2/魔術大学校 -23 竜鱗
日の落ちたネウロパニエを歩く。
人々の往来はまだ多いが、峠は過ぎて、後は落ち着いていくばかりだ。
「──お父さん、元気そうでよかった」
イオタが胸を撫で下ろす。
「たーくさん、話せましたね!」
「ヤーエルヘルさんと、カタナさんのおかげです。二人がいなかったら、まだ萎縮していたかも……」
「そんなこと、ありませんよ。イオタさんは強くなりました。とても、とても、頑張っているのがわかりまし。ラーイウラでのカタナさんたちを思い出しまし」
「まだまだですよ。ぼくは、まだまだ強くならないと。そうしないと──」
イオタが、ヤーエルヘルを見つめた。
「ヤーエルヘルさんたちも、きっと、心配でしょうから」
その笑みは、強く、そして悲壮だった。
別れを覚悟した笑顔に見えた。
「……そう、でしね。心配するよりも──イオタさんは、みんなと楽しく過ごしているんだって思い返せたら、あちしは嬉しいでし」
「はい、頑張ります。ヤーエルヘルさんたちの、良い思い出になれるように」
ヤーエルヘルが、眉を落とす。
「だめでしよ」
「……えっ」
「イオタさんは、思い出にはなりません。ただ、すこし距離が離れるだけでし。あちしたちは、ずっと、友達でしょう?」
「──…………」
「きっと、また会いに来まし。そのときは、笑顔で迎えてくださいね」
「はい!」
二人の隣を無言で歩きながら、腕の中で眠るシィの首元を掻く。
イオタとの、皆との別れは避けられない。
俺は選択したのだ。
ネルと生きる人生を切り捨ててまで、この道を選んだのだ。
俺のいた元の世界へと、プルたちを連れ帰る道を。
誰かに強制されたわけでも、誘導されたわけでもない。
俺自身が、そうしたいからだ。
だが、ネウロパニエとラーイウラには、一度は帰ってくるつもりだった。
今度は、本当の別れを告げるために。
「──でも、まさか、ぼくがあの武術大会に出ることになるなんて。去年のぼくに伝えたら、きっと仰天して椅子から転げ落ちますよ」
「そんなに大きい大会なのか?」
「盛り上がりは、参観会でいちばんですね。三人チームで出場して、五連勝すれば優勝。連勝者が二チーム以上出たら、そのチーム同士で──けほッ」
イオタが、咳をした。
「イオタさん……?」
「──けほッ! ごほ、けほ……、だ、大丈──げほッ!」
「腕、見せてくだし!」
ヤーエルヘルが、イオタの袖をまくる。
そこには、あの時と同じ、鱗が浮かび上がっていた。
「ヤーエルヘル、シィを頼む」
「は、はい!」
「……ぴぃ?」
目を覚ましたシィが、ヤーエルヘルの腕の中で不安げに鳴いた。
「イオタ、ベディルスさんのところへ連れて行く。背中に乗れ」
「……す、すいま……、げほッ! げホッ!」
強がることなく、イオタが素直に負ぶさった。
「ヤーエルヘル、すこし走る。頑張ってついてきてくれ」
「はい!」
ネウロパニエの街を駆ける。
シオニアが案内してくれたおかげで、地図は頭の中にある。
もともとわかりやすい街路であることも相俟って、ほとんど最短でベディ術具店へと辿り着くことができた。
「──はッ、はあ……、はァ……!」
鍛えているとは言え、さすがに人を背負って走るのは、きつい。
だが、弱音は吐けない。
「ゲホッ! けほ、……けほッ! ゲホッ!」
咳が、以前にまして強い。
イオタは、もう、話すことすらままならなくなっていた。
「──ベディルスさん! ベディルスさん! 開けてくだし!」
ヤーエルヘルが、必死に玄関扉を叩く。
しばしして、
「どうした!」
事態の深刻さを察したのか、ベディルスが慌てて扉を開けた。
「イオタさんが! また、鱗が!」
「わかった、入れ!」
店内へと足を踏み入れる。
「ウドウ君、イオタを寝かせてくれ」
「は……、はい」
イオタを、そっとソファに下ろす。
ベディルスは、再びあの薬包を戸棚から取り出すと、イオタの上体を起こし、なんとか薬を飲ませた。
イオタの咳が、徐々に鎮まっていく。
「……鱗が、首元まで出てきている。危ないところだった」
ベディルスが、深々と頭を下げる。
「すまない、ありがとう。また助けられたな」
「いえ……」
息を整え、尋ねる。
「イオタは──イオタは、なんの病気なんですか?」
「──…………」
ベディルスが、意を決したように立ち上がる。
「ヤーエルヘル君。イオタのことを見ていてもらえるだろうか」
「はい、おまかせくだし!」
「ウドウ君、外で話そう。今は気を失っているようだが、万が一にも聞かせたくない」
「わかりました」
俺は、ベディルスの後に続き、店の外へ出た。
ベディルスが、月を見上げる。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「──イオタは、病気ではない」
「病気、じゃない?」
