2/リィンヤン -2 拳闘術士
標高千メートル級の山岳地帯を大きく迂回し、リィンヤンへと辿り着いたのは、翌日の夕刻のことだった。
騎竜車から覗く薄暮の村は、思っていたよりずっと穏やかだ。
抗魔の首輪を着けた奴隷たちが、主人らしき人々と談笑している。
夕刻だからか、どこまでも広がる田畑に人影はない。
昼夜問わず馬車馬の如く働かされている様子はなさそうだった。
「……な、なんか、平和……?」
「雰囲気違うよな」
「田舎だと、事情が変わるのでしかね……」
「な、なら、嬉しい、……な」
「……こんなの、当たり前の風景のはずなのにな」
期待すれば、裏切られるかもしれない。
だが、それでも、奴隷が主人と楽しげに談笑している姿は、俺たちに希望を抱かせるに十分だった。
やがて騎竜車が止まる。
御者台への扉が開き、ヘレジナが顔を覗かせた。
「教会へ着いた。土が柔らかいから、停留用の杭を打ってしまおう。手伝ってくれ」
「了解」
人に慣れた騎竜は大人しく、勝手に動き回ることはまずない。
だが、生き物である以上、絶対はない。
そのため、騎竜に〈ここから動いては駄目だ〉と明示するのが杭だった。
もっとも、舗装道路に打ち込むわけにはいかないため、場所によっては素直に預かり所を利用する必要があるのだが。
巨大な木槌を騎竜車から持ち出し、騎竜の周囲に数本の杭を打つ。
腕が痺れる感覚は、嫌いじゃない。
しばらくすると、いの一番に教会へ入っていったゼルセンが、厳つい男性を引き連れて戻ってきた。
ゼルセンのがたいも相当だが、その男性の肉体は、筋骨隆々でありながらも鋭く引き締まっており、どこか実戦を意識させられるものだった。
その首には、抗魔の首輪が嵌められている。
奴隷だ。
「ネル様は奴隷を求めない。別の貴族を頼れ」
「何度も言うが、そんなこと奴隷に言われたくないんですよね。せめて、そのネル様に引き合わせていただかないと」
「ネル様は留守にしている。答えは同じ、無駄足だ。次へ行け」
「だーかーらー……!」
ゼルセンが、困ったように後頭部を掻く。
一日半もかけて、ようやく辿り着いた村なのだ。
無駄足は避けたい。
仕方ないな。
奴隷の男性の前に立ち、尋ねる。
「──御前試合に出るのは、あんたか?」
「その通りだ」
「なら、俺があんたより強いって証明すればいいわけだ」
「──…………」
男性は、すこし呆れたような表情を浮かべたあと、
「できるものなら」
と、吐き捨てるように言った。
「手合わせ願う」
「いいだろう」
男性が、大きな拳を握り締める。
左手と左足を大きく前に出し、右半身は後方へ。
見たことのない構えだ。
「──拳闘術士か」
ヘレジナの言葉が耳朶を打つ。
剣術ではなく、格闘術を修めている術士のことだろう。
「抜きたければ、剣を抜け。オレは構わない」
「──…………」
構えだけで相手の実力が推し量れるほど、俺の目は肥えてはいない。
だが、只者ではない感じがする。
左手で鞘を持ち、右手で神剣の柄を握る。
「好きなタイミングで来い」
「──…………」
過集中による視野狭窄を経て、視界が晴れ上がる。
時が流れを押しとどめる。
柄を握る手は柔らかく、脱力はやがて全身へと及んだ。
弛緩の果て。
倒れ込む一瞬前。
「シッ!」
居合いの要領で神剣を抜き放ち、地を這うような一閃を男性に見舞う。
男性は、避けなかった。
避ける素振りすら見せなかった。
折れた神剣の刃が届く寸前に、男性の拳が頭上から振り下ろされる。
その瞬間、脳裏をよぎったのは。
──死。
この一文字だった。
「ぐ……ッ」
勢いを殺しきれぬまま、慌てて斜め前に転がる。
無様に、土まみれになって。
ただの一撃とて、食らうことは許されない。
もし俺に[羅針盤]が残っていたとしたら、確実に黒の選択肢が表示されていただろう。
そして、俺は見た。
男性の拳が地面の寸前で止まり、その拳圧のみで砂煙が舞うのを。
まさに凶器だ。
だが、同時に、俺は不可解な事実に気が付いていた。
「──…………」
立ち上がり、構えを解く。
「……あんた、奴隷じゃないな。体操術を使ってる」
「ほう」
男性が、満足げに口の端を上げる。
「拳の速度が異常だ。拳圧で風を起こすなんて芸当、ただの人間にできるわけがねえ」
「だったらどうする。相手が強いから負けを認めるのか? 尻尾を巻いて逃げるのか?」
ハイゼルみたいなことを言う。
「……御前試合には奴隷しか出られない。あんたが出たらルール違反だろ」
男性が、不敵に笑う。
「だからどうした。ここでオレを負かさねば、御前試合には出られない。他の貴族の元で出場が叶ったとしても、オレに負けて終わりだ。いずれにせよ、お前はオレを超えなければならない」
再び構え直し、男性が言った。
「来い」
「──…………」
折れた神剣を正眼に構える。
男性の言う通りだった。
ルール違反だろうがなんだろうが、勝てなければすべて終わりだ。
皆の首輪も外せないまま、ラーイウラに足止めだ。
気を付けてはいたつもりだが、結局、俺は思い上がっていたのだろう。
体操術なしで奇跡級。
褒められて調子に乗っていたのだ。
上には上がいると言うのに。
「……行くぞ」
「ああ」
俺が、男性へ向けて、一歩踏み出したときのことだった。
「──やめなさーい!」
