2/ハノンソル -7 ハノンソル・カジノの長い夜(下)
「こちらの部屋で、しばらくお待ち下さい」
そう告げて、ディーラーが退室していく。
ハノンソルの地下に広がる広大なカジノフロアに、さらなる下層があることを、どれほどの人間が認知しているのだろうか。
俺たちが案内された部屋は、どこかリゾートホテルを彷彿とさせる一室だった。
だが、部屋の中央に鎮座する扇形のカジノテーブルが、ここがくつろぐための場所ではないのだと声高に主張している。
カゴに盛り合わせてあったフルーツを勝手に貪り食いながら、ナクルが口を開いた。
「まず、最低限の利益を確定するぞ。もし負けたとしても、それ以上は絶対に手を出さないって金額を決めておくんだ。オレは、学費の三千があればいい。兄ちゃんたちは?」
「俺は、二千かな。腕時計を取り返せればいいから」
「わたしはべつに……」
「なら、五千と端数は別に取り分けておく。それでいいな。チップは、ユラのねーちゃんが持っとけ」
「うん」
ナクルが、ユラにチップを手渡した。
「んで、このフロアの参加料は、一勝負につき千シーグル──つってたな。貧乏人を馬鹿にすんのも大概にしろやって気分だぜ」
「千シーグルって、どのくらいの金額なんだ?」
ユラが、小さく首を横に振る。
「ごめんなさい。ちょっとわからない……」
「……あんたら、ほんと何者なんだ。ちょいと浮世離れし過ぎだぜ。まさか、どっかの王族が駆け落ちしてきたとか言わねえよな」
鋭い。
「ま、深くは追求しねえよ。千シーグルつったら、ハノンで真っ当な職についても、稼ぐのに一月はかかる額だ」
日本円に換算して、二、三十万円くらいだろうか。
ふと気づく。
ナクルがスった五千シーグルって──
「……ナクル」
「なんだよ」
「今日を最後に、ギャンブルはやめた方がいいと思うよ」
冗談抜きで。
「わーってるよ。兄ちゃんみたいに頭のネジがぶっ飛んだ賭け方ができねえと、大勝ちなんて夢のまた夢だって痛感したからな。それに、学費は手に入るんだ。さっさと灯術士になって、真面目に暮らすとするさ」
「この先、負けると思ってる?」
「思ってる」
「なら、どうして一緒に来てくれたんだ? 八千シーグル受け取って帰ったほうが、ずっと儲かったのに」
「……まあ、兄ちゃんたちが放っておけないっつーのも嘘じゃねえけどよ」
ナクルが、首の後ろを掻きながら答える。
「ルインライン=サディクル。あんたら、最初に会ったとき、その名前を出したよな」
「ああ」
「今なら、すこし思うんだ。あんたらが、ンなつまんねえ嘘をつくような人間とは思えねえ。だったら、本当に、ルインラインの連れなんじゃねーかってさ」
前々から疑問に思っていたことを、ナクルに尋ねてみる。
「……ルインラインって、本当に、そんなすごい人なの?」
「なんだって連れのあんたが知らないんだよ……」
会ったばかりだしなあ。
「──まあ、いい。とにかく武勇伝には事欠かない人でな。スールゼンバッハの吊り橋。魔獣戦線。"盗掘王"との死闘に、ハディクル山の竜退治。このあたりの逸話は、パレ・ハラドナの周辺国に住む子供なら、寝物語に何度も聞かされてる。ガキが木の棒振ってりゃ、大抵はルインラインの真似事だ」
「すごいな……」
「俺は、リンドロンド遺跡でハサイ楽書と"銀琴"を手に入れた話がいちばん好きかな。ルインラインの逸話には作り話も多いから、ンな魔術具存在しないのかもしれねえけどさ」
「そのハサイ楽書ってのは知らないけど、少なくとも"銀琴"はあるよ」
俺がそう告げると、ナクルが目を輝かせた。
「マジで!」
「うん。ルインラインの弟子に、"銀琴"で撃たれたから。威嚇だったけど……」
「……なんで?」
「いや、いろいろあって」
ユラの半裸を間近で見たからだなんて、十三歳の少年にはとても言えやしない。
「つーか、ルインラインに弟子なんていたのか。初耳だ」
「いるよ。ヘレジナって女の子。すごい達人だけど、見た目より実年齢が──」
言い掛けたところで、フロア奥の扉が開いた。
「お待たせ致しましたあ」
