恋人が「結婚しようか」と言うので、私は、私の恋人がいかにすばらしく非の打ちどころが無いかを母に説明しなければいけなかった。


「完璧なのよ、私たちは完璧に二人組みなの。一つも欠けていない」


 私が大学を出てから三度目の冬だ。


 熱海駅前の喫茶店で母親と向かい合っている。とびきり甘いたばこの匂いがして、母が顔をしかめた。昔は自分でもっていたのに、いまは嫌煙家であるらしい。


「それ自体が、すでに欠けているということだわ」

 母はかたくなな声音でそう言って、しずかに両手の指を組む。


「完璧であるというのは、完璧でないことが欠けている状態なのよ」


 私は、そんなのは詭弁だ、と言いたかった。けれどよく考えてみれば、どうも、母の言うことはまるきり真実であるようだった。私はほんのすこしだけ目をまるくする。


 しかたなく、「それなら、完璧じゃなくてもいいわ」と言った。「愛し合っているもの」とも。

 我がことながら、分別のない子供のようなことを言っている、と、頭の冷静な部分が考えていた。


 母は、しばらく私の目をみつめたまま黙っていた。その沈黙の重さときたら、なかった。

 私は目をそらしたいのを必死でこらえる。ここでそらせば、母は私たちの結婚をみとめないような気がした。


 正直なところ、私は結婚にあたって母の了解を得る必要を感じていなかったから、そうするつもりもなかった。

 それでもこうして話をしにきたのは、恋人がゆずらなかったからだ。


 恋人は、今年の春から助教としてあの大学につとめている。

 五年、大学院にいたから、私のほうが二年はやく働きはじめた計算だ。恋人はそれを負い目に感じているらしく、結婚の話を切り出すときも、「ずいぶん待たせてしまった」と申し訳なさそうな表情をみせていた。


 ながい沈黙のあと、母は、「愛し合うことが、幸せであることではないわ」と言った。

 また、重々しい静寂がすべりこんでくる。鳥肌がたちそうだった。


「もしも」

 私はおそるおそる、といったふうに口をひらく。


「もしも、自分の結婚が失敗だったと思っているのなら」


 思いがけず、私はそこで言葉を区切ることになった。


 硬質なかるい音を立ててテーブルに置かれた、それは結婚指輪だった。私の思考から、一切の速度がうばわれる。

 ずっと持っていた? 何故。十年ものあいだ、ずっと?


「私は」母が言う。「結婚したことを失敗だったとは思わないわ」

 

 家に帰ると恋人がいる。

 私は靴をけりとばすみたいに脱いで家にあがる。おかえりとただいまを言い合って、触れるだけのキスをする。恋人が言う。


「どうだった」


 私は母との会話を思い出す。あのあと、母は「あなたのことだから、好きにしなさい」と、突然話を終わらせてしまったのだった。

 私には、どうして母が否定的なことばかり言うのかわからなかった。


「あの人はどうしてあんなことを言うのだと思う?」


 たずねると、恋人は「ありきたりに聞こえるかもしれないけど」と前置きして言った。「娘には幸せになってほしいんじゃないかな」


 私は首を振った。

 それなら、すなおに認めてくれればいいのだ。


「もう少し考えてみよう」


 私の頭を撫でて恋人が言う。私はうなずくほかにない。

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