2/リィンヤン -8 奴隷の子

「──リィンヤンに来てから、もう二週間か」

 背中の水瓶が、歩くたびにちゃぷちゃぷと音を立てる。

「慣れれば慣れるもんだな」

 水瓶は、重い。

 重いが、初日ほどつらくはない。

 日々積み重なる成長の証が、前へ進むための原動力となっていた。

「二週間?」

 ヘレジナが頭上にハテナを浮かべる。

「あー……」

 この世界の一週間は、五日である。

 頭ではわかっているのだが、どうにも慣れない。

「三週間だ、三週間。こっちの世界だと一週間が七日だったって言ったろ」

「……ああ、七曜だとかなんだとか。随分と割りにくい数字を採用するものだな。暮らしにくそうなものだが」

 一週間は五日間。

 一ヶ月は六週間。

 一年は十二ヶ月。

 サンストプラの暦は、すっきりと割り切れて気持ちがいい。

「思えば、すこし複雑だったかもな」

 西向く士とか、閏年とか。

「ま、それはいいんだ。ほれ」

 袖をまくり、右腕を曲げてみせる。

「筋肉、ついてきたと思わん? どうよ!」

「……まあ、多少は」

 夕焼けの赤橙に染まったヘレジナが、そっと目を伏せる。

「どうした?」

 様子のおかしいヘレジナの顔を覗き込む。

「か、カタナ! お前はデリカシーに欠けておる!」

「え、なんだよ……」

 デリカシーと言われても、心当たりがない。

 何か不味いことでも口にしただろうか。

 呆れたように溜め息をつき、ヘレジナがぽつりと呟いた。

「……私も、同じメニューをこなしているのだぞ」

「あ」

 そういうことか。

 俺が筋肉質になってきたと言うことは、ヘレジナも同様なのだろう。

「べつに気にすることないだろ。こっちの世界のモデルとか、プロポーションを保つためにしっかり筋肉つけてたし」

「そ、……そうなのか?」

「むしろ、筋肉がないとケツとか垂れるらしいぞ」

「……それは嫌だな」

「嫌だろ」

 そんなヘレジナを見るのは、俺も嫌だ。

 キュッと引き締まったヘレジナの小尻は、目の保養になるしな。

「こっちの世界でたまに聞くことなんだけどな」

「ああ」

「女性は、ムキムキになるのが嫌だって言って筋トレをしないことが多いけど、そもそムキムキになるためにはムキムキになるための地道な努力が必要だから、そんな簡単にムキムキになれると思うな烏滸がましい──っていうムキムキ男たちの主張」

「……私たちは、だいぶ努力していると思うのだが」

「俺たちの目標は強くなることであって、ムキムキになることじゃないだろ。日替わりで鍛える筋肉を変える。見目の良い筋肉に絞ってトレーニングをする。炭水化物や脂肪を減らし、ほとんどの食事をタンパク質偏重にする。これを年単位で行うことが必要だって話。だから、大して気にしなくていいんだよ。そもそもなれねえから」

「ほー……」

 ヘレジナが、感心したように頷く。

「思えば、多少腕が太くなった気がするだけだものな。筋肉むきむきのチビ女になってしまうかと思い、憂鬱だったが……」

「杞憂です。むしろ筋肉はある程度ついてたほうがプロポーションもよくなります。まあ、胸は今更でかくならんと思うけどな」

「──…………」


 ──げしッ!


「あだッ!」

 スネを蹴られた。

「み、水瓶背負ってるときはやめろよ! 死ぬだろ!」

「乙女の心を傷つけた罰である」

「フォローと相殺してくれよ……」

「相殺したから蹴りの一発で済ませてやったのだ。命拾いしたな」

「こわ……」

 ヘレジナと共に、薄く下肥の香る村内を歩いていく。

 鳩舎で伝書鳩に挨拶をし、シリジンワインの醸造所の傍を抜けて、人の行き交う大通りへ差し掛かっても、俺たちに声を掛ける者はいなかった。

 リィンヤンの人々は、俺たちを、存在しないものとして扱っている。

 領主の奴隷であるからには、目上なのか、目下なのか、どう扱っていいのかわからないのだろう。

 だが、それも大人に限った話だ。

 えっちらおっちら歩きに歩き、教会の前まで辿り着くと、大扉が勢いよく開かれた。

「ネルさま、さよーならー!」

「さよならー!」

「はい、さよーなら。気を付けてね」

 教会から出てきたのは、ネルと、十数人の子供たちだ。

 塾のないリィンヤンでは、領主であるネルが、手ずから子供たちに勉学を教えている。

「あ、ヘレジナだ!」

「こら、年上には敬称をつけんか!」

「えー、だって奴隷じゃん」

「カタナ、かたぐるまー」

「待った、待った! よじ登るな! 水瓶でもういっぱいいっぱいなんだって!」

 子供たちへの対応に四苦八苦していると、


 ──ぱん、ぱん!