その先から現れたのは、布面積の非常に少ないドレスを身に纏った二十代半ばの妖艶な美女と、数名の護衛らしき男性たちだった。
こぼれ落ちんばかりの大きな乳房を揺らしながら、美女が巻き髪を掻き上げる。
ふわりと蠱惑的な香りが漂った。
「……兄ちゃん」
「うん」
「オレ、ここに来てよかった」
「……うん」
気持ちはわかる。
よくわかる。
だが、
「──……むー」
今の俺には、嫉妬に頬を膨らませるこの子の方が、ずっと魅力的に映るのだった。
「わたくし、本日カップを振らせていただく、メルダヌアと申しますう。お見知り置きを」
美女──メルダヌアが一礼する。
「Wow……」
頭を下げることで強調された深い胸の谷間に、ナクルの視線が吸い込まれる。
「オレ、ここに来てよかった……!」
繰り返さなくていいから。
ついついチラ見してしまうあたり、俺も人のことは言えないけれど。
「むー!」
対抗心からか、ユラが俺の腕を抱き寄せる。
「……カナトも、ああいうのがいいの?」
心臓が、どきりと弾む。
それを押し隠しながら、曖昧に微笑んでみせた。
「そういうわけじゃないけど……」
男に生まれたからには、おっぱいには逆らえないのです。仕方ないのです。
「ふふ、仲がよろしいのねえ」
「──…………」
ユラが、一歩前に出る。
「わたしたち、ケレスケレス=ニアバベルさんに会いたいの。ケレスケレスさんは、このカジノの経営者と聞きました。どうすれば会えるのですか?」
メルダヌアが、目をまるくする。
「あの方に会って、どうするのお?」
「──…………」
ユラが、こちらを振り返る。
事ここに至り、隠すべきことは何もない。
「伯爵の元にいるルインライン=サディクルを、こちらまで呼び出してもらいたい。ケレスケレス=ニアバベルは、伯爵と同等の発言力を有している。不可能ではないはずです」
「仮に、ルインラインさまが伯爵の元にいるのが真実であったとしてえ──」
メルダヌアが、俺たちを値踏みするように目を細めた。
「そんなことをすればあ、あの方は、伯爵に対し大きな借りを作ることとなります。それはおわかりですねえ?」
「……はい」
やはり、そうなるか。
「ですが、そのデメリットを覆して余りあるメリットをご提示頂ければあ、あの方をご紹介するにやぶさかではありません」
「──…………」
カジノテーブルの前に据え付けられた豪奢な椅子に腰掛ける。
「……いくらですか?」
「いくら、とは?」
「ケレスケレス=ニアバベルは、何シーグルで動くか聞いてるんです」
メルダヌアが、口角を吊り上げる。
「面白い」
俺は、あえて挑発的に、チップをテーブルに叩きつけた。
「二万シーグルほどあります。足りない分は、今作る」
「それでは──」
メルダヌアが、親指で弾いた二枚の金貨を、空中でカップにすくい取る。
──タン!
そのままの勢いで、カップがテーブルに伏せられた。
「二百万シーグル、かっちりきっかり支払って頂きましょう!」
「にひゃッ!?」
ナクルが引き攣った声を上げる。
「──二百万。それだけでいいんですね」
「大言壮語は好きですよお。実力が伴えば、ですが」
「お、おい、兄ちゃん。大丈夫かよ……」
「大丈夫。五シーグルを二万シーグルにするより、ずっと簡単だ。なにせ──」
一、二、三、四。
ゆっくりと指を立てていく。
「最短で四回。最長でも、七回連続で勝てばいいだけなんだから」
「──…………」
メルダヌアが、眉をひそめる。
「……まさか、すべての勝負で、全財産を賭け続けるつもりですかあ?」
「何か問題でも?」
「いえいえ。そういう方、たまにいらっしゃいますよお。でも、大抵は、一度目で負けるか二度目で怖気づく。三度目に辿り着いた方には、今まで出会ったことがないですねえ」
「では、お初にお目にかかります」
「……本当、口の大きなお方」
呆れたように微笑み、メルダヌアがチップを回収する。
「参加料は千シーグル。賭け金は、二万シーグルちょうど。以上でよろしいですかあ?」
「はい」
ジングル・ジャングルというゲームに必勝法はない。
ルールが複雑であればあるほど付け入る隙が生まれ、その隙を埋めるための駆け引きが発達し、やがてそれを元に戦術が練り上げられる。
