2/リィンヤン -7 それぞれの課題
──翌朝。
目を覚ました俺を待っていたのは、全身を隈無く包む痺れにも似た重い痛みだった。
筋肉同士が連動しているためか、指先を動かすだけでも腕が痛む。
「……こ、これ、……動けないぞ……」
ここまで来ると、もはや筋肉痛ではない。
何か呼び方がありそうなものだが、俺は寡聞にして知らなかった。
寝返りも打てずに悶々としていると、あてがわれた客室の扉が無遠慮に開かれた。
「起きているか」
ジグだった。
「まあ、……起きては、いる……」
「立て。朝飯はイノシシ肉だ。とにかく肉を食え」
タンパク質を摂取し、筋肉を作る。
理には適っているだろう。
だが、
「う、……動け、ないんだよ……」
「──…………」
呆れたように溜め息をつくと、ジグが俺の体を片手で抱え上げた。
「んギッ……!」
全身を激痛が貫く。
声にならない悲鳴が漏れる。
「筋肉痛で死んだやつはいない。我慢しろ」
「ヒィ……」
情けない声しか出てこない。
俺は、ジグの小脇に抱えられたまま、屋敷の食堂へと運ばれた。
「──あ、カタナさん! おはようございまし!」
「お、はよ……」
なんとか右手を上げ、ヤーエルヘルに挨拶を返す。
「今朝は、イノシシづくしでしよ。たくさん食べて、精をつけてくださいね」
俺が荷物扱いされていることに関しては、特に疑問はないらしい。
厨房から漂う肉の焼ける匂いが胃袋を直撃する。
一般的な家屋とは異なり、ネルの屋敷にはしっかりとした厨房が設えられている。
石窯があるのは、飲食店、パン屋、そうでなければ城くらいのものだと以前に聞いたことがあった。
ならば、一般市民はどうやって小麦を消費しているのか。
それは国によって異なるが、ラーイウラでは、小麦粉と大豆粉を2:1で混ぜたものを薄く焼いたガヤッテと呼ばれる料理にするのが一般的らしい。
昨夜の食卓にプルとヤーエルヘルが作ってくれたものも並べられていたが、薄手であるにも関わらずもちもちとしていて美味しかった。
「座れ」
ジグが、俺を、食堂の椅子に乱暴に座らせる。
尻を打ったが、筋肉痛でそれどころではなかった。
「──…………」
正面の席では、ヘレジナが、艶めく木製のテーブルに突っ伏したままピクリとも動かない。
「できたよー。ヤーエルヘル、配膳手伝って!」
「わかりました!」
ネルの声に応え、ヤーエルヘルが厨房へと駆けていく。
しばしして、野趣溢れる香りが立ちのぼるイノシシ肉のカットステーキがテーブルに並べられた。
小声でいただきますと呟き、スプーンの先にフォーク状の突起がある逆先割れスプーンとでも表現すべき食器でカットステーキをゆっくりと口に運んでいく。
「──…………」
イノシシの肉を食べたのは、初めてだ。
実家に住んでいた頃は、害獣としてしか認識していなかったため、そもそも食べるという発想に至ることがなかった。
豚肉より癖は強いし、肉質も硬めだが、豆醤のおかげでどこか懐かしい味に仕上がっていた。
「か、……かたな。ヘレジナも。だ、だいじょうぶ……?」
見るからに動きの固い俺たちを見かねてか、プルが心配そうに声を掛けてくれる。
「大丈夫です、プルさま……。これしきのこと、乗り越えられずして、どうしてプルさまの従者を名乗ることができましょう」
「……まあ、筋肉痛で死んだ人はいないらしいしな……」
「む、無理しないで、……ね?」
「わかってるって……」
口先では、そう答える。
だが、無理と無茶の先にしか、ジグの打倒はないのだ。
「他人事みたいな言い方になっちゃうけど、大変だねー……」
ネルが、操術でスープを宙空に浮かせながら、言葉に反して気遣わしげにそう言った。
冷ましているらしい。
「……まあまあ、な」
「ジグったら、容赦ないんだから。もうすこし手心加えてもいいんじゃない?」
「構わない」
ジグが、イノシシ肉を口へ放り込みながら、俺とヘレジナを視線で射抜いた。
「こいつらがそれを望めば、だが」
「──…………」
ヘレジナと目配せをする。
どうやら、答えは同じようだ。
「必要ない。なんとか食らいつく」
「ああ」
俺の言葉に、ヘレジナが頷いた。
「なら、あたしが口を挟むべきじゃないかな。ごめんね、余計なこと言ったかも」
「いや、ありがたい。ネルが私たちを心配して言ってくれたことだ。その気持ちが嬉しいのだ」
「プルじゃないけど、無理はしないでね。体壊したら元も子もないんだから」
「はは……」
下手な作り笑いで誤魔化すことしかできなかった。
「食事を終えたら訓練だ」
「……すぐに、か?」
「嫌なら、後でも構わない。好きにしろ」
ジグは、俺たちが音を上げれば、すぐに手心を加えてくれるだろう。
優しさゆえではない。
楽をしたいのなら、その程度のやつだと、俺たちを値踏みしているのだ。
「いや、すぐに頼む」
「──…………」
ジグが、俺を見る。
