2/リィンヤン -4 ヒドゥンハン山
リィンヤンは、ヒドゥンハン山のふもとに興された村である。
特産物は主に、小麦、大豆、シリジンだ。
昨夜は、豆醤を加工したスプレッドをパンに塗り、それをシリジンワインで流し込んだ。
ラーイウラではワインを水代わりに飲んでいる──という情報は真実だった。
おかげで昨夜の記憶は薄く、
「つ──」
現在、見事に二日酔いと言うわけだ。
シリジンワインのアルコール度数はそこまで高くはないのだが、それを飲む俺自身がそもそもさほど強くはない。
ラーイウラの住民が水代わりにシリジンワインを飲んでいるのは、井戸が浅いためだと聞かされた。
浅井戸は、井戸周辺の環境を受けやすく、水質が不安定となる。
ラーイウラは雨が多い国であるため、井戸水は容易に濁る。
深く掘ることができれば解決する問題なのだが、ラーイウラにその技術はない。
シリジンワインという飲料水の代替物が既に存在するため、必ずしも深井戸を必要としない環境であることも、技術力が上がらない原因の一つだろう。
「大丈夫か、カタナ……」
「……大、丈夫」
頭が痛いだなどと、弱音を吐いてはいられない。
俺とヘレジナは、縦長の巨大な水瓶を背負いながら、えっちらおっちら山道を登っている最中なのだ。
「──……ふう、ふ、はッ……」
ヘレジナの息が弾んでいる。
見るからに体力の限界を迎えていた。
「……ヘレ、ジナ」
「なん、……だッ!」
「すこし、休憩するぞ……!」
「は、は……、カタナ。情けない、な……」
「いいから……」
俺だってつらい。
だが、ヘレジナのほうがつらいはずだ。
「──…………」
力ない笑みを浮かべ、俺を見上げる。
「ありがとう……」
ヘレジナが、山道の端に水瓶を下ろし、ふらふらと木の幹に背を預ける。
その隣に腰掛け、ほっと一息ついた。
「……しかし、体操術なしの運動が、これほどきついとは思わなんだ。これでは、カタナのことを、体力がないなどと笑えんな……」
「体操術の巧拙が勝敗を分ける、か」
いつかヘレジナが言っていた言葉だ。
言ってしまえば、体操術とはゲームにおける自己バフに等しい。
自らの技量は当然だが、自己バフの効果量も勝敗を左右する要素となる。
自己バフが当然の世界で、技量のみで戦い抜かねばならないとなれば、極めて不利なのも当然だ。
「ヤーエルヘルも言ってたけど、ヘレジナは体操術の達人だったんだな」
「……なに、体操術で弱い自分を押し隠していたのだ。恥ずべきことだと、今は思っている」
「恥じるこたないだろ。全部引っくるめて、ヘレジナの強さだ」
「それは、そうなのだがな……」
ヘレジナが苦笑する。
「良い機会だったのかもしれん。体操術のない状態で基礎体力を積めば、きっと、体操術を使った際にも反映される。以前にも言ったが、奇跡級中位と上位のあいだには、一つ大きな壁がある。体操術を使わず、自らの技量のみと向き合うのは、私にとって必要なことだったのだろう」
ヘレジナが伸び悩んでいた理由は、そこにあったのかもしれない。
「……まあ、ゼルセンに感謝するつもりは毛頭ないがな」
「そりゃそうだ。奴隷になったところで腐った性根が変わるわけじゃないが、人にかけられる迷惑の度合いは確実に下がった。憎まれっ子世にはばかる。それでもたくましく生きてくだろうけどな」
「せいぜい、あの絶望が長続きしてほしいところだ」
俺は、巨大な水瓶を見上げる。
水瓶が太陽を遮り、俺とヘレジナを陽射しから遠ざけていた。
「しかし、まだ水も汲んでいないと言うのに、先が思いやられるな……」
「ああ……」
ヒドゥンハン山の奥地にあるティビコン川の源流から、清水を汲んでくる。
それが、ジグの課した修行の一環だった。
「空の水瓶でこれだろ。帰りとか、俺たちどうなっちゃうんだよ……」
「重さもそうだが、転ばないよう気を付けねばならんな。下り坂をひとたび転げ落ちれば、命に関わる」
「──…………」
想像して、背筋が冷える。
かぶりを振って、話題を変えた。
「ヘレジナ、肩は痛くないか?」
「肩、か。背負い縄が食い込んで擦り傷になっている気もする」
「同じく……」
「すこし見てくれるか?」
「ああ」
ヘレジナが、襟元を大胆にめくり、肩を露出させる。
思いのほか艶めかしい光景だ。