経験と学習、あるいは才能によって、勝率を上げることが可能なのだ。
だが、ジングル・ジャングルにはそれがない。
コインの表と裏を当てるだけのゲームに、駆け引きの発生する余地などあるはずもない。
世界が漂白され、選択肢が現れる。
【黄】ニーゼロを選択する
【黄】イチイチを選択する
【青】ゼロニーを選択する
「ゼロニーだ」
もはや躊躇はない。
「ゼロニー。それで構いませんねえ?」
小さく頷く。
メルダヌアが伏せていたカップを開くと、二枚の金貨が、数字らしき文字列の刻印された側をこちらへ向けていた。
裏だ。
「はい、出ましたあ! お見事正解! 配当は四倍だから、八万シーグルになりますねえ」
メルダヌアと共に入室した男性のひとりが、金属製の大きなケースの鍵を開け、その中から六枚のチップを取り出す。
一万シーグルチップ。
黒を基調とした重厚なデザインだ。
「さ、お客さま。次は、いかがなさいますかあ?」
決まってる。
「すべて賭ける」
「──…………」
メルダヌアから、作り笑いが消える。
「躊躇なし、ですか」
「躊躇したって、勝率は変わらないでしょう」
「確かに」
ニヒルな笑みを浮かべたまま、メルダヌアがカップに金貨を入れ、軽く振ってから伏せた。
「参加料は千シーグル。賭け金は、七万九千シーグル。よろしいですか?」
「ああ」
選択肢が現れる。
【黄】ニーゼロを選択する
【黄】イチイチを選択する
【青】ゼロニーを選択する
即答する。
「ゼロニー」
「また、ゼロニーですか」
頷く。
「そう……」
メルダヌアが、カップを開く。
裏が二枚。
ゼロニーだ。
護衛の男性たちが、ほんの少しだけざわめく。
だが、
「──…………」
メルダヌアが無言で指を鳴らすと、一瞬でフロアが静まり返った。
俺の目の前に、カジノチップが積み上げられていく。
「──およそ、三十二万シーグル。これだけあれば、残りの人生を慎ましく暮らすこともできるでしょう。お客さまの目の前にあるのは、それほどの金額なのです」
「そうだね」
「勝負、致しますか?」
「もちろん」
「では、賭け金をどうぞ」
「全額だ」
「──…………」
しばし唖然としたのち、メルダヌアが口を開く。
「後悔、なさいませんよう」
そして、二枚の金貨をカップに入れた。
【黄】ニーゼロを選択する
【黄】イチイチを選択する
【青】ゼロニーを選択する
カップが伏せられると同時に、宣言する。
「ゼロニー」
「──……!」
メルダヌアが、焦らすようにカップを開いた。
裏が、二枚。
ゼロニーだ。
護衛たちが、再びざわめく。
「ほら、カナトはすごいでしょう?」
「──…………」
得意げなユラに対し、ナクルの表情は険しい。
「ナクル、どうかした?」
「……妙だ」
「妙?」
「三回連続で、ゼロニーが来た」
ユラが小首をかしげる。
「上のフロアでも、同じ出目が続いたことはあったと思うけれど……」
「額が大きくなりすぎて感覚が麻痺しちまったからか、ようやく見えてきた。妙なのは、メルダヌアの姉ちゃんの態度だよ。まるで、カップを開く前から結果がわかってるみたいだ」
ナクルに睨まれたメルダヌアが、苦笑しながら口を開いた。
「ふふ、そんなことあるはずないじゃないですか。こんな凄腕の博徒と勝負するのは初めてなので、緊張してるだけですよお。コインにも、カップにも、カジノテーブルにも、勝負に関わるすべての物品に抗魔の術式を刻み込んであるんですから、イカサマなんてできません。調べていただいても結構ですよ?」
「──…………」
ナクルが右手をテーブルに翳す。
数秒ほどして、
「……
「もちろんですよお」
俺にはわからないが、魔術的なやり取りがあったらしい。
「水差して悪いな、兄ちゃん。オレの考え過ぎだったかも」
「いや──」
最初に会ったときから思っていたが、ナクルには人を見る目が備わっているようだ。
だが、明確な見落としがひとつある。
それは、もしかすると、この世界の住人すべてに共通する盲点なのかもしれない。
もし、メルダヌアが、"魔術"ではなく、ただの"技術"によって出目の操作を行っているとすれば?