 ネルが、軽く手を叩いてみせた。

「ほら、うちの奴隷を困らせない。暗くならないうちに帰りなさいな」

「はーい」

「わかりました」

 子供たちが、残念そうに離れていく。

「行こうぜ」

「ネルさま、またあした!」

 嵐のように現れて、嵐のように去っていく。

「──…………」

 子供たちの背を、見送る。

 リィンヤンでは、領主であるネルの意向で、奴隷の人権が保証されている。

 だが、奴隷はあくまで奴隷なのだ。

 騒ぎを遠巻きに眺め、今も最後尾で荷物を持たされている奴隷の少年が、いつも不憫でならなかった。

「あの子が気になるの?」

 ネルが、そう尋ねた。

「……まあ、な。気にならないと言えば嘘になる。俺に何かできるってわけでもないから、もどかしいけどさ」

「……そーね」

 その瞳が哀愁を帯びる。

「あの子は、奴隷と奴隷のあいだに産まれた子。産まれた時から生粋の奴隷。あたしが領主になったのは十年前のことだし、村民の意識を変えるのに七年はかかった。そのあいだに、あの子は心まで奴隷になってしまった」

「心まで奴隷に、か」

「自分は人より劣っている。隷属するのが当然の存在。そう思い込んで育ってしまったの。子供って狡猾だから、それを見抜いて命令してしまう。当然、見掛ければたしなめるんだけど、あの子が自ら荷物持ちを買って出るのは止められなくて……」

 ヘレジナが眉根を寄せる。

「厄介なものだな、奴隷制というのは」

「まったくよ……」

「しかし、ネルはどうして奴隷制に背いているのだ。ネルのような思想の持ち主は、ラーイウラでは珍しい存在だろう」

「いちおー、反奴隷制を掲げる貴族の組織もあるにはあるけどね。あたしの理由は単純だよ」

 ネルが、横髪を耳に掛ける。

「ママが領主。パパはその奴隷。あたしは貴族と奴隷の子なの」

「……すげー納得した」

「わかりやすいでしょ」

「ああ」

「プルとヤーエルヘルには、もう話したんだけど──」

 前置きを入れて、ネルが話し始める。

「パパはね、前の御前試合の優勝者なの」

「へ?」

「では、ネルの母親は……」

「現、国王なのかな。よくわからない。でも、そう思ってる人がたくさんいたから、小娘でも領主が務まったんだと思う。あたしがリィンヤンの領主になったのって、十三歳だよ。必死も必死で、そのことに気が付いたのは、最近になってからのことだけど」

「十三歳……」

 中学一年のころ、俺は何をしていただろう。

 両親の庇護下で、ぬくぬくと、遊ぶことしか考えずに暮らしていたはずだ。

「ラーイウラの国王は、代々顔を晒さない。その御言葉も側近が代弁するから、声だってわからない。貴族すら軽々に会える存在じゃないの。十年前の御前試合の日から、あたしは両親に会えていない」

「……そうか。ネルが優勝を目指すのは、両親と会うためなのだな」

「うん。正直言うと、国王になるつもりはないし、なりたいと思ったこともないから。でも、優勝すれば奴隷から解放されるのは本当だよ。うちにいた奴隷も、全員首輪を外されたもの」

 ふと疑問が湧いた。

「優勝したら、その奴隷はどうなるんだろ」

「わからない。パパがどうなったのかも。でも、自分の意志でママと一緒にいるんじゃないのかな。いつまでも新婚みたいな二人だったから……」

「だからと言って、一人娘を放っておくものか?」

 ヘレジナの言葉に、ネルが目を伏せる。

「……ジグがいたから、だと思う。ジグは、パパの愛弟子なの。出来が悪いってよく叱られてたけど、人格的には信頼してたから」

「十年前とは言え、ジグをその扱いとはな。ネルの父親はよほど強かったと見える」

「奴隷に身を落としても、奇跡級上位。元は特位だったみたい」

「──特位!?」

 思わず声が大きくなった。

 特位ということは、陪神級と同列。

 あのルインラインと肩を並べていてもおかしくない存在だ。

「とんでもない使い手がラーイウラにいたものだ……」

「つーか、よくそんな人を奴隷にできたな」

 ルインラインに首輪を嵌めろと言われたとして、たとえゼルセンと同じ手を使ったとしてもできる気がしない。

「ママのために自分から首輪を着けたって言ってたなー」

「ほう」

 ヘレジナが目を輝かせる。

「聞き応えのあるロマンスの香りがするぞ」

「……ごめん、あたしも詳しくは知らなくて。大人になったら教えてくれるはずだったんだけど、大人になる前に離れ離れになっちゃったから」

「そうか……」

「そのうち聞けるさ。会いに行くんだからな」

「ん」

 ネルが、小さく頷いてみせた。

「──んじゃ、そろそろ水瓶下ろしてこようぜ。さすがに肩が痛くなってきた」

「ああ」

「あざになったところ、後で見せてね。治癒術で治すから」

「サンキュー」

 ネルとジグには、本当に感謝しかない。

 俺は、ヘレジナに目配せをして、水瓶を倉庫へと運び入れた。

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