9
長い雨が降っている。やわらかい雨音。
雨の日が、私は嫌いではない。
降り込められた私と恋人は、もともとそういうかたちに生まれてきたみたいにぴったりくっついて、ソファに並んでいる。
あれからいくらかの時間がたった。
私と恋人は、すっかり結婚の話をするのをやめてしまった。いや、というよりは私がだ。
恋人は、私が話し出すのを待ってくれているだけで。
私は恋人のあごに手をやった。
手のひらで恋人の輪郭をなぞる。私の恋人は、輪郭が芸術的にうつくしい。
ちくり、と、するどく胸が痛む。ちいさな針が私を刺したのだ。
孤独。
つめたい針の、その名前を私は知っている。
「もしも、もう一生そこから出られないとしたら」
私はめずらしく暗喩めいた調子で言った。
「どこがいいか?」
恋人があとを引き取って、思案顔になる。
私は、海だ、と思った。
はなやかな色のさんごや、おもしろおかしい生き物にあふれた海ではなく、私が想像するのは深い海の底だった。
そこには私と恋人しかいない。音も、光もなくて、けれど私はそれでいいのだった。
恋人さえ、そばにいてくれれば。
「月かな」
と、恋人が言った。
「月へ行ってみたい。いつか」
私は心の中で、いつか、とくりかえした。
いつか、私は。私は、どうなるのだろう。
いつか。
その先には、何もなかった。
のぞむ未来などみあたらなくて、ただ、まったくの暗闇がポッカリとくちをあけている。私はもう耐えきれなかった。
「たとえば私が」
ことばを切る。恋人の泣き出しそうな顔というのを、私はそのとき初めて目にした。
「たとえば、私が月から来たのならよかったのにね」
言って、部屋のあかりを落とす。
次の日から、私たちは別々にくらすようになった。私はいま、ホテルから勤め先へ通っている。恋人は、家が見つかるまでのあいだ研究室ぐらしになるらしい。私は、このままあの町を出ようと考えている。
家に帰らない生活は、大学生のころにやった一ヶ月のバカンスを思い出すようで、楽しい。だけど私ははたらいていて、私のとなりに恋人はいない。それはかなしいことではないが、さみしい。
最愛の恋人との別離は、私にとって死ぬこととほとんどかわらない意味を持つらしかった。
彼のことを恋人と呼べる時間も、もはやそう残されてはいないだろう。
通勤の電車に揺られながら、私はあの日々のことを思い出す。
幸せだったこと、みたされていると感じたこと、ぴったりちょうどだった、あの愛について。
冬の朝日は、白くまぶしい。空が高くて、私は突き放されているような感じがする。
春がきたら。と、私は思う。
電車が大きく揺れた。橋架にさしかかったのだ。
春がきたら。
そうしたら、私は海に行こう。
たとえば私が ちよ子少佐 @M_Chiyoko
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