俺は、先程、ジングル・ジャングルに必勝法はないと考えた。
だが、出目の操作さえ可能であれば、ディーラーにとって必勝に近い戦法は存在する。
客の不安を煽りながら、同じ出目を繰り返し出し続ければいいだけだ。
卑怯とは言うまい。
俺だって、似たようなことをしているのだから。
「いずれにしても、次が最後の勝負になりますかねえ」
「そうだね」
テーブルに積まれたチップの総額は、百二十六万シーグル。
「端数くらいは取り置いた方がいいと思いますよお? 百万あれば、イチイチで勝ったとしても、目標の二百万シーグルには届くんですしい……」
だが、即答する。
「全額だ」
俺は、メルダヌアを信用していない。
二百万シーグルというのは、あくまで、メルダヌアが独断で決めた金額に過ぎない。
最初から稼がせる気のない相手と、誠意ある約束を交わすだろうか。
であれば、完膚なきまでに叩き潰し、自ら負けを認めさせる以外に道はない。
「──…………」
メルダヌアが目を細める。
「……残念です。気持ちよく帰っていただきたかったのですが」
金貨を入れたカップをテーブルに伏せる。
だが、俺は見逃さなかった。
カップを伏せた直後、ほんの一瞬だけ──メルダヌアが、素早くカップを左右に動かすのを。
それが何を意味するかは、わからない。
だが、警戒すべきだと思った。
「メルダヌアさん」
「はい」
「カップから手を離してください。俺が開く。そのくらい、構わないでしょう?」
「……ええ、構いませんよ」
メルダヌアが、カップから手を離す。
「さあ、コールを──」
「待った」
メルダヌアの言葉を、ナクルが遮った。
「……なあ、メルダヌアの姉ちゃん」
「なんでしょうか」
「あんた、どうして自信満々でいられる? 自分が負けるだなんて、今、これっぽっちも考えてないだろ」
「──…………」
「言葉と態度が繋がらねえ。凄腕の博徒との勝負で、緊張してるんじゃなかったのかよ。ひとつ前の勝負では動揺して、最後の大一番では心の底で笑ってる。ちょいと道理が通らねえな」
「やだなあ。わたくしもひとりの博打打ちですから、いよいよ覚悟を決めただけ。お客さまとの勝負を楽しんでるだけですよお」
「違うね」
ナクルが断言する。
「オレは餓鬼だが、一端の経験は積んでる。人の顔色窺わなきゃ生きてこれなかったから、わかんだよ。あんた、乳はでけえが、目が濁ってる。賭け事を純粋に楽しんでるって目じゃねえな。もしかすると、あんた、賭け事が好きなんじゃなくて──」
口角を吊り上げながら、ナクルが言った。
「人の裏かいて勝つのが好きってだけじゃねえか?」
「……知った口を聞きますねえ」
裏をかく。
カップから手を離した以上、メルダヌアにこれ以上の介入の余地はない。
出目の操作は既に終わっていると考えるべきだ。
ニーゼロ。
イチイチ。
ゼロニー。
俺が、どれを選んだって不思議じゃない。
どの出目に調整したとしても、必勝はない──はずだ。
だが、ナクルの洞察が正しければ、メルダヌアは既に勝利を確信している。
どうすれば、俺の裏をかける?
どうすれば、確信できる?
メルダヌアは何をした?
