2/魔術大学校 -22 プラムジュース
アンパニエ・ホテル、ロビー。
俺とイオタ、ヤーエルヘルは、スプリングのよく利いた座り心地の良い椅子に腰掛けながら、香り高い紅茶を口にしていた。
今、ホテルマンが、ツィゴニアに来客を告げているはずだ。
イオタが、紅茶で唇を湿らせる。
「……なんだか、すこし緊張しますね」
「ぴ?」
ヤーエルヘルの腕の中で、シィが小さく鳴いた。
「イオタさんと初めて会ったの、このロビーでしたね。シィちゃんが、あちしの頭に飛んできて……」
「あの時は、すみませんでした。シィが他の人のところへ勝手に行くことなんて、そうないんですけど」
「そんだけヤーエルヘルのことが気に入ったってことだろうな」
「嬉しいでしー……」
ヤーエルヘルが、シィを抱き締めながら、はにかむような笑みを浮かべた。
「そう、ですね。きっと──」
イオタが、意を決したように口を開く。
「ヤーエルヘルさんのことが、大好きなんですよ。……シィは」
予行演習かな。
「──…………」
ヤーエルヘルが、シィの首元を掻く。
「ぴぃー……」
シィは心地よさそうだ。
「あの。ところで、どうしてあちしを誘ってくれたのでしか?」
「それ、は……」
イオタの頬が赤く染まっていく。
「その」
しかし、それも一瞬のことだった。
「……やっぱり、すこし、不安で」
イオタが睫毛を伏せる。
「前に会ったときも、ほとんど話せなかったんです。お父さんはいろいろ話し掛けてくれたんですけど、ろくに返すこともできなくて。皆さんと出会って、すこしは変われた──と、思うんですけど……。やっぱり、誰かにいてもらいたくて」
「──…………」
ヤーエルヘルが、そっと微笑む。
「あちしも、すごく人見知りだったんでし」
「ヤーエルヘルさんも、ですか?」
「はい。あちしの師──ナナさんに拾われたときだって、最初はぜんぜん話せなくて。それでも、ナナさんは、そんなあちしに根気よく接してくれました。本当はナナさんにお返ししたいけど、それはまだできないから……」
ヤーエルヘルが立ち上がり、イオタの髪をそっと撫でる。
「!」
「がんばって、くださいね。あちしでよければ、一緒にいましから」
「──…………」
イオタは、赤面すら忘れて気持ち良さそうに笑みを浮かべると、
「……はい」
そう、満足げに頷いた。
まるで、母と子を見ているようだった。
イオタは、母親のことを話さない。
聞けば教えてくれるだろうが、興味本位で尋ねるのは気が引けた。
それからしばらくして、ホテルマンが戻ってきた。
「シャン様が、皆様をお通しするように、とのことです。御案内致します」
「よろしくお願いします」
ホテルマンに連れられ、最上階のアンパニエ・スイートへと案内される。
昇降機を出た先にある唯一の扉をノックすると、
「──入りたまえ」
と、ツィゴニアの声が告げた。
ホテルマンが、マスターキーを使用して扉を開く。
そこは、最上階をまるまる使用した、〈一室〉と呼ぶことすら躊躇われる空間だった。
俺たちの利用したスイートルームがままごとに見えるような、真なる資産家のための部屋だ。
各所に飾られた生花の香りで鼻腔を満たしながら、その空間へ足を踏み入れる。
「ふわー……!」
ヤーエルヘルが、感嘆の声を漏らす。
「……前に来たとき、空いてなくてよかったな。一泊五万シーグルはしそうだぞ、ここ」
「で、でしね……」
イオタが、萎縮する俺たちに苦笑した。
「お父さん、どちらですか?」
「──ああ、こっちだ。申し訳ないな、手が離せなくて」
ツィゴニアは、リビングルームから繋がる書斎の奥にいるらしい。
覗き込むと、驚くほど広いデスクの上に、それ以上の数の書類が積み上がっていた。
「適当に掛けてくれ。急がねばならない仕事があるのだが、片手間に会話をするくらいは構わない」
「忙しいのなら、後にするけど……」
「忙しいは忙しいが、大丈夫だとも。と言うより気分転換がしたい。ずっと書類とにらめっこしていて、気分がささくれ立っていたところだ」
「そうですか」
本人がそう言うのなら、甘えよう。