すべてを見透かされているような気分になるのは、果たして気のせいだろうか。
「ヘレジナも、それで構わないな」
「望むところだとも」
俺たちは、イノシシ肉のフルコースを胃袋いっぱいに詰め込むと、痛む体を引きずって教会の外へ出た。
「二日に一度、水瓶を背負ってヒドゥンハン山を登ってもらうのは、昨日指示した通りだ。合間の一日は別メニューをこなす」
ヘレジナが尋ねる。
「何をするのだ?」
「お前たちは、それぞれ課題が違う。ヘレジナに必要なのは、〈意識〉だ」
「意識……」
「自分の動作が速すぎて意識が追いつかないのは、奇跡級下位によく見られる傾向だ。特に、体操術で実力の底上げを行っていたお前には顕著だろう」
「ぐ」
図星だった。
「動体視力は、一朝一夕でどうにかなるものじゃない。だったら、適当に連撃を浴びせるのではなく、理で以て刃を振るえ。これができるようになれば、手数で押し切るのではなく、数撃、あるいは一撃で相手を仕留めることも可能だ」
ヘレジナが、得心が行ったとばかりに力強く頷く。
「なるほど、理解した」
「一撃に集中するのだから、手数は減る。その集中を維持したまま手数を元に戻せれば、ひとまずは完成だ。体操術を失っていて都合がよかった。自分の体がどのように動いているのか、今のうちに把握しておけ」
「ああ」
「そこまで到達できれば、確実に奇跡級上位となるだろう。抗魔の首輪を外せれば、だがな」
「具体的にはどうするのだ?」
「オレと手合わせだ。矯正すべき場所があれば、都度指摘する」
ジグが、今度はこちらを向く。
「カタナに必要なのは、動作の無駄を省くことだ。ヘレジナは既に、別の流派の歩法を体得している。目が良く、どんな動きでも自在なお前にとって、動作を限定する〈癖〉とも言い換えられる流派を学ぶのは、必ずしも益にならない。ヘレジナがお前に技術を教えなかったのは、おぼろげながらもそれを理解していたからだろう」
思わずヘレジナを見ると、彼女は深々と頷いてみせた。
ちゃんと考えられていたんだな。
「だが、最低限、無駄のない動きを覚えて損はない」
右斜め前。
左斜め前。
ジグが、左右に振れながら二歩歩いてみせる。
「お前が歩いて前へ進むのに、二動作が必要だとする」
今度は、一歩。
まっすぐに同じ距離を進む。
「これを一動作に圧縮することができれば、二動作で二歩動ける。同じ労力で二倍の速度が出せるわけだ。実際にはここまで単純ではないがな」
だが、考え方はわかった。
今は、一つの動作をこなすのに、気付かぬうちに寄り道をしている状態なのだろう。
最短距離を取れば、動きはそれだけ速くなる。
体操術を使えない俺にとって、最適解であるように思われた。
「では、カタナからだ」
「わかった」
思わず佇まいを正す。
「まず、好きに歩いてみろ。肩肘は張らなくていい」
「──…………」
ぎりぎりと悲鳴を上げる全身を意志の力で以てねじ伏せながら、歩く。
「何が駄目か、わかるか」
「いや……」
「足だけで歩いている。全身の動きがバラバラだ。おまけに長年の癖で、指二本分ほど上体が右に傾いている」
言っていることは理解できる。
だが、具体的にどう改善すればいいかがわからない。
「見ていろ」
ジグが、どことなく前傾姿勢で歩き始める。
さして大股でもないのに、その歩きは妙に速い。
「どうだ」
「たしかに速いな……」
「理由はわかるか?」
「……いや」
一度見ただけだと、さすがにわからない。
「神眼持ちのくせに、洞察力がないと見える」
悪かったな。
ジグが、溜め息をついて言った。
「重心だ。オレは、重心を前に移動させ、倒れる前に足を突き出して、結果的に前へ進んだ。〈横に落ちるように歩く〉というわけだ。同じようにやってみろ」
「わかった」
前傾姿勢。
体を前に倒し、重心を移動させて、倒れるように歩く。
「──…………」
歩きにくい。
だが、歩けないほどではない。
自然と早足になる歩き方だ。
「今、体は痛かったか?」
「……!」
ジグの言葉で、気付く。
「痛くない──わけじゃないけど、普通に歩くより楽だった気がする」
「それが、無駄のない動きだ」
「はー……」
目からうろこが落ちた気分だった。
「では、その歩き方で、村内を一周してこい。まずは歩法からだ。肉体に刻み込め」
「わかった」
ヘレジナに視線を向ける。
「筋肉痛エグいと思うけど、頑張れよ」
ヘレジナが、両手を腰に当てて答える。
「まったく、誰に不遜を言っているのだ。私はヘレジナ=エーデルマンだぞ」
「なら安心だな」
そう告げて、教会を後にする。
まずは歩法から。
強くなる道筋を提示してくれたジグには、感謝してもしきれない。
道を違わなければ、あとは努力するだけでいいのだから。
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