もしかして──
そこまで考えたところで、世界が無色に染まった。
【黄】ニーゼロを選択する
【黄】イチイチを選択する
【黄】ゼロニーを選択する
【青】いずれも選択しない
ああ、そうか。
やはり、そういうことか。
「──メルダヌアさん。ひとつ、確認し忘れていたことがあるんですけど」
「なんでしょう?」
「いえ、大したことじゃないんです。ただの好奇心だ。なにせ、万が一、億が一の、雲を掴むような話でして」
「焦らしますねえ」
「そんなつもりは。ただ──」
豪奢な椅子から腰を上げ、中指の先でカップの底に触れる。
「コインが立っていた場合、配当はどうなるのかと思って」
「!」
メルダヌアが、目を見張る。
「……随分と、おかしなことを気になさるんですねえ」
「イレギュラーな事態とは言え、確率がゼロでない以上、ルールで規定されていると思うんです。違いますか?」
引き攣った笑顔を浮かべながら、メルダヌアが答える。
「その場合でも、没収試合にはなりません。立ったコインは、表にも裏にもカウントされず、ないものとして扱われます。僅かな可能性に賭けて、イチゼロやゼロイチでコールするお客さまも時折おられます。当てたところを見たことはありませんが……」
「配当は?」
「百倍となっております」
「すいません、言葉が足りなかった。イチゼロやゼロイチに興味はないんです」
「……?」
「ゼロゼロ──つまり、両方立っていた場合の配当は、何倍ですか?」
俺の言葉を聞いた瞬間、
「──……あ、は」
笑い声にも似た呼気を漏らしながら、メルダヌアが半歩後ろによろめいた。
「どうしました?」
「い、いえ、なんでも──なんでもありません……」
「それで、何倍になりますか?」
「──…………」
「何倍ですか」
「……一万、倍──です」
「百二十六万シーグルの一万倍なら、百二十六億になりますね。それがどのくらいの金額なのか、俺にはよくわからない。けれど、カジノとホテルをまるごと買い上げたとしても、半分くらいは余りそうだ」
「──…………」
メルダヌアの顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
「おかしいなあ。ただの素朴な疑問じゃないですか」
「……つ」
「そんなに動揺していると、まるで、本当にゼロゼロの目が出るみたいに思えてくる」
「──はッ、はあッ……、はあッ……」
メルダヌアの呼吸が、目に見えて荒くなる。
「では、コールをさせてもらいます」
「ふッ、は、はい……」
すこしだけ溜めて、告げた。
「ゼロゼロ」
「──…………」
ふらり。
その場に座り込んだメルダヌアが、呆けたように天を仰いだ。
「メルダヌア様!」
護衛のひとりが、メルダヌアの肩を抱き留める。
フロアに緊張が走るのがわかった。
「立ってください、メルダヌアさん。結果は、カップを開くまでわからない。そうでしょう?」
「……ぬけぬけと……」
護衛の腕を借り、メルダヌアが立ち上がる。
「あんた、何者です。何が目的だ……」
「最初に言ったじゃないですか。ケレスケレス=ニアバベルに会いたいと」
「──…………」
メルダヌアが沈黙し、俺を睨みつける。
「メルダヌアさん。あなたは、随分と、自分のテクニックに自信があるようだ。カップの中身がゼロゼロであると確信している。血の滲むような練習の果てにしか習得し得ない"技術"だ」
「──…………」
メルダヌアは何も言わない。
「でも、今後はすこし控えたほうがいい。立てたコインなんてものは、容易に倒れてしまうから」
「……何が言いたい?」
「アクシデントひとつで崩れる切り札は、悪手だって言ってるんです。たとえば──」
──ダン!
両手のひらを、カジノテーブルに思いきり叩きつける。
「なッ……!?」
「興奮した客がテーブルを殴る。立ち上がった客の膝がテーブルに当たる。そんなこと、いかにもありそうだ」
「あんた、何を……!」
「さあ、答え合わせをしましょう」
伏せていたカップを、開く。
表が一枚。
裏が一枚。
「残念、イチイチだ。ユラ、ごめん。百二十六万シーグル、まるまるスッちゃった」
「困ったね」
「ああ、困った困った」
「──……ハハ」
メルダヌアが、乱れていた前髪を掻き上げる。
その表情は男性的で、先程までの態度が作り物であったことがわかる。
「参ったね、どうも。勝負に負けた。器でも負けた。おまけに百億シーグルの借りまで作っちまった。この体を差し出したって、到底足りやしない」
「む」
ユラが、俺の手を握る。
「大丈夫、大丈夫。あんたのダーリンは取らないよ。アタシの腕じゃあ抱き留めきれないからね。なんとかアタシの手に負えるのは、そっちのエロ坊主くらいさね」