「お久し振りです、ツィゴニアさん。話は通っているでしょうが、イオタの護衛をさせていただいているカタナ=ウドウと申します」
「ヤーエルヘル=ヤガタニでし」
「ああ、事情は父親から聞いている。奇跡級の剣術士で、イオタを助けてくれたそうだね。本当にありがとう」
ツィゴニアが書き物仕事の手を止め、深々と頭を下げる。
「いえ」
「先日会ったときは、まさかこんなことになるとは思いもしなかったが……」
ペンをくるりと回し、再び書類に向かう。
「結局、君の言った通りだった。あの忠告がなければ、私は既にこの世にいなかったかもしれない。その点でも感謝をしたい」
「すべて、たまたまです。巡り合わせがよかっただけですよ」
「ならば、そういうことにしておこう。ところで、今日は何か用事でもあったかな」
ツィゴニアがイオタへ視線を向ける。
「いえ、そういうわけでもないんですが……」
イオタが、口籠もりながら続けた。
「ただ、お父さんが心配で。護衛がいるとは言え──」
周囲を見渡す。
「……あれ、護衛は?」
その姿は、どこにもない。
だが、
「大丈夫だ、ちゃんといる。ツィゴニアさんの気を逸らさないために、視界に入らないようにしてるんだろう」
神眼によって鋭敏となった感覚が、複数の呼吸音を察知する。
人数までは特定できないが、少なくとも三人以上がこの近くにいる。
「……ほう」
ツィゴニアが、片眉を上げる。
「すごいな。達人ゆえに、殺気などがわかるのだろうか」
「殺気、ですか」
軽く思案し、答える。
「そんなもの、存在しないと思いますよ」
「ほう?」
「俺の場合は、単純に、人より感覚が鋭くて呼吸音が聞こえただけです。殺気と言うより、気配ですね」
「なるほど」
ツィゴニアが頷き、言葉を返す。
「しかし、敵対している相手を目の前にして、殺気を感じることはあると思うのだが。私も政敵から殺気の篭もった視線を向けられることは多々あるよ」
「感じることはあるでしょう。ですが、殺気が物質のように放たれているわけではない。相手の様子を見て、自分に敵意が向けられていると感じる。順序が逆なんですよ。殺気が放たれているわけではなく、受け取り手が勝手に殺気だと認識しているだけだ」
「なるほど。故に、殺気だけを抽出して感じ取ることはできないと」
「そうなりますね」
「興味深いな。そういった捉え方をしたことはなかった」
ツィゴニアが愉快そうに笑う。
「──と、すまん。イオタの話を遮ってしまったな」
「うん、大丈夫」
無理をした様子もなく、イオタが続ける。
「護衛の人がいるとは言え、やっぱり心配だったから。せめて顔だけでも見たいと思って、来たんだ」
「──…………」
ツィゴニアが、イオタの顔を覗き込む。
「イオタ、どこか変わったな。背筋が伸びている」
「うん」
イオタが、得意げに微笑んだ。
「カタナさんの弟子になったんだ。友達もできた。最近は、毎日が楽しいよ」
「そうか、そうか。それは、とても素晴らしいことだ。私も心配だったんだよ。シィしか友達がおらず、いつも下を向いている。私が議員でなければ、ネウロパニエに住んでいれば、また違ったのだろうが……」
ツィゴニアが、仕事の手を止め、立ち上がった。
「はれ、お仕事はいいのでしか?」
「なに、愛息を祝いたくてね。仕事どころではなくなった。リビングで待っていてくれ。今、とっておきのワインを持ってこよう」
「──うん!」
イオタが、満面の笑みで頷いた。
三人でリビングルームへ取って返し、ソファに腰掛けてツィゴニアを待つ。
「よかったでしね、イオタさん。お父さん、喜んでくれて!」
「うん、本当に。もしかすると反対されるかもしれないって思ってたから……」
「いいお父さんだな」
「はい!」
しばらくして、ツィゴニアが戻ってくる。
その手には、高級そうなワインの瓶と、小瓶が二つ握られていた。
「──おい、グラスを四つ頼むよ」
「了解致しました」
別の部屋から護衛が一人現れて、人数分のグラスを置いて去っていく。
以前会った護衛とは違う顔だ。