「カタナ?」
いま考えたことを悟られてはならない。
俺は努めて無表情を装った。
「……ああ、だいぶ赤くなってるな。次からは肩に布でも噛ませようぜ」
「そうだな。それがいい」
「まあ、帰るまでの辛抱だ。ネルの治癒術なら、この程度の擦り傷はすぐに治せるだろ」
「しかし、ジグは治癒術は使うなと」
「それは、たぶん、治癒術が筋肉の成長を阻害するからだ。激しい運動をすると筋繊維が切れる。切れた筋繊維は繋がり直すと太くなる。治癒術はこのサイクルの邪魔をしてしまうんだと思う」
「なるほど……」
「だから、普通の怪我は治してもらっとけ。怪我をしたまま修行したって、いいことなんてないんだから」
「そうだな。素直に頼るとしよう」
「それを経験的に知ってるってことは、ジグも似たようなトレーニングをしたのかもな」
「あり得る話だ。あの男は、強い。直接手合わせをしたわけではないが、特に眼力が異常だ。相手の実力、弱点を、即座に見抜く目を持っている」
「同感。ハィネスの神眼──だったっけ。俺自身よくわかってなかったのに、一発で見抜かれた。それよりすごかったのが、歩き方の癖だな」
「ああ、言っておったな。歩きにくい靴を長年履いていなかったか、と」
「正直、記憶を読み取られたのかと思ったくらいだ。俺、どうにも革靴が合わなくてな。新しいのを買えばすぐ靴擦れするし、靴擦れが痛めばそれをかばうようになる。それで、歩き方に癖がついたんだと思う」
なお、いま履いている靴は、ベイアナット滞在時に購入した一点物だ。
靴の履き心地に関しては、こちらの世界のほうが上かもしれない。
「……やはり、とんでもないな。やつは」
「ああ。今のままだと勝てる見込みはないだろうな……」
「それでも、勝つのだ。勝たねばならぬ。自分たちの力で、な」
強くならなければならない。
せめてプルの前では、世界一カッコいい俺でいたかった。
「しかし──」
ヘレジナが半眼で俺を見る。
「神眼に関しては、あらかじめ言っておいてくれても構わなかったのだぞ」
「みんなできると思ってたんだよ……」
「できるかッ!」
ヘレジナの突っ込みに驚いてか、近くの小鳥が羽ばたいた。
「そう言や、この神眼って、[羅針盤]由来かもしれない」
「そうなのか?」
「[羅針盤]で選択肢が表示されたときも、時の流れが遅くなってた。たぶん、選択肢をじっくり吟味するためだな。神眼の感覚とはだいぶ違ったけど、起きている現象自体は同じだろ」
「なるほど、得心は行く」
ヘレジナが、うんうんと頷く。
ふと疑問が湧いた。
「ハィネスの神眼。ルインラインも持ってたのか?」
「さてな。聞いたこともなかった。だが、師匠であれば持っていてもおかしくはない」
ヘレジナが微笑んで言う。
「そう考えると、師匠の後継者に相応しいのは、カタナなのかもしれん」
「俺が?」
まさかの言葉だった。
「あんなもん継げるわけないだろ」
「まあ、そうなのだが」
「ルインラインを継ぐ者なんて、世界中探したっていやしないさ。陪神級だって、奇跡級特位だって、あの人に並び立つことなんかできやしない」
「……それでも、あるいはと思ってしまうよ。お前の背中を見ていたらな」
「買いかぶり過ぎだぞ……」
「ははっ!」
楽しげに笑うヘレジナに聞きそびれていたことを思い出す。
腰に提げた鞘に視線を落とし、尋ねた。
「この剣──神剣アンダライヴって、結局、なんなんだ?」
神剣と聞いてまず思い出されるのは草薙剣だが、ここは
「実際、私にもよくわからん。いつ、どこで手に入れたのか。何故折れたのか。師匠は聞かせてはくれなかった。私が師匠と知り合ったときには、神剣は既に折れていたしな」
「……話したくなかったのかもな」
「恐らくは」
由来はわからなくとも、この神剣には幾度も助けられた。
自在に着火できれば更に使い勝手が良くなるのだが、それは贅沢というものだろう。
「──ィよし!」
気合いを入れて立ち上がる。
「十分休んだし、そろそろ行くべ。水の入った水瓶背負って夜の山道を下るのとか、絶対したくないからな」
「まったくだ」
俺たちは、水瓶を背負い直し、再び山道を登り始めた。
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