「あれは、体質だ。決して治るものではない」
ベディルスが目を開き、尋ねた。
「……魔獣使いを知っているか?」
話の流れが掴めず、戸惑う。
「いちおう、知ってはいます。魔獣を使役する人々のことですよね」
魔獣使いが操れる魔獣は、一体だけ。
そんな俗説が脳裏をよぎる。
「彼らは、何故、魔獣などというものを操ることができると思う?」
「──…………」
思案する。
「……いえ、わかりません。神代の魔術具を使っているとか?」
「違う」
ベディルスが、小さくかぶりを振った。
「あれらは、皆、魔獣の血を継いでいる」
「魔獣の血を……?」
「狒々の魔獣使いなら、狒々の魔獣の血を。水の魔獣使いなら、水の魔獣の血を継いでいる。魔獣と交わった人間の末裔なのだ」
「──…………」
衝撃だった。
では、流転の森で俺たちを襲った影の魔獣は、影の魔獣の血を引く人々が操っていたのか。
「魔獣使いが操れる魔獣は、一体まで。これにも理由がある。彼らは、魔獣と精神的にリンクしている。このリンクは、常に同じ個体としか行えない。複数体とリンクすることは、そもそも不可能なのだ。距離を問わず繋がり続けるから、別の個体とリンクするためには、その個体が死亡する必要がある」
「なるほど……」
おぼろげながら、話が見えてくる。
「あなたたちは、魔獣使いの一族なんですか?」
「──…………」
ベディルスが、首を横に振る。
「……純粋魔術が作り出した人造生物は、魔獣だけではない」
そこまで聞いて、気が付いた。
すべてが繋がる答えに、辿り着いた。
「竜種……!」
「その通りだ。イオタは、竜の血を継いでいる。竜使いの一族だ。シィは、あの子が使役している飛竜の仔だよ。無意識のうちにな」
「じゃあ、あの鱗は」
「竜鱗だ。イオタの中で、時折、竜の血が暴れることがある。咳もそれが理由だ。人と竜とでは呼吸の仕方が根本的に異なる。故に、まず気管が耐えられなくなるのだろう」
「あの薬は、なんなんですか?」
「あれは、魔獣の血液から精製したものだ。竜種の血が暴れるのであれば、別の魔獣で中和できないかと試し、効果があることを発見した。だが、魔獣の血液を入手するのはかなり困難だ。故に数は用意できない」
「──…………」
竜の血を引く彼らは、地竜を手足のように操っていた。
竜使いの一族だったのだ。
「……私も、ツィゴニアも、竜の血は継いでいない。イオタだけだ。イオタは、孤児だった。それを息子が拾ったのだ。本人は覚えていないだろうがな」
「そう、だったんですか……」
「病ではない。故に、あの子はこの症状に一生悩まされ続けるだろう。対症療法は可能でも、根本的に抑える方法は、私にはわからない」
ベディルスが、自嘲気味にそう呟く。
自らの無力を嘆くように。
「──いえ、方法は存在するかもしれない」
「なんだと……?」
「俺は、イオタと同じく、竜の血を継いだ人間を知っている」
「本当か!」
ベディルスを安心させるように、頷く。
「その名は、ルインライン=サディクル。彼もまた、古き竜の血を引く人間だった。俺は、ルインラインのことを深くは知らない。でも、彼の弟子であったヘレジナなら、何か知っているかもしれません」
「ルインライン──」
ベディルスが、目を見開く。
「……そうか、神剣。あれは、神剣アンダライヴか。ヘレジナ君は、彼の弟子だったのか」
「聞いてきます。対策を練るのであれば、早いほうがいい」
「ああ、お願いできるだろうか」
「はい!」
俺は、ベディルスに背を向け、駆け出した。
イオタに関する事柄が、頭の中をぐるぐると回り続ける。
知れば、イオタは悲しむだろうか。
血の繋がらない二人の家族のことを、どう思うのだろうか。
本当に竜の血を引いていた自分のことを、どう思うのだろうか。
無意識に使役していたシィのことを、どう思うのだろうか。
わからない。
気付けば、涙が込み上げていた。
悔しかった。
俺には出生の秘密なんてない。
俺は、ただの一般人に過ぎないから。
だから、イオタの気持ちを理解することは、一生涯ないだろう。
この事実を知ったとき、
イオタは、
たった一人で過酷に立ち向かわなければならないのだ。
「──はあッ、……は……、はあ……」
気付けば、ヘレジナとプルの住む黒雪寮の前まで来ていた。
黒雪寮は女子寮だ。
寮母に軽く事情を話し、二人を呼んでもらった。
「か、……かたな! ど、どうしたの……!」
「何があった!」
「……ああ、いや。その」
息を整え、誤魔化すように笑みを浮かべる。
「そこまで、緊急事態ってわけじゃない。安心してくれ」
「──…………」
「イオタが、また、発作を起こしてな。……それで、ヘレジナに聞きたいことができた」
ベディルスから聞いた話を、掻い摘まんで説明する。
二人が顔を見合わせた。
