夕食を済ませたあと、チエホフの詩を読んでいるところに恋人が帰った。

 私は玄関まで出て行って、おかえりなさい、と言った。恋人が笑みをうかべて抱きしめてくれる。


 ほんとうは、まったくなんでもない、というような顔で出迎えるつもりだったのに、私はそれですっかり素直になってしまう。それで、会いたかった、と言った。

 恋人は言葉ではこたえずに、ただ、私の腰に回した腕をすこしだけきつくしめて、私の髪の匂いをかいだ。


「お風呂に入ろうか、二人で」

 と、恋人が言うので、私はうなずいた。勿論。


「私たち、うまくやっていると思う?」


 二人で向かいあって湯船につかりながら訊くと、恋人は「思う」とみじかく答えた。回答はすばやく、私の目を見て、迷いがなかった。

 恋人があんまりひるまないので、かえってこちらがひるんでしまう。


「どうしてそう思うの」


 問いかけを重ねながら、私はほとんど叫び出しそうだった。それでもそうはしなかった。

 そのとき、私はたしかにおびえていたのだ。恋人のことばに。


 こたえようとした恋人のくちを両手でふさいだ。聞きたくなかった。それが、たとえどんなに正しかったとしてもだ。

 聞けば、きっと私は安心する。恋人は、私がそうなるようにこたえてくれるはずだ。

 だけど。


「私、ここにいたくないわ」


 意を決してそう言った。言った途端、胸の奥のほうを、何かつめたいものが通り過ぎていくのを感じた。


 すうすうする、と思った。






 次の日からたっぷり一ヶ月、私たちは家へ帰らなかった。

 その間じゅう遊んで暮らして、たまに気が向けば大学にも行った。けれどそれはほんの数日のことで、ほとんどの日を私たちは二人きりで過ごした。


 ある日は恋人が青いスポーツ・カーをどこからか借りてきて、海ぞいをドライブした。ずっとまっすぐに。

 途中で酒屋をみつけて、立ち寄ったけれどお酒は買わなかった。代わりにサイダーを一本買って、二人で飲んだ。もう秋の口まできているというのに真夏みたいなあじがして混乱した。


 別の日には、知らない街を歩き回った。手をつなぎ、指をからめて。

 もう嫌だと言うまでラーメンを食べる、というのがその日の題目で、それはきっちりと達成された。私は、私がとんこつ派だというのを恋人がしっていたのでおどろいた(いったい、いつ話したのだろう?)。意外なことに、先に音をあげたのは恋人のほうだった。


 いちばん、深く記憶にくいこんだのは、さびれたキャンプ場へ行った日だった。

 私たちは、大きなレジャー・シートとうすい毛布を一枚ずつに、サンドウィッチをいくらか、それぞれ珈琲と紅茶の入った魔法瓶を二つ、それにりんごでつくったポタージュをスープ・ジャーに入れて持っていって、何もしなかった。

 ただ、一日中そこで寝ころがって、景色を見るでもなく、会話をするでもなくすごした。ざあと音をたてて通り過ぎていく風が、これ以上はないくらいにきもちよかった。


 一ヶ月がたったあと、私の胸にあった不安は氷解して、どこにもなくなっていた。

 恋人はそれをわかっていて私を連れ回してくれたのだろうか。私は、いまさらながらに驚嘆する。


「ねえ、私はあなたがいてくれてほんとうによかったと思っているのよ」


 私が言うと、恋人はだまってうなずく。


「ほんとうなの、嘘じゃない」


 私は、こんなことではちっとも伝わらない、と思って、すこし焦りながら言葉を重ねた。

 恋人はそれを見て、「わかってる」とだけ言った。私はもうがまんできなくて、ありったけの情熱でもってキスをした。

 押し倒してしまってもいい、と訊いたら、恋人が「いい」と言うので、その場で馬乗りになってまたキスをした。

 首すじをついばむように、鎖骨に噛みつくように、胸板におしつけるように、たくさん。


 それから、私たちは上下を入れ替わりながら何度も愛し合った。今までのどの行為よりもみたされた心地がした。 

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