そんな大した者じゃないんで!」
振り返り、皆に言う。
「戻ろう! いったん!」
「うん!」
「はい!」
「ははは、お前も有名になったものではないか」
「笑ってる場合じゃないだろ!」
図書館から逃げるように駆け出る。
これ、今後俺だけ大図書館に入れないんじゃないか?
ヘレジナが、不敵に微笑んだ。
「しかし、悪い気はしないであろう?」
「──…………」
走りながら、苦笑する。
「まあ、ね」
「そうだろうとも。それが、お前の成したことなのだ。それだけのことをしたのだ。よくよく心に刻み込んでおくがいい」
炎竜殺しのカタナ=ウドウ。
この様子だと、ネウロパニエだけでなく、ウージスパイン全域に名を馳せてしまいそうだ。
厄介極まりない。
だが、悪くはないと思った。
それは、俺が頑張った証でもあるのだから。
しつこく追い掛けてくる数名を撒きながら、俺はそんな益体もないことを考えていた。
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第四章 あとがき
第四章読破、本当にお疲れさまでした。
本章は、現時点における最長の章であり、約二十万字という凄まじい長さとなっております。
しかし、イオタたちとの青春を描くためには、その長さが絶対に必要でした。
イオタ、シオニア、ドズマ──三十路の形無と年齢こそ離れているものの、彼らとの友情は、きっと永遠に違いありません。
そして、災厄竜である炎竜を斃した形無は、地竜を斃した四十年前のルインラインと実力的に肩を並べています。
魔術を使えない形無が、その領域まで辿り着いている。
それが、どれほどの偉業であるかは、きっと読者諸兄のほうがよく知っていることでしょう。
もし面白いと感じていただけたなら、一言でもいいのでレビューをいただけると、筆者の今後の糧となります。
難しいのであれば、★評価のみでも構いません。
どうぞ、よろしくお願い致します。
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