「……まさか、イオタが竜の血を継いでいるとは」
「で、……でも、納得はいく、……かも。あ、あれは、本当に鱗だったから……」
「それで、ルインラインはどうだった? 発作を起こしてる様子なんかは」
ヘレジナが答える。
「いや、私の知る限りは、そのような発作は一度もない。常に行動を共にしていたわけではないが……」
「で、でも、あれだけの咳、……だもん。ルインラインが病に、な、なれば、宮中に噂くらいは立った、……と、思う」
「つまり、ルインラインは発作を起こしてはいなかった……」
プルがヘレジナに尋ねる。
「る、ルインラインの日課とか、し、……知らない?」
「日課、ですか……」
ヘレジナが、しばし思案する。
「修練と、祈り以外には、一つだけ」
「そ、それは……」
「……自分の血を、飲むのです。毎日ではありませんでしたが」
「自分の血、って──」
思わず目をまるくする。
「自分を傷つけてってこと、だよな」
「ああ。飲むと言っても、ごくごくと飲むわけではない。舐める、と言ったほうが近い。自分の手首の皮膚を軽く噛み千切り、血を舐める。師匠はこれを、ちょっとした願掛けだと言っていた」
「──…………」
イオタの発作は、魔獣の血液から精製した薬で沈静化した。
サザスラーヤの血潮は、口から摂取して初めて〈命〉として働いた。
血液を口から摂取する。
この行為にこそ意味があるのだとすれば、ルインラインの行動も納得が行く。
自分の──人間の血によって、竜の血を抑えていたのだ。
「……魔獣の血より、人間の血のほうが入手しやすい。試す価値は十分にある。俺はイオタを迎えに行くけど、二人はどうする?」
「──…………」
そっと目を伏せたヘレジナが俺の名を呼んだ。
「カタナ」
「どうした?」
俺の肩ほどの身長もない矮躯がこちらを俺を見上げる。
その双眸は、真剣だった。
「私の命令権を、ここで行使する」
「ここで……?」
何をやらされるんだ。
「──何故、泣いていた。問答無用で答えるがいい」
「ッ!」
思わず目元を擦る。
涙が残っているのかと思って。
「やはりか。涙の跡など、残っておらん。目がすこし充血していたから、鎌を掛けただけだ」
「──…………」
敵わないな。
「情けない話だ。ただ、自分が無力に思えただけだ。俺がイオタにできることは、あまりに少ない。既に起こったことは変えられない。イオタには過酷が待っていて、それはきっと、イオタ自身が乗り越えなければならないものだ。そして──」
苦々しく、笑う。
「俺は、本当の意味で、イオタの苦悩を理解することはない。それが悔しかった。……それだけだ」
ヘレジナが、呆れたように言った。
「なんともはや、過保護な師匠よな」
「マジでそうかも……」
自覚はある。
だが、どうにもイオタには感情移入してしまうのだ。
持たざる者。
[羅針盤]も、[星見台]も、神眼も、神剣も──借り物のすべてを奪われたとしたら、俺はきっと、あの子に似ているから。
「──…………」
プルが、遠慮がちに、俺の袖を引く。
「……イオタくんの過酷は、イオタくんのもの、だよ。そ、それを肩代わりすることは、誰にもできない」
「……そう、だな」
「わ、わたしたちは、……ずっと傍にいることすら、できない。一緒には、いられない。で、でも、何もできないわけじゃ、……ない、よ」
プルが、俺を見つめる。
潤んだ瞳で。
「かたなにしか、できないこと、あるよ。それは、イオタくんを、つ、強くすること。自分で立てるように。自分で歩けるように。あなたは、イオタくんの師、……だから」
プルの言葉が、ひび割れ欠けた心の隙間に染み込んでいく。
「……そして、信じよう。あなたが強く育てた弟子のことを。このネウロパニエを離れても、ずっと、ずっと」
「──…………」
目蓋を閉じる。
そして、空を見上げて目を開いた。
中天に座す沈まぬ月が、今日も明るく輝いている。
涙が一筋、頬を伝った。
「ありがとう、プル。ありがとう、ヘレジナ。俺のすべきことがわかったよ」
「ああ。少なくとも、イオタに同情して涙を流すことではあるまい?」
「はは……」
勘弁してくれ、小っ恥ずかしい。
「……イオタを迎えに行ってくるよ」
「わ、……わたしも、行くね」
「私も行こう。なに、賑やかしにはなるであろう」
「ああ」
残された僅かな時間で俺ができることは多くない。
だが、〈これだけは身に着けなければならない〉という目標は確かに存在する。
それは、成功体験に基づく自信だ。
幸いにして、そのための舞台としてピッタリのイベントがある。
武術大会。
優勝までは望まない。
ただの一度でいい。
闘技形式での試合で、勝利してほしい。
悪いな、イオタ。
明日からスパルタだ。
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