2/リィンヤン -3 ハィネスの神眼

 教会に入ってまず驚かされたのは、その赤さだった。

 壁も、絨毯も、色ガラスも、目に痛いほどの赤で統一されている。

「……銀輪教の教会って、どこも赤いのか?」

「え、ち、違うよ? わ、わたしも、こんなの初めて見た……」

 女性が答える。

「ここも銀輪教の教会であることには違いはないけど、ラーイウラでは、特にサザスラーヤを信仰していることが多いんだ」

「あ、そっか。赤はサザスラーヤの色でしもんね」

「そういうこと」

 そういうことらしい。

「サザスラーヤってのは確か、エル=タナエルの陪神だよな」

 俺の言葉にヘレジナが頷く。

「ああ。エル=タナエルの創りたまいし四柱の陪神の一柱。サザスラーヤは、その中でも、〈命〉を司るとされている」

「なるほど。祈ると長寿の御利益が」

「サザスラーヤに祈りが届くのならば、あるいはな」

 含みのある言い方だ。

 銀輪教の教徒は皆、神の実在を信じている。

 だから、ヘレジナの言葉に違和感があった。

「届かない理由でもあるのか?」

「……サザスラーヤは、神人大戦の折に命を落とした。私はそう習ったのでな」

 女性が、たしなめるように口を開く。

「たしかに身罷られたという説もあるわ。でも、〈命〉を司る陪神が命を落とすのも、考えてみればおかしな話でしょ。この話、なるべく外でしないようにね。場合によっては不愉快な目に遭うと思うから」

「す、すまん。軽率であった……」

 ヘレジナが謝ると、女性はからからと笑ってみせた。

「いーのいーの。怒ったわけじゃなくて、ただの助言だから。教会を運営しておいてなんだけど、あたし自身、さほど信心深いわけでもないし。そんなことより──」

 静かに佇まいを直し、口を開く。

「あたしは、ネル=エル=ラライエ。ラーイウラ王国の第一◯七四王位継承者」

「せ!」

 ヤーエルヘルが、可愛らしく驚きの声を上げる。

「ラーイウラの王位はどうなっているのだ……」

 ヘレジナの言葉も、もっともだ。

 最低でも千人とは、貴族があまりに多すぎる。

「仕組みは単純。ラーイウラの貴族はすべて、ラライエ一世の血を継いでいるの。二百年を生きたとされるラライエの祖──その血族であるからには、ただの人ではないとかなんとか。王位継承権は貴族全員に与えられる。そりゃ、こんな数にもなるわよね」