教会の扉が開き、緑色のリボンが印象的な一人の女性が現れる。
童顔ではあるものの、大人であることはすぐに見て取れた。
「ジグ、やめなさい! まったく、強そうな相手を見つけたら、すぐに吹っ掛けるんだから……」
「──…………」
男性──ジグが、拳を解く。
「残念だ」
「残念だ、じゃなーい!」
ふたりのやり取りを戸惑いながら眺めていると、ゼルセンが口を開いた。
「なんだ、やはり在宅だったのですね。ほら、奴隷ども。頭を垂れなさい」
俺は、その場に膝をつき、地面に顔を伏せ、両手のひらを上へと向けた。
慣れたものだ。
「あ、そういうのいーから」
プルが、戸惑いながら身を起こす。
「え、……えー、と。その。いいん、……ですか?」
「奴隷とかね、イヤなの。奴隷商人なんかと顔も合わせたくもないからジグに応対させたんだけど、失敗だったかも。最初からあたしが出ればよかった」
「──…………」
ジグがそっぽを向く。
「さて、ここからは商売の話です。体操術を封じてなお奇跡級の実力を保つ男と、見目麗しい少女たち。四人で千八百、いかがです?」
「買わない」
「では、千七百!」
「買わないって言ってるでしょ」
「そうですか……」
ゼルセンが、露骨に肩を落とす。
実際、俺も同じ気持ちだった。
「言ったでしょ、奴隷とかイヤなの。だから、あなたたちに直接尋ねるわね」
ネルが、俺たちのほうへと向き直る。
「あなたたち、あたしのところに来たい?」
「え、と……」
プルが、ヤーエルヘルを横目で見る。
「や、ヤーエルヘルは、……どう思う?」
「……奴隷を人間扱いしてくれる貴族のひと、初めてでし。だから、もし許されるなら……」
「私も同意見です。子供が老人を杖で打つ国で、周囲に流されず、自らの価値観を確立している。こういった方は、極めてまれだ」
ヘレジナの言葉に、プルが頷く。
「……う、うん。わたしも。短いあいだでも、仕えるなら、や、優しいひとがいい、……な」
プルが俺を見る。
答えるまでもない。
俺は、当然とばかりに、深々と頷いてみせた。
「え、いや、そのー……。お金が入らないと困るのですが」
ゼルセンの言葉に、女性が反駁する。
「それはあなたの事情でしょ。人間同士のやり取りで、無関係な第三者にお金が入るのはおかしいのよ」
「はあ……」
肩を落とすゼルセンの姿に、苦笑する。
簡単な話だ。
俺は、騎竜車へ駆け戻ると、革袋を手にした。
「ゼルセン。お前は、金が入ればいいんだろ」
そう言って、エルロンド金貨を十枚取り出す。
「おおお……!」
俺は、ゼルセンの目の前で聞こえよがしに金貨を擦り合わせると、言った。
「頼みを聞いてくれたら、もう一枚やる。どうする?」
「な、な、なんですか! 大抵のことならば喜んでさせていただきますとも!」
「抗魔の首輪を一つくれ。本当に外せないのか、現物を調べたい」
「ええ、ええ。あるだけ持って行っていただいて構いませんよ。エルロンド金貨と比べれば高価な代物でもありませんから」
「一つでいい」
ゼルセンが、自分の馬車から、一本の首輪を持ってくる。
「では、こちらになります」
恭しく差し出された首輪と金貨十一枚とを交換する。
首輪にはセーフティが噛ませてあり、これを外して装着すると二度と外れなくなる機構になっているらしい。
ゼルセンが満面の笑みを浮かべる。
「ご利用ありがとうございました。二度と会わないことを願って!」
「ああ、元気でな」
「では!」
ゼルセンがこちらに背を向けた直後、その膝裏を思いきり蹴り抜く。
「あがッ!」
ゼルセンが膝から崩れ落ちる。
その隙を突き、抗魔の首輪を素早く嵌めた。
「──……あ」
ゼルセンの表情が、ぐにゃりと歪む。
最初からこうするつもりだった。
「家畜になった気分はどうだ?」
「あ、……ああ……ッ、あああああああ──……ッ!」
絶望に金切り声を上げるゼルセンを尻目に、きびすを返す。
「せめてもの情けだ、金貨はやるよ。あとは好きにしろ。お前の人生だ」
「……殺してやる。殺して……ッ」
──殺す?
それは、軽々しく口にしていい言葉じゃない。
俺は、肩越しにゼルセンを振り返った。
「ヒッ!」
よほどの形相をしていたのだろう。
俺の顔を見た途端、ゼルセンが小さく悲鳴を上げた。
「行け。二度と顔を見せるな」
「う、……ぐ……」
ゼルセンが、ふらふらと馬車に乗り込む。
遠くなっていく馬車の背中を見送りながら、女性が言った。
「……あーらら。でも、自業自得だもの。あんまり可哀想とも思えないな」
「ただ放逐しても、同じことを繰り返すだけだ。これ以上被害者を増やしたく、──ありませんでしたから」
女性が、教会の大扉を押し開けながら苦笑する。
「敬語とかいらないよ。外では使ってもらうけど、今はあたしたち以外に誰もいないし」
「……わかった」
女性の言葉を噛み締めながら、頷く。
「じゃあ、入って。自己紹介とか必要でしょ」
「ああ!」
嬉しそうに頷いたヘレジナが、真っ先に教会へと入っていく。
「ほら、さっさとしないと置いて行くぞ!」
はしゃいでるな。
こんなヘレジナを見るのは久し振りかもしれない。
でも、当然だろう。
俺たちは、ラーイウラでの旅路において、初めて人間扱いされたのだから。
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