2/リィンヤン -11 誰が本命?

「──…………」

 窓から射し込む月明かりが目に沁みて、俺は目蓋を開いた。

 記憶はある。

 俺は、また、死にかけたのだ。

 皆に心配をかけたという自己嫌悪が、奇跡級中位として認められた喜びよりも先んじる。

 身を起こし、月明かりに懐中時計を晒すと、針は一時過ぎを指し示していた。

 半日近く意識を失っていたらしい。

「──ん……」

 足元で、何かがもぞもぞと蠢いた。

 目を凝らす。

 ベッドに上体を預けていたネルが、身を起こすところだった。

「あ、カタナ……」

 目をくしくしと擦りながら、ネルが微笑む。

「よかった、起きたのね。お腹の具合はどう?」

「ああ、今は大丈夫だ。痛みもない。腹が減ってるくらいだから、ダメージも残ってないだろ」

「あはは、それなら平気だね。パンとスープを用意してあるから、食べる? 冷めてるけど」

「サンキュ、いただくわ」

 ネルが、灯術の明かりを宙空に浮かべる。

 白色の光は、ランプなどの火を元にした照明と比べ、どこか寒々しさを感じさせた。

「はい、どーぞ」

 粗末な机の上にあったトレイを、ネルが俺に差し出してくれる。

 形の悪いパンと、さらりと透明な塩スープ。

 消化のことまで考えてくれたのだろう。

「いただきます」

 手を合わせる俺に、ネルが不思議そうな顔をする。

「それ、みんな食事のときに言ってるね。おまじないか何か?」

「ああ、俺の世界の挨拶なんだよ。食事の前に、感謝をする。作ってくれた人に。命を与えてくれる食べ物に──ってな。俺がしつこく言ってたら、プルたちも言うようになってさ」

「へえー、素敵だね。あたしも言おうかしら、いただきます」

 固くなったパンを塩スープに浸し、口元へと運ぶ。

 ラーイウラのパンは、元よりカンパーニュのように表面が固く、酸味がある。

 製パンのことはよくわからないが、シリジンワインの酵母で発酵させていることが理由の一つなのかもしれない。

「……ごめんね、ジグが」

 ネルが、目を伏せる。

「ジグが半端に人を殺しかけたの、初めて見た。殺すと決めたら殺すし、殺さないと決めたら怪我すらさせない。本当は、手加減が上手いのよ」

「知ってる」

 震える手で、拳を握る。

「──ここまで来た。俺の刃は、もう、ジグに届きうるんだ」

「はー……」

 俺の言葉を聞いて、ネルが呆れたように息を吐いた。

「カタナ。あなたもよくよく戦闘狂ね」

「ええ……?」

 不満に声を漏らす。

「俺は平和主義者だよ。暴力なんざ嫌いだね」

「嘘だー」

「本当だって。俺の国じゃ、暴力なんて必要なかった。殴り合いのケンカ一つしたことなかったさ」

 目を伏せる。

「だから、今だって怯えながら戦ってる。殺されることに。……殺すことに」

 街道で皆殺しにした十七人のことを思い出す。

 俺の罪を。

 その象徴を。

「……でも、必要なんだ。プルを。ヘレジナを。ヤーエルヘルを。この首輪から解放してやるためには、さ」

「大切なんだね、あの子たちが」

「まあ、な……」

 改めて口にすると、照れくさい。

「照れるな照れるな。カタナも愛されてるよ。三人とも、朝まで付き添うって聞かなかったんだから。治癒術を継続的にかける必要があったから、あたしはお寝坊になっちゃう。朝のぶんの家事はお願いねってことで、なんとか部屋に戻ってもらったの」

「あー……」

 正直、嬉しかった。

 だが、同時に、心配かけたことを申し訳なくも思う。

「──で、で、どの子が本命なの?」

 ネルが、いたずらっ子の顔で、食い入るように尋ねた。

「まさか全員とか言わないわよね。きゃー!」

 思わず半眼でネルを見つめる。

「あのなあ……」

「冗談で言ってるわけでもないんだけどなー」

「それにしたって、ヤーエルヘルは外そうぜ。あの子はまだ子供なんだから」

「……どうして?」

 ネルの視線は、思いのほか真剣だった。

「俺は二十九で、もうすぐ三十路。対してヤーエルヘルは十二歳。この年齢差で恋愛感情が生まれるわけないだろ」

「今は、ね」

 ネルが、ベッドの足元に腰を下ろす。

「……実はね、見ちゃったんだ。あの子、亜人でしょ?」

「──…………」

 一ヶ月、共に暮らしているのだ。

 帽子を外したところを目にする機会くらい、いくらでもあっただろう。

「見ちまったもんは仕方ないよな。そうだよ」

「トレロ・マ・レボロを出る亜人なんて、ほとんどいない。あの子はずっと怯えていたはずだよ。純人間に、ずっと。それは、プルやヘレジナに対しても、同じ」

「……ヤーエルヘルが、二人のことを?」

 そんなこと、あるはずがない。

 ヤーエルヘルは、プルのことも、ヘレジナのことも、大好きだから。

「頭ではわかってる。好きなのも本当。でも、心に刻まれた恐怖は、一生かかっても拭い去ることはできない。子供の時から奴隷だった人は、老人になっても杖の音に怯える。誰かが手を上げたら、思わず身構えてしまう。そういうものなの」

