2/リィンヤン -10 奇跡級中位
──緩やかに流れる時の中で、俺は立ち尽くしていた。
ただ、無心に。
ただ、無尽に。
やがて、右斜め後方に圧迫感を覚える。
直感ではない。
耳と肌とでようやく捉えた、かすかな違和感だ。
泥土のように絡む空気を泳ぎ、ようやく振り返る。
そこにあったのは、三個の
その軌道から、かなり遠慮のない速度で投げつけられたことがわかる。
俺は、のそりと手を上げると、放っておけば直撃する二個の小石を掴み取った。
手のひらに伝わる衝撃までもが、ひどく緩やかだった。
かすかに陽光が陰った気がして、頭上に目を凝らす。
無数の──いや、二十六個の小石が降り注ぐ。
ほとんどの小石は当たらない。
俺の体に命中する軌道にあった七個を最低限の動きで避け、二個を同様に掌中に収める。
さまざまな角度から、小石が投げつけられる。
当たらないものは無視し、当たるものは避け、避けきれないものは手で受ける。
無心に、無尽に、それを繰り返していく。
だが、過集中は無限には続かない。
体感で三十分ほどが経過したころ、周囲の速度が徐々に増していることに気が付いた。
「──ッ、と」
最後の小石をなんとか手に取ったとき、世界が元の速度を取り戻した。
「フー……」
掌中にあった無数の小石を、ばらばらと地面に落とす。
その瞬間、わっと歓声が上がった。
「カタナ、すげー!」
「しんきろく!」
「ルインラインみたい!」
小石を投げてくれていた子供たちが、一斉に集まってきた。
ルインラインみたい、か。
畏れ多い評価だ。
「ありがとう、みんな。思いきり投げやがってコノヤロウ」
「だって、ホンキでって言ったじゃん!」
「そうだけどなあ──」
刹那、
──ヒュン!
風を切る音が、聞こえた気がした。
一瞬で神眼を発動し、背後を振り返る。
飛礫が、眼前にまで迫っていた。
慌てて手のひらで受けると、鮮烈な痛みが走った。
とんでもない速度で放たれたものらしい。
「つ──」
ずきんと頭痛が走り、脳がこれ以上は無理だと訴える。
気付けば神眼が解けていた。
「いたたた……」
小石を取り落とし、右手を振る。
受けた場所が赤くなっていた。
懐中時計を手に、小石を指で弾いたジグが口を開く。
「──五分間の継続発動。神眼の切り替え速度も及第点。これなら実戦に足るだろう。合格だ」
「うッし!」
思わずガッツポーズを取る。
ここ数日は、延々と神眼の訓練を繰り返していた。
最も重要なのは、神眼を即時発動することだ。
いくら目が良くとも、不意打ちで殺されては無力である。
危険を察知した瞬間に神眼へと切り替える技術が必要だと、ジグが判断したのだ。
これまで、神眼の発動には、深く一呼吸で五秒程度はかかっていた。
現在は、瞬時とまでは行かずとも、発動まで一秒を切っているはずだ。
「だが、現状に満足するな。飽きることなく反復しろ。発動までの時間を短縮し、継続時間を延ばすことで、お前はまだまだ強くなる」
「わかった」
御前試合は、もう、サンストプラの暦で一週間後に迫っている。
あと四日でジグを超えなければならない。
ジグという壁はあまりに高く、俺たちの前に立ちはだかっていた。
だが、諦めるわけにはいかない。
それがジグに対する礼儀だと思うからだ。
「──手合わせ、頼めるか?」
神剣代わりに腰に提げた木剣を抜く。
「ああ」
ジグが、即座に構える。
待ってましたと言わんばかりだ。
「ほら、お前ら。危ないから離れた離れた」
「カタナ、がんばれー!」
「今日こそたおせー!」
「おう!」
子供たちの叱咤と応援に笑顔で手を振り、木剣を構える。
銅鑼の音のように響く頭痛を無視し、
──俺は、神眼を発動した。
一歩──
無駄を削ぎ落とした歩法を駆使し、ジグへと迫る。
一歩──
深く、深く、地面に沈み込むほど深く踏み込む。
一歩──
そのまま、木剣で斬り上げる。
ジグは、避けなかった。
代わりに、その剛拳が木剣を真横から殴りつける。
流れには逆らわない。
ぐるり。
木剣の勢いに流されるまま、時計回りに回転する。
そして、僅かに体勢を崩したジグの反対側から、木剣を横殴りに叩き付けた。
命中した、と思った。
だが、すぐにそうではないと知った。
ジグは、左手の人差し指と中指で、木剣を挟み受け止めていた。
彼は体操術の達人ではないが、元より鍛え抜かれた肉体を持っている。
俺は見た。
二本の指に、血管が浮き上がるのを。
おい、
まさか──
ジグが、木剣を指で挟んだまま、腕を振り上げた。
──木剣を強く握り込んだ、俺ごと。
体操術込みとは言え、どんな指の力してたらこんなことができるんだよ!
だが、このまま放り投げられるわけにもいかない。
俺は空中で重心を操作し、体勢をあえて崩すと、ジグの胸を思い切り蹴り飛ばした。
木剣が、ジグの指の合間からすっぽ抜ける。
そのままバック転を行い、着地する。
ジグの剛拳が眼前に迫っていた。
死。
その一文字が脳裏をよぎる。
当たれば容易に死ぬだろう。
だが、慌てる必要はない。
僅かに顔を逸らし、ジグの拳を最小限の動きでかわす。
剛拳の作り出した気流が、鼻先をくすぐった。
そして、カウンターの要領で、ジグの脇腹に突きをねじ込む。
「──…………」
一撃。
一撃、入れた。
体勢が体勢だけに浅いとは言え、ジグは眉一つ動かさない。
勝利には、まだ遠い。
一合、二合、三合──
木剣と拳とが鍔迫り合う。
四合、五合、六合──
脳が限界だと悲鳴を上げる。
七合、八合、九合──
耐えてくれ。
もうすこしだけ、頑張ってくれ。
痛みが焦りを生む。
十合目で、俺は、ジグから距離を取ろうとしてしまった。
後方へと、不用意なステップ。
跳躍してから後悔する。
これは、隙だ。
両足が浮いた状態では、体勢を整えられない。
ジグの拳が腹部に叩き込まれる。
その一撃が、自らを破壊していくのが理解できてしまう。
神眼は残酷だ。
自らに迫る死から、目を逸らすことを許さないのだから。
俺は、後方に弾き飛ばされ──
──時の流れが元に戻る。
気が付けば、俺は、十メートルは距離があったはずの立木に背中から叩き付けられていた。
「──げボッ……」
詰め込んだ昼食が、口から溢れ出る。
「ひゅー……、ヒゅー……」
動けない。
吐瀉物の合間から必死に呼吸を行い、生を繋ごうと足掻く。
二時間前には川魚だったものが、鮮血に染まっていた。
「ね、ネルさま! ネルさまー!」
子供たちは、ネルを呼びに行ったようだ。
助かる。
意識が朦朧とする中、幻聴のように、ぐわんぐわんとジグの声が響いた。
「加減ができなかった」
「お前の敗因は、不用意に両足を地面から離したことだ」
「だが、後方へ跳躍していなければ、俺の拳は致命的なまでにお前の内臓を破壊していただろう」
「ジグ=インヤトヮの名において、認める」
「──カタナ=ウドウは、奇跡級中位の剣術士である、と」
ああ、そうか。
俺は、ここまで辿り着いていたのか。
僅かな、しかし確かな満足感と共に、俺の意識は薄れていった。
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