KAC20204 掌編『放たれる矢と綿帽子』

三ケ日 桐生

本文

 その日、ライカは失意と共に帰途へと就いていた。


 12

 短い銀の髪ごと口元を覆ったマスクの息苦しさに顔を歪めながら、彼女は人気のない道をとぼとぼと歩いていく。

 ――どうして、こんな気持ちにならなければいけないの。

 孤独のまま刻む徒歩かちは、人の思考を負の沼へと追いやる。

 宇宙を見上げて手を伸ばす家系に生まれ、偉大なる先人――いや、先《《犬》か――の名を冠され、血のにじむ努力の果てに手にした、大気圏の向こうへ飛び出す切符。

 だが自らが乗り込む宇宙船の目的を初めて聞いた時、報われた喜びも未知なる宇宙への高揚も消え、今やその胸にはただ永久とこしえの闇に放逐される恐怖と、家族を置き去りにする悔恨だけが残った。


「わっ!」


 前ではなく、過去を見ていたせいか。

 不意に覚えた足先の喪失感にライカは大きくバランスを崩す。彼女の足を取ったのは、その心中を表す様な陥没だった。そこへ降り注いだ雨水の溜まりを、ライカは苛立ちのままに蹴飛ばす。粘り気のある真っ黒い水が空へ舞い上がった。



 ※     ※     ※



 歩を進める度、ジーンズの裾に跳ねたどす黒い染みが目に入る。ライカはその都度、自らの短慮を恥じねばならなかった。

 だがそのお陰で頭の中がこれ以上陰にこもる事がなかったと見れば、救いともいえた。崖沿いの坂を行く中衝動のまま身を投げる事もなく、空が暮れ始めた頃に、ライカは登り切った先に見慣れた家の屋根を見る事が出来た。

 敷地を覆う透明の防汚膜を潜りマスクを外すが、しかし彼女の足は玄関まで進むことなく、庭を囲む柵の前で止まる。


「ただいま」


 ふたつ並んだ墓に手を合わせてから荷物を置いてからライカが声を掛けたのは、庭先で鍬を振り下ろしている老人だった。


「おかえりライカ。いよいよだね」


 地面にざく、と音を立てて鍬を離し、振り返った老人は朗らかに応える。

 だがその笑顔に応えず、整然と並ぶうねを一瞥したライカは、やがて大きな溜め息を吐いた。


「乗る船は決まったかい?」

「……ストレルカ2149号、北極星方面」


 今からでも、行かないでくれと言ってほしい。

 そんな淡い期待を見事に裏切る質問に、もはや失望への怒りすら湧かないライカは半ば投げやりに答える。


「名前が良くないね。そうだな……アドヴァーンチク、なんてどうだ?」

「やぁよ。それこそどこ飛んでいくかわからないじゃない……」

「そうか?私は好きだがなあ。お前にも見せたろう、あの写真」

 

 濾過ろか装置付きの水筒を傾けながら、老人はスモッグで煙る夕焼け空を見やって記憶を探る。


「どこへやったかなあ」

「置き忘れたって言ってたよ」


 ライカは彼の事を決して嫌ってはいない。だが幼い頃から長い時を過ごしてなお、彼の考えを理解できない局面の方が多かった。


「仕事を辞める時、机に」


 それ故にライカは自らの望む方向へ話を膨らませる事が出来ず、ただ記憶に基づく事実を述べる事しかできない。

 そんな自分と入れ替わるように突如去ってしまった職場の話を出すと、老人はバツが悪そうにそうだったかな?と後ろ頭を掻いた。


「まぁいい、明日は何時に向かえばいいんだい?」

「7時。それまで出来るだけ長く、家族と過ごしてこいって」

「そうか、ならば今夜はゆっくり前祝いが出来るね」

「……祝い?」

「この畑で採れた野菜を終ぞ振舞えなかったことだけは心残りだが――」


 老人の言葉を遮るように、ライカが再び右脚を乱暴に振り出す。その爪先が鍬の柄を捉え、刺さっていた刃が渇いた赤土を掘り起こしながら音を立てて倒れた。

 怒りに任せたその行いを咎める事もなく、老人はただ静かに腰をかがめ、鍬を起こす。崩れないその穏やかさにライカの胸中はますます乱れ、今度は左脚で地面を乱暴に擦った。


「この土がどんなものか、わからないはずないでしょう?」


 舞う土煙は異臭を放ち、えぐれた地面は乾ききっている。たとえ専門的な知識がなくとも、そこに生命の息吹を感じられない事は明白だった。


「無駄だ、と言いたいのかい?」

「ええ。私たちの旅のようにね」


 ライカの吐き捨てたその言葉を最後に、ふたりの間にはしばらく沈黙が流れた。目を伏せる彼女じっと見据えた後、老人は柵に背中を預けてポケットに手を入れながら再び空を見上げる。


「……確かにずっと、空の向こうを夢見てきたよ。でもこんなのは、違う。私が望んだのは旅であって、漂流じゃあない!」


 沈黙に耐えかね、やがてライカは叫ぶ。

 彼女を始めとする若き宇宙飛行士が担った使命は、限界を迎えつつある地球を離れて未知の惑星に降り立ち、移民の可能性を探る事だった。

 聞こえこそ良いがその実、どの国の電波望遠鏡も文明のある星どころかヒトが活きるに適する星の候補すら見つけられず、目標も定まらないまま打ち上げの日を迎えようとしている。

