2/ロウ・カーナン -終 純輝石

 ──うつら、うつら、と。

 浅い眠りを何度も繰り返していたとき、

「……うう……」

 隣で横になっていたヘレジナが、なにやらもじもじしていることに気が付いた。

「……どうしたの?」

「あ、いや、なんでも……」

「──…………」

 じ。

 無言でヘレジナの目を見つめ続ける。

「う」

 もじもじ。

「……その」

「?」

「カナトは、平気なのか……?」

 言いたいことがよくわからなかった。

 ヘレジナが、やけくそ気味に言う。

「──ああもう! 厠だ!」

「あー……」

 これだけ長く閉じ込められていれば、そりゃ催すよな。

「俺は、迷宮内でするのが嫌だったから、前の日から水分を少なめにしてたんだよ。したいっちゃしたいけど、まだ我慢はできる。持ってきた水も、舐めるようにしか飲んでないし」

「私も、水分は摂らないようにしていたのだが、ここに落ちてきてからがぶがぶと……」

「──…………」

「──……」

 気まずい。

「……その」

 ヘレジナが身を起こす。

「なるべく離れたところでするから、目を閉じていてくれないか……」

「あ、うん……」

 横になったまま、固く目を閉じる。

 足音と共に、ヘレジナの気配が離れていく。

 衣擦れの音。

 そして、

「──耳も塞いでて!」

「はい!」

 慌てて両耳を塞ぐ。

 だが、どうしたって漏れ聞こえてしまう。

 俺は、必死にメルセンヌ数を計算しながら、その時間をやり過ごした。

「──…………」

 ヘレジナが隣に戻ってくる。

「……聞いてはいるまいな」

「聞いてません……」

「聞こえているではないか!」

 しまった。

「……小水の音まで聞かれてしまっては、もう、誰にも嫁げん……」

「──…………」

「──……」

 しばしの沈黙ののち、ヘレジナが、俺の目を見ながら口を開いた。

「……カナト」

 ヘレジナの頬が、かすかに赤らんでいる。

 目を逸らすことができない。

「もし、このまま、誰も助けに来なかったら。このまま共に死ぬことになったら。私と──」

 ヘレジナが、そう言い掛けたときだった。


 ──ことん


 天井から、小石が落ちた。

「……?」

 俺と同様に、ヘレジナが、天井を見上げる。

 それは、一瞬の出来事だった。


 天井が、掻き消えた。


 この世に存在した痕跡すら残さず、唐突に消え去ったのだ。


 狭い空間に、風が唸る。

「……は?」

「へ?」

 開いた穴から、可愛らしい獣耳が覗いた。

「──ヘレジナさん! カナトさんッ! いました、いました……!」

 ヤーエルヘルの歓喜の声が響く。

 そして、

 ほぼ同時に、

 躊躇なく飛び下りてきた人影があった。

「カナト、ヘレジナ! カナト……ッ!」

 ユラだった。

 ユラが、俺の体を思い切り抱き締める。

「ヅあッ!」

「大丈夫? どこか怪我してるの!? すぐ治すから!」

「右足が折れてるらしくて……」

「わかった!」

 ユラが、俺の右足に治癒術をかけ始める。

「──…………」

 ヘレジナが、くすりと笑みをこぼす。

「……カナト。先程の言葉は、聞かなかったことにしてくれ」

「無理」

「バカナトめ……」

 そう呟いたヘレジナは、眉尻を下げながら、困ったように微笑んでいた。

「ありがとう、ユラ。でも、どうしてここがわかったんだ?」

「ごめん、治癒に集中したい。ヤーエルヘルに聞いて」

「だってさ、ヤーエルヘル」

「はい!」

 天井から顔を覗かせたヤーエルヘルが、丸いものを掴んだ右手を見えるように差し出した。

 それは、方位針コンパスだった。

「ユラさんの鞄、ありましよね」

「飴玉が入ってたやつか」

「木を隠すなら森の中。飴玉の中に、ひとつだけ、ユラさんのお婆さんの形見が紛れていたのでし。純度の高い半輝石セル──いわゆる純輝石アンセル純輝石アンセルは非常に強い魔力体となりましから、あちしの魔力マナで活性化させて、ふたりが落ちた穴に投げ込みました。あとは、小城の半輝石セルから魔力マナを抜かせてもらって、方位針コンパス純輝石アンセルを指し示すようにしたのでし。あちしたちの他に誰も迷宮に入ってなくて、ほんとに助かりました……」