「ウドウ君は、ワインでいいかな」
「ええ、いただきます」
「イオタとヤーエルヘル君には、まだお酒は早いだろう。プラムジュースとスグリジュースがある。イオタはプラムが好きだったな」
「うん」
イオタが嬉しそうに微笑む。
「ヤーエルヘルさん。プラムとスグリ、どっちがいい?」
「あ、あちしはスグリがいいでし!」
「では、ヤーエルヘル君にはスグリジュースだ」
そう言って、ツィゴニアが、黒紫のスグリジュースをグラスに注ぐ。
「ありがとうございまし」
同様に、イオタには真っ赤なプラムジュースを、自分と俺のグラスには赤ワインを注いでいく。
「俺、あんまり高い酒の味とかわからないんですが……」
「いいのだよ。値段はワインを味わうのに邪魔でしかない。金を飲んでいるのではないのだからね」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
「それなら、遠慮なく」
ツィゴニアが、胸の前で輪を作る。
「では、本日は白曜日──陪神エルの元、美酒をいただこう」
俺たちも、ツィゴニアにならった。
日本で言う乾杯に当たる儀式らしい。
ツィゴニアがグラスに口をつけるのを待ち、ワインをひとくち飲む。
ふくよかな葡萄の香りが口と鼻を満たし、胃の奥へと熱く流れ込んでいく。
良い悪い、好き嫌いに関わらず、このワインは間違いなく高い。
「……すごく芳醇ですね。ひとくち飲んだだけなのに、鼻から喉までワインで満たされた気分だ」
「ふふ、そうだろう。私のとっておきだからね」
ツィゴニアが満足げに笑う。
「スグリジュースは、なんだかフシギな味がしまし。お酒じゃないのに、お酒のような……」
「美味しいですよね。お父さんはネウロパニエに来るたびこの部屋を取るんですが、ぼくは昔からここのプラムジュースが好きで……」
「そうか、そうか。そう言ってくれるだけでも、この部屋を取った甲斐があるというものだ」
しばし会話を交わすうち、ツィゴニアがふと切り出した。
「ところで、剣術を習っているからには、〈あれ〉に出るのかな」
「あれ、でしか?」
ヤーエルヘルが小首をかしげる。
「ああ。参観会の目玉である、飛び込み参加オーケーの武術大会だよ。三人でチームを組むこと以外は、わりとなんでもアリだ。私も、元を辿れば全優科の学生でね。この大会には憧れたものだが、因果と剣の才には恵まれていなかった。もし自信があるのなら、参加してみるのも一興だろう」
「武術大会……」
「そんなの、あるのでしね」
「あれに出るなんて大それたこと、考えてもみなかった」
イオタが、こちらへと向き直る。
「──カタナさん。一緒に参加していただけませんか?」
イオタの気持ちは尊重したい。
だが、
「……俺、出ていいもんなのか?」
ツィゴニアが笑顔で言う。
「学外の人間だって参加可能な大会だ。奇跡級だからと言って遠慮することはないさ」
「がんばってくだし!」
武術大会、か。
御前試合を思い出す。
まさか、あそこまで血生臭い大会にはなるまい。
「なら、ドズマも誘ってみるか?」
「ええ、明日か明後日にでも頼んでみましょう!」
イオタがやる気に満ちている。
良い傾向だ。
「実に楽しみだ。イオタ、カッコいいところを見せてくれよ」
「はい!」
小一時間ほど雑談を交わしたあと、俺たちは部屋を辞することにした。
あまり長居をすると、ツィゴニアの仕事に支障を来すだろう。
「それでは、次に会うのは参観会の時かな」
「うん。期待していてほしい」
「ああ、もちろん。祝いの言葉を考えておくよ」
「それでは失礼します。デイコスの動きがないからと言って、油断はしないでください。くれぐれも気を付けて」
「お気をつけて、でし!」
「ああ、大丈夫だよ。何せ仕事が詰まっている。しばらく缶詰だろうからね。護衛もいるし、不本意ながらこれ以上ないほど気を付けている状態だ」
「確かに」
小さく笑い合い、俺たちはアンパニエ・スイートを後にした。
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