松の陰より
結葉 天樹
春風に吹かれて
「やれやれだ、どいつもこいつも運がねえ」
言った後に、男はたまたま口をついて出た言葉が五・七・五の
自らの
肩を並べて動乱の中へ身を投じたこの数年、四天王とまで並び称された仲間たちは
「ま、こんな時代だ。あれだけ戦に出たってのに討ち死にじゃなくて畳の上で死ねるなんざ過ぎた幸せとでも言うべきかねえ」
肺を病み、齢二十九で死ぬことになるのは余人からすれば短いと嘆くことかもしれない。だが男には不思議な満足感があった。
世が変わる。それは確信だった。
黒船の来航から世の中は間違いなく徳川の世から変わり始めていた。対立していた薩摩と長州は手を取り合い、幕府軍は長州征討に失敗。その威信は大きく傷ついた。
それを実現させたのは土佐の郷士の次男坊、坂本龍馬だった。これまでの時代では決して身を立てることが難しい立場で、多くの人を動かし、幕府を脅かすに至った彼の功績は間違いなく後世に称えられるものであろうと男は思っていた。
「これからは身分に縛られる世の中じゃねえ。龍馬みたいに面白い奴はまだまだ世の中に
ふと、彼の頭に師の姿がよぎる。学問にあまり関心のなかった彼を焚きつけ、数多くの門弟たちを導いた師の言葉を思い出す。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置かまし大和魂……か」
処刑される直前に門弟たちにあてた最後の言葉の一つだった。その身は朽ちても、大和魂だけは残していく。師らしい言葉だった。
その師の残した多くの言葉を胸に、門弟たちは新しい時代のために戦った。そして何人かは命を散らしていった。生き残った者たちはその魂を引き継ぎ、さらに前へと進んでいった。
「へっ……ったく、先生は凄えな。死んでも人を動かしやがった」
彼の撒いた種は多くの人を動かし、その理念を実現させた。身分が低くても、学びさえすれば多くの人々の力になれる。かつては学問を軽んじていた男であったが、今この時になって人生を振り返るにあたり、彼に教えられたことが無駄どころかこの動乱を生き抜く武器になっていたことを実感するに至っている。時代の先を見れず、旧来の力に頼ったものは皆倒れていった。それは幕府側も長州側も同じだった。
「やっぱこれからは刀じゃなく、学問の時代か」
床のそばに詰まれている書物を男は眺めた。学を修め、知識を集め、この国はまだまだ狭いことを知った。知れば知るほどに世界は広がり、面白さが内包されていることを知った。
面白いことが無いように見えるこの世の中には面白きものが数多ある。学を修めればそれを見つけられる。世を面白くすることもできる。
「俊輔みたいに
まだまだ知りたいことは山の様にある。とりわけ全く違う文明文化を持つ異国に行けばもっと面白い物が見れるかもしれない――せき込み、口元から溢れるどろりとした血が手を染める。その紅が自身に時間が残っていないことをより鮮明に意識させた。
「ははっ……つっても俺には時間が残ってねえか」
思えば彼の人生は常に反抗し続けた人生だった。同輩に、幕府に、諸外国に、藩に、侍に、制度に。そして屈しなかった。最期まで己の生き方を貫いた。それに後悔はない。
「さて、戦って戦い続けた俺は何を残せたかねえ……」
師のように学問を伝えたわけではない。思うままに振る舞い、戦った自分にどのような功績があるか。それはまた後世に、彼を知る人々が語り継ぎ、研究されてまとめられることだろう。
「ちっ……もうすぐ死ぬってわかったら未練が出て来ちまった。困ったもんだ……おっといけねえ」
口を突いて出た言葉をのみ込もうと手で覆う。彼は「困った」と言う言葉を禁句にしていたのだ。
誰に言ったかもう覚えていないが、かつて「男は決して困ったと口にするんじゃねえ。困ったという時は死ぬ時だ」と彼は言い放った。どのような難局でも、困っていないという気概でやれば道が開けると彼は信じていた。事実、彼は強大な相手と戦い続け、生き抜いた。諸外国から、命を狙う刺客から、幕府から、藩から。
「……ま、そろそろいいか。ああ、困った困った」
男は大の字になって布団に寝転がる。口調はいつものように軽いものだったが、そこにはようやく荷を下ろしたような、安堵の気持ちが込められていた。
それから数日の後、慶応三年四月十四日。春風の吹く中で激動の人生を生きた男――高杉晋作は静かに息を引き取ったのだった。
松の陰より 結葉 天樹 @fujimiyaitsuki
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