「なんだ、おっぱい揉ませてくれんのか」
「あとでね」
「マジか……!」
ナクルが目を輝かせる。
「冗談だよ。五年経ったらおいでなさい」
「そのころにゃあ、とっくに垂れてんだろ! 今揉ませろ!」
「失礼なエロ坊主だね。アタシは永遠の二十代だ。五年後だってピチピチさ」
「さっきっから、なーんか言動がオバサンくせえんだよなあ……」
メルダヌアが、懐から煙管を取り出し、魔術で火をつける。
「──それで、ケレスケレス=ニアバベルに会いたいんだったか」
「はい」
紫煙を吐き出しながら、メルダヌアが言った。
「残念だけど──"ケレスケレス=ニアバベル"なんて人間は、この世に存在しない」
「……存在、しない?」
「ンなわけねーだろ! あの方が実在しねえなら、ソルは誰が治めてるってんだ!」
「そう逸るな、エロ坊主。ちゃあんとからくりがあるんだよ」
ユラが、小首をかしげる。
「からくり?」
「さて、改めて自己紹介でもしようかね」
姿勢を正したメルダヌアが、気取った風に口を開いた。
「アタシの名は、メルダヌア=アンフォルド=ニアバベル。七番目のニアバベルだ」
「七番目の──」
「……ニアバベル」
ユラと顔を見合わせる。
「さっきも言ったが、ケレスケレス=ニアバベルなんて人間は存在しない。"ケレスケレス"とは、ロンド古語で"十一"を意味する。ハノンソルは、十一人のニアバベルによる共同統治なのさ」
なるほど。
道理で、顔や性別すら判然としないはずだ。
「全員、血縁者ってことですか?」
「血縁の者もいるが、基本的には関係ない。ニアバベルの襲名は指名制だ。アタシは、前任の"七番目"から、ニアバベルの名を奪い取った」
「……指名制なのに?」
「もちろん、ギャンブルでね」
メルダヌアが、くつくつと笑う。
「と言っても、"七番目"の立場を賭けたわけじゃない。自分の能力をギャンブルで証明してみせただけさね」
「ジングル・ジャングルみたいな単純なゲームで出目の操作ができるだなんて、ナクルがヒントをくれるまで思いもしませんでしたよ」
「一見、できないと思われることこそ、する意味があるんだよ」
「ほんと、裏をかくのが好きな姉ちゃんだな」
「アタシは真面目で堅実だからねえ」
「どの口が言うんだ……」
ナクルが、呆れたように告げた。
「あの」
たまりかねたように、ユラが口を開く。
「ルインラインを呼び出すことは、できるのですか?」
「ケレスケレス=ニアバベルの意思決定は、合議と多数決だ。アタシを除いて五人の承諾を得れば事足りる。ハノンソル・ホテルの一室を空けるから、そこで一眠りしておいで。起きるころには間に合うよう手配する」
カジノテーブルに煙管を置いたメルダヌアが、右手の甲をこちらへ向け、一礼する。
「──"七番目"の誇りにかけて」
俺にできるのは、ここまでだ。
そっと息を吐きながら椅子に再び腰掛けると、メルダヌアが尋ねた。
「時に、お客さま。あなたの名前をお聞かせ願いたい」
「ナクル」
「エロ坊主はエロ坊主で覚えとくけど、今はこっちのお兄さんだ」
「へいへい」
ナクルが肩をすくめる。
「……相葉、奏刀です。相葉が姓で、奏刀が名前」
「カナト、か」
「はい」
「ねえカナト。もし、ハーレムを作りたくなったら、いつでも言っとくれ。なに、正妻はお嬢ちゃんに譲るとも。二番手か三番手で、たまーに愛してくれりゃあそれでいいさ」
「──ぶッ!」
なんつーこと言いやがる!
「自分で言うのもなんだけどお、わたくしはいい物件ですよお? 実質、このハノンソルの支配者にもなれますしい……」
「むー!」
メルダヌアの魔の手から守るように、ユラが俺に抱き着いた。
ユラのささやかな胸が、俺の腕に押し付けられて、ふにりと形を変える。
「ちょ、ほッ、ユ、ユラさん……!?」
「おい、メルダヌアの姉ちゃん。ユラの姉ちゃんからかうのもそんくらいにしとけ」
「わたくしはいつだって本気ですけどお」
「口調が既にふざけてんだよ」
「エロ坊主は可愛げがないねえ」
「やかましいわ」
「ま、半分は冗談さね」
半分は本気なのか。
「では、アタシはそろそろ行きましょう。エルトリ、ハザマ、この方たちに案内を」
「了解致しました」
護衛に案内を言いつけて、メルダヌアがフロアを出て行く。
「──……疲れた」
精神的には、流転の森よりずっと。
抱き着いたまま離れないユラの髪を手櫛で梳いてやりながら、俺は深々と溜め息をついた。
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