「なるほどね……」

 頷き、思案する。

〈エル〉。

 この単語は、大まかに〈神性〉を意味する。

 エル=タナエルは神そのものだ。

 エル=タナエルの陪神であるエルは、神に準ずるものである。

 ネルやプルのミドルネームには、恐らく、神に近しい者というニュアンスが含まれているのだろう。

「俺は、カタナ=ウドウ。ゼルセン──あの旅人狩りの野郎に襲われて、このざまだ」

 そう言って、自分の首輪を指差す。

「わ、わたしは、プル、……でっす。よ、よろしく、……ネル、さん」

「呼び捨てでいいよ。変に畏まられるの、嫌いだから」

「う、うん。わ、わかった……」

 ヘレジナが一歩前へ出る。

「私は、ヘレジナ=エーデルマン。このワンダラスト・テイルのリーダーだ。ワンダラスト・テイルとは、遺物三都でのパーティ名だな」

 ワンダラスト・テイル。

 相変わらずのお気に入りらしい。

 ネルが目を見張る。

「もしかして、さっき奴隷商人に渡してた金貨って──」

「ロウ・カーナンの遺跡で発掘した金貨の一部だ。既に九割方使ってしまったのだがな」

「ええ……」

 ネルが、呆れたように吐息を漏らした。

「何買ったらそーなるの……」

「情報だよ。場合によっちゃ、純金よりも価値がある」

「そういうもんなんだ」

 頷きながら、ヤーエルヘルへと向き直る。

「君は?」

「ヤーエルヘル=ヤガタニと申しまし。よろしくお願いしまし!」

「はい、お願いされました」

 ネルが、ヤーエルヘルの頭を帽子越しに撫でる。

「最後に、この、でかくて無愛想なのがジグ=インヤトヮ。対外的には、あたしに仕える奴隷ってことになってる」

「──…………」

 壁に背を預けていたジグの視線が、一瞬だけ俺たちを射抜く。

 だが、それだけだった。

 話すことはないとばかりに黙りこくったままだ。

「ごめんねー、シャイで内気なやつだから」

 シャイと内気という言葉がこれほどまでに似合わない相手もそういないと思う。

「……ジグは、なんで奴隷のふりをしてるんだ? その首輪、偽物だろ」

「──…………」

 ジグは答えない。

「こらー、ジグ! 無視しないの!」

 形式的なものとは言え主人の命には弱いのか、ジグが口を開く。

「……オレは元より、ネルの両親に仕えていた。奴隷となったのは、御前試合で優勝するためだ」

「てことは、ネルは国王を目指してるのか」

 俺の言葉に、ネルが頷く。

「ま、そういうことになるかもね」

「でも、偽物の首輪なんかでいいのかよ。すぐバレそうなもんだけど」

「まともに奴隷を出場させる貴族など、ほとんどいない。事実、十年前の御前試合では、多くの参加者が自らを奴隷であると偽っていた。しかし、処断されたのはごく少数だ」

 ジグが、自分の首輪に触れる。

「こいつは精巧でな。よほど念入りに調べなければ、偽物であるとは見抜けない」

「──…………」

 ヘレジナやジグ、アイヴィルといった、奇跡級中位以上の武術士を相手取れば、俺に勝ち目はない。

 無意識に拳を握り締める。

 俺は、無力なんだろうか。

「あたしはジグが優勝すると思ってる。形式的にでもあたしの奴隷になっておけば、恩赦がもらえるわ。ここで会ったのも何かの縁だし、一ヶ月ほど逗留していったら?」

「……そりゃ、ありがたいけどな」

「か、かたな……?」

 俺の様子に気付いたのか、プルが心配そうに顔を覗き込んだ。

「なんでもない」

 ジグの強さは理解した。

 俺なんかが出場するより、ずっと確実だ。

「──…………」

 ヘレジナが、俺の正面に立つ。


 ──パン!


「ぶほッ!」

 両頬に、衝撃。

 ヘレジナの両手が、俺の頬を挟み込んでいた。

「何をぐだぐだ考えている。自らの運命をろくに知らぬ他人に預けるなど、私はごめんだ。お前がやらないのであれば、私がやる。一ヶ月でジグを超え、代わりに御前試合に出てみせる」

「いや、無──」

 無理だろ、と口にしようとして、言葉を止めた。

 ヘレジナの瞳が真剣だったからだ。

「やってみなければ、わかるまい?」

 見込みは薄い。

 だが、体操術を失ったヘレジナより、俺のほうがまだ目はある。

 ヘレジナは、そのすべてを承知した上で、自分がやると言ったのだ。

「──…………」

 俺は、視線をプルへと向けた。

 プルは、微笑んで俺を見ていた。

 俺のことを微塵も疑っていなかった。

「……そうだな」

 このままなら、俺は、カッコ悪い俺のままだよな。

「サンキュー、ヘレジナ。気合い入った」

「ふふん。一つ貸しにしておいてやろう」

 ジグへと向き直り、深々と頭を下げる。

「ジグ、頼む。俺を、あんたより強くしてくれ」

「──ハッ」

 ジグが、初めて笑う。

 その声には、幾許かの侮蔑も混じっている。

 だが、俺には、こう言っているように感じられた。

 面白い、やってみろ。

「見ればわかる。お前は非力だ」

「……そうだな」

 あのとき、俺を押さえつける旅人狩りの男に抵抗できていれば、結果は違っていたはずだ。

「まず、筋肉をぶっ壊す。ぶっ壊した筋肉は、繋ぎ直せば太くなる。クソほど痛いが治癒術は使うな。あれは筋肉の成長を阻害する」

 いざ話し始めれば、ジグは饒舌だ。

「それと、見るからに無駄な動きが多い。歩き方に妙な癖があるな。歩きにくい靴を長く履いていなかったか?」

「……は?」

 たしかに、長年革靴を履き続けてきた。

 見ただけでそこまでわかるものか?

「体操術が使えず、動きがすっとろいのであれば、せめて動作を最適化しろ。以上の二つを完璧にこなせば、奇跡級中位にはなれる。もっとも、オレに勝てるかは別問題だがな」

「ああ、わかった」

「それと──」

 ジグが、教会の備品がまとめられている場所へと向かい、紙に何事かを記す。

「カタナと、それからヘレジナと言ったな。今から一瞬だけ紙を見せる。なんと書いてあったか、読み上げてみせろ」

「……?」

 意図がわからなかった。

「それは構わんが……」

 ヘレジナが頷いた次の瞬間、ジグが紙の両端を持ち、


 ──バッ!