 ネルの言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。

 周囲に敵しかいない世界で、あの子はどれほど不安だったのだろう。

「……でも、カタナだけは違う。あなたは客人まろうど。別の世界からの来訪者。何も知らない、まっさらな人。あの子は、カタナだけには怯える必要がない。見てればわかるよ。ヤーエルヘルは、ヘレジナやプルにも気は許してる。でも、本当の意味で気を抜けるのは、あなたの前でだけなの」

「──…………」

 衝撃だった。

 ネルの主観だから、全部が全部当たっているとは限らない。

 しかし、まったくのでたらめでもないだろう。

「──で、その人は異性で、強くて、自分を守ってくれて、さらには自分たちのために努力を重ねるさまをずっと隣で見続けているわけ。年齢こそ離れてはいるけど、だからこそ憧れは強くなる。あの子はまだ子供。でも、いずれどうなるか、わかるよね」

 言葉を返すこともできず、俺は目を伏せた。

「だからね。ヤーエルヘルのことも、ちゃんと考えてあげて。あの子は、ずーっと子供のままじゃないんだから。娘や妹じゃなくて、一人の女の子として見てあげてほしい」

「……そう、か」

 そうだよな。

 この旅が何年続くかわからない。

 いずれは、プルも、ヤーエルヘルも、大人になっていくだろう。

 俺は、その事実から目を背けていたのかもしれない。

 今の関係が、あまりに心地よかったから。

「……ごめん。意地悪言うつもりじゃなかったんだ。でも、このままだと、ヤーエルヘルが可哀想だと思ったから」

「いや」

 なんとか笑みを作る。

「ありがとうな、ネル。俺、あの三人のことが大切だからさ。無神経に傷つけたくは、ないから」

「そっか」

 食べる手が止まってしまっていたパンを、スープで流し込む。

「朝まで、もうすこし寝るといいわ。起きたらもう一度治癒術をかけるね。それで全快」

「助かる。俺はまだ、ジグに勝てたわけじゃないから」

「あたしも、正直、ここまで来るとは思わなかった。神眼ってのがあるとは言え、たったの一ヶ月で級位を上げるなんて、そうあることじゃないんだよ。あたしだって、何年も何年も努力して、ようやく師範級第二位の治癒術士になれたんだから。それも、体操術なしで、なんて──」

 ネルが、ふと、遠くを見るような目をした。

「パパのこと、思い出すな」

「本物の奴隷の首輪を嵌めて、それでも奇跡級上位だったんだろ。ネルの父親にこう言うのもなんだけど、それってバケモノの範疇だからな」

「でしょー。なにしろ、あのルインライン=サディクルと肩を並べて戦ったんだから。魔獣戦線って聞いたことない?」

「名前だけはあるような……」

 プルが正体を明かしていない以上、ルインラインとの関係は口にできない。

 これは、ネルへの信頼の問題ではなく、明かすことで巻き込み危険に晒す可能性を危惧してのことだ。

「親父さんの名前、聞いていいか?」

「ルニード=ラライエ。旧姓はイスタルディンだよ」

「ルニード=イスタルディン、か。ヘレジナなら知ってるかもな」

「詳しいの?」

「わりと」

 そりゃ、ルインラインの直弟子だもの。

「──さ、あたしはこれで退散するわね。灯術、消しておく?」

「ああ、頼む。朝まで寝るよ」

 ネルが息を吹き掛けると、まるで誕生日のロウソクのように、灯術の明かりがふっと消えた。

「おやすみ、カタナ。応援してる」

 そう言って、ネルがウインクしてみせる。

「おやすみ、ネル。また明日な」

 ネルが、満足そうな笑みを浮かべて、俺の部屋を後にした。

「──…………」

 窓から月を見上げる。

 巨大な月は、今日も夜を余すところなく照らしていた。

 プル。

 ヘレジナ。

 ヤーエルヘル。

 三人のこと、真剣に考えないとな。

「……幸せ者だな、俺は」

 そんなことを考えていると、窓の外、眼下で何かが動いた。

 ここは二階だ。

 多少、距離がある。

「……?」

 目を凝らすと、その正体がわかった。

 ジグだ。

 夕涼みにはかなり遅いが、寝付けなかったのかもしれない。

 ジグの行く先を目で追うと、そこに、見知らぬもう一人の姿があった。

 屋敷の影に溶け込むような、黒い装束。

「……誰だ?」

 プルでも、ヘレジナでも、ヤーエルヘルでも、まして別れたばかりのネルでもない。

 体つきからして、恐らくは男性だ。

 月夜のやり取りは、いかにも秘密めいていて、何かきな臭いものを感じる。

 ジグと男性との邂逅は、わずか数分で終わった。

 玄関へ戻っていくジグの姿を見送りながら、思う。

 ジグのすることだ。

 俺たちにとって、害となるものではないだろう。


 ──そう、思っていた。

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