 なるほど。

 だからユラは、鞄を投げ入れてくれたのか。

「……ありがとう。でも、ここまで危なかったんじゃないか」

「それは──」

 ヤーエルヘルが何かを言い掛けたとき、誰かが彼女の頭上を跳び越えた。

「──よッ、と」

 すぐ傍に着地した男の顔を、俺は知っていた。

「ハイゼル!」

「よう、奇跡級サマ。ざまあねぇな」

「まさか、あんたが助けに来てくれるなんてな……」

「あ? 俺が? お前を助けに? なぁに甘え腐ったこと言ってんだ。俺は宝をいただきに来たんだよ」

 そう言って、ハイゼルが振り返る。

「おお、こいつはすげぇ! お前らも下りて来い! 運び出すぞ!」

 ハイゼルの声と共に、銀の刃の面々が、ある者は飛び下り、ある者はロープを辿りながら、次々と下りてきた。

 そのうちのひとりが、俺に話し掛けてくる。

「や、奇跡級さん。あんときはありがとね」

「ヴィルデ、だっけ」

「そうそう、よく覚えてたね」

 ヴィルデの背後で次々と宝が運び出されていく。

「おら、宝は俺たちのもんだ! 運べ運べ! ……って、なんでここ濡れてんだ?」

「ふぎゃー!」

 奇声を上げるヘレジナを横目に、呟く。

「……俺たちのもん、か。命を救ってもらったんだから、まあ、仕方ないかな」

「安心してよ、奇跡級さん。取り分はもう決まってんだ」

「……?」

「あんたらは百三十万シーグル。あたしらは余剰分。もちろん、税金を抜いたあとの話ね。ハイゼルがそう決めたんだ」

「ハイゼルが……」

「見たとこ、中身は全部エルロンド金貨だ。少なく見積もっても五百万シーグルはある。最小限の労力で、あたしらは大金持ちってことさ」

「──…………」

 大きく息を吸い、吐く。

「ハイゼル」

「あン?」

「礼は言わないからな」

「ンな金にもならねぇもん、いるか。さっさと治れや。お前も運ぶんだよ」

「ああ」

 治癒術に集中しているユラの頭を、ぽんぽんと撫でる。

 ユラが、こちらに視線を向けた。

「ごめん、邪魔だった?」

「ううん。もっと撫でてくれたら、早く治るかも」

「じゃあ──」

 ユラの頭を、優しく撫でる。

 ユラの髪は、まだ粘液で汚れたままだ。

 身を清める時間すら惜しんでくれたのだろう。

 それが、愛おしかった。

「ヘレジナ」

「……なんだ?」

「すこし脳天気かもしれないけどさ。腰を落ち着けて話す機会なんて今までなかったから、けっこう楽しかったよ。一緒にいてくれて、ありがとう。心強かった」

「むー……」

 ユラが頬を膨らませる。

「わざわざユラさまの前で言わずとも」

「ユラのいないとこでこっそり話すほうが変じゃない?」

「それは……」

「まあ、そうかもしれんが」

 ヘレジナとユラが、困ったように顔を見合わせる。

「ともあれ、これで"銀琴"を取り返せる。ルルダンが渋らなければ、だけど」

「書面での契約を取り交わしておくべきだったな。あのときは、そこまで頭が回らなかった」

「なんとか説得するしかない。なあに、いちばん難しいところはもう終わったんだ。あとは口先でどうにかするさ」

 俺たちは、"銀琴"を取り返す算段を考えながら、財宝を運び出していく。

 解決への希望と満足感を、胸に抱いて。


 だが、そのときの俺たちは、まだ知らなかった。


 ──ルルダン二等騎士が、何者かによって殺害されていたことを。



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