 恐らくは体操術を用いた神速でもって、瞬く間にその紙を開いて閉じた。

「読めるかッ!」

 ヘレジナの声が教会に響く。

「カタナはどうだ」

 ジグの言葉に、首を横に振る。

「……そうか」

 心なしか残念そうに、ジグが紙を丸めていく。

「いや、もっかい頼む」

「ああ」

 ジグが紙を構える。

 次は、本気で視る。

 過集中によって周辺視野が黒く滲み、紙しか見えなくなっていく。


 やがて、

 視界が晴れ上がり、

 時が流れを緩め始める。


 ジグの一挙手一投足が手に取るようにわかる。

 紙がゆっくりと開かれ、共用語で書かれた五つの文字が露わとなった。

 知らない言語ではあるものの、文字自体は複雑ではない。

 なんとか覚えたころ、ゆっくりと紙が閉じていった。


 ──時の流れが元に戻る。


「どうだ」

「なんか書くもの貸してくれ。俺、読み書きができないんだよ」

「ああ」

 ジグから受け取った紙に、木炭鉛筆で、五つの記号を書き記していく。

 ヤーエルヘルが、俺の手元を覗き込んだ。

「〈太陽〉、でしか?」

「これで太陽って意味なのか」

「──…………」

 ジグが、自らの紙を開く。

 ほぼ同じ文字列が、そこにあった。

 ヘレジナが目を見張る。

「……カタナ。今のが見えたのか」

「まあ……」

 奇跡級の剣術士、武術士は、俺と同じ世界を見ているのだと思っていた。

 だが、どうやら違ったらしい。

「オレの一撃を見極め、回避した。あのタイミングで回避に転じるなど、凡百の奇跡級にできる所業じゃない。だから、あるいはと思っていた。お前の持つ眼力を、オレの流派ではこう呼ぶ」

 ジグが、自分の目を指差す。

「〈ハィネスの神眼〉」

「ハィネスの、神眼……」

 思わず目元に手をやる。

「それは、何?」

 ネルの疑問に、ジグが答えた。

「見切りと呼ばれる技術の、一つの到達点だ。過度の集中によって、止まった時の中で自在に思考できると聞く。鍛錬によって会得しにくい、一種の才能だな」

「さすがに時が止まりはしないな。意識すれば時の流れがゆっくりに感じられるってだけだ」

「十分だろう……」

 ヘレジナが、得心が行ったように頷く。

「ハィネスの神眼──聞いたことがある。そのときは御伽話としか思わなかったが、まさかカタナが神眼持ちとはな。道理で目が良いはずだ」

「むしろ、共に旅をして気付かなかったお前の眼力に問題があると思うがな」

「なんだと!」

「身のこなしでわかる。どうせ、体操術頼みの身体能力で、わけもわからず力押しの戦術しか取れないに決まっている」

「ぐぬぬぬぬ……」

 ヘレジナが唸る。

 反論できないのは、その言葉が、正鵠を射たものだからだろう。

 かつて、ルインラインはヘレジナに言った。

 自分の動きに意識が追いついていない──と。

「抗魔の首輪がなければお前など!」

「勝負にはなるだろう。だが、十戦すれば七戦はオレが取るだろうな」

「いいところを突きおってからに……!」

「こら、やめなさーい!」

 ネルが、二人に割って入る。

「ジグ、強い人が来たからってはしゃぎ過ぎ!」

「──…………」

 ジグが、ぷいと顔を背ける。

「ごめんねー。ジグったら戦闘狂で……」

「いや、そのくらいでいいんだ。鼻っ柱をぶち折ってくれる人が、俺には必要だったんだよ」

「可能な限り鍛えてやる。御前試合の前日に、オレと戦え。勝てば出場権を譲る」

「ああ、わかった」

 ヤーエルヘルが、感心したように言った。

「ジグさん、戦うの、ほんとに好きなんでしね……」

「け、怪我だけは、しないでね。わ、わたし、治せない……」

 プルの言葉に、ネルが胸を張る。

「だいじょーぶ。あたし、これでも師範級の治癒術士だから」

「ふふん。プルさまは、首輪さえなければ奇跡級の治癒術士である」

「おお、すごい!」

「褒め称えるがよいぞ」

「……ふへ、へ」

 プルが、てれりと目を伏せる。

「首輪が外れたらコツを教えてね」

「う、うん。……わ、わかった!」

 本当に気さくな人だ。

 ラーイウラの国民性に絶望しかけていたところだから、ある種の感動すら覚える。

「じゃ、部屋へ案内するね。無駄に広い屋敷だから、好きなように使っていーよ」

「ありがとうございまし!」

 俺は、きびすを返し、教会の出入口へと足を向けた。

「……? カタナ、どこへ行くのだ」

「ああ。騎竜車から荷物を取ってこようと思ってな」

「私も行こう」

「いや──」

 今のヘレジナは非力だ。

 そう言おうとして、慌てて口をつぐむ。

 ヘレジナは、それをわかっていて、手伝うと言ってくれているのだから。

「……なら、いちばんでかいヘレジナの荷物は俺が背負うよ。他の細かいのは頼むわ」

「了解した」

 教会を出て、騎竜車へ乗り込む。

 太陽は沈みかけており、騎竜車の車内は薄暗かった。

「──ッく、らあッ!」

 気合いで荷物を担ぎ上げる。

「ふふふ、重かろう」

 ヘレジナが普段から背負っていた巨大な荷物は異様に重く、この小さな体躯に頼りきりだった己を恥じる。

 だが、皆の人生は、この荷物より遥かに重い。

「ヘレジナ」

「なんだ?」

「──強くなろうな」

 ヘレジナが、不敵に微笑んだ。

「当然だ。私はここで、奇跡級上位の壁を越える」

 一ヶ月。

 長いようで短い期間だ。

 ジグに師事し、可能な限り強くなってやる。

 俺は、元の世界より遙かに巨大な月を見上げ、そう誓うのだった。

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