 だが計画の中止は即ち、全世界の人間に諦めを強いる事と同義だった。つまるところライカ達は明日、ありもしない希望の誇示を名目に、ただ宇宙を彷徨さまよう為だけに母星を離れる。

 その不都合な真実は全てが機密とされているが、この老人の前では意味をなさなかった。


「どうして辞める間際になって、私をメンバーに推薦したの?知らなかった筈ないじゃない」


 老人は答えず、俯くライカから目を離して畝の向こう側に目をやった。彼の視線の先ではやせ細った2匹のネズミが枯れかけの雑草を巡り、割れた土の上で互いの身体に牙を突き立てていた。

 やがて負けた片方は力尽き、雑草を口にした方だって遠からず飢えに倒れるだろう。行く末を目で追うライカにはそれが紛れもなく、今自分が立たされている世界の縮図にしか見えなかった。


「……赤い大地をいくら耕して、そこに汚れた水を撒いても、殆ど芽は出ないだろう」


 老人はポケットから手を出し、ライカに向かって握った拳を開く。そこには劣化を防ぐ気密パックに入った植物の種子が、何種類も入っていた。


「だが、だからといって撒きすらしなければ、こいつらは芽を出さない。種のまま、袋の中で乾いていくだけだ」


 そう言って老人は雑草に歩み寄り、れた葉へ向かって水筒の残りを掛けながら続けた。


 「懸命に耕し、濾過した水を撒いてやる。無駄かも知れないと分かっていても、そうすれば明日を夢見る事が出来る。願掛けさ。希望が全く消えれば、この星よりも先に『人間』が終わってしまうから」

「なら私は、その生贄として差し出されたの?発案者の孫として、皆を納得させる為に」


 ――貴方にとって、私は誰かの為に手放せる程度の価値しか持ち得なかったの。

 それを口にできるほど、ライカは強くなかった。

 鼻の奥に痛みを覚えながら肩を震わせる彼女に向かい合う老人は、大人になって久しく見る事のなかったその泣き顔に目を丸くし、言葉を失った。


「ああ、やっぱり、貴方は現実から目を背けているだけなのね」


 途切れぬ沈黙を肯定と合点してライカは天を仰ぎ、温度の消え失せた声で呟いた。


「希望があろうとなかろうと、地球はあと数年で終わる。そしてまやかしの希望としての役目を終えた私達は、皆より一足先に宇宙の隅で孤独に死んでいく」


 自らの言葉に中毒を起こす様に、涙を溜めたライカの瞳から光が消えていく。


「考えるだけで、怖い。どうせ死ぬなら最後の日まで家族と、貴方と一緒に――」

「違う、


 強い言葉に遮られ、ライカは弾かれたように顎を上げた。

 老人はかぶりを振り、在りし日幼い彼女に向かってそうしたように、そっとその頭に手を乗せる。


「まやかしの希望なんかじゃない。君たちはだ」


 老人はしわの刻まれた親指でライカの涙を拭い、袋詰めの種を握らせる。


「怖いと思う。私達の世代が自然に対して何も出来なかった事も悔やんでいる。けど、その上で言わせてほしい。どうか、ここから飛び出てくれ。そうすれば僅かでも、地球ここでない何処かで『人間』が続く可能性が生まれる」


 それは少し気の早い、別れの挨拶だった。

 ライカは先程までと別の意味合いを持つ涙を流しながら、それでも続く言葉を一言一句聞き逃すまいと、唇を噛み締めて必死に顔を上げる。 


「そして君こそが、その運良く生き延びる1人になるかも知れない。そう思える事が僕にとって、何よりの希望だから」


 その言葉に託されたものが、ライカの心におりとなって重なったものを優しくはらっていく。やがて小さく頷いた彼女を見て、老人もまた深く頷き、その背を押して家へと招き入れた。

 その夜、祖父と孫娘は望遠鏡から遠くの星を眺めていた。

 何年も前に初めてそうしたように夜が明けるまで肩を並べ、時折小さく笑い合いながら。




 ※     ※     ※




 轟音は徐々に遠ざかり、ロケットが赤い大地を離れていく。

 『希望の矢は放たれた』

 地上からの通信が途絶する間際、ノイズ交じりに耳へと届いたその言葉。それを聞いたある者は満ちる虚しさにわらい、またある者は悲壮な決意を改たにする中、ライカだけはただ静かに首を振り、懐へ忍ばせた袋を握りしめていた。

 



 その時。

 宇宙そらへと登る星を見た老人は、鍬を振り下ろす手を止めた。

 重力、摩擦。神の決めたもうた法則。運命ともいえるそれに真っ向から抗い、そして逃れていくその光を見上げ、彼は静かに祈りを込める。

 願わくば刺さらず終わるストレルカではなく。

 遥か遠く、まだ見ぬ豊かな地へ降り立ち芽吹く種であれ、と。 


 その日。

 世界にある全ての基地で、若きアストロノーツを乗せたロケットが一斉に打ち上げられた。

 目指す場所を定めず、方角もいつとせず。満載された片道燃料を吐き出しながら深淵へと散っていく船。


 『似ているな』


 その様子を収めた衛星からの映像を見た誰かがそう漏らし、今は主のいない机の隅を見やる。そこには古いフォトスタジオが、忘れ去られたように天井を仰いでいた。



 あの人はまだ、馬鹿げた願掛けを続けているのだろうか――

 青空の下で風に吹かれ、綿毛を空へと旅立たせる蒲公英アドヴァーンチクの写真を見ながら、彼はふと前任者を思い出していた。

 

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KAC20204 掌編『放たれる矢と綿帽子』 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi

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