彼女の胸に咲く花
橘花やよい
彼女の胸に咲く花
白くて大きなキャンバス。色とりどりのインク。
「何がいい?」
「お庭。あたたかい木漏れ日の下で、草木が揺れて、花が咲き誇る。そんな庭がいいわ」
「分かった」
「とびっきり綺麗なお庭よ」
彼女がそう言うから、僕は何か月もかけてこの部屋の白い壁に絵を描いた。青い空。緑の葉。薄黄色の木漏れ日。白い花。桃色の花。紫の花――。
彼女は絵を描く僕をじっと見つめていた。
インクの匂いがこもらないように精一杯開け放した窓から風が流れて、彼女の髪を撫でた。
「ねえ、私の体にも描いて」
ある日、彼女はそう言って微笑んだ。
「私の中で種が育って、芽吹いて、花が咲くの。私の命を吸い取って、まがまがしいほど赤くて黒い。そんな花が咲く。その花をあなたが描いて」
「君の言葉は難しいね」
「だって小説家だもの」
くすっと彼女は笑った。
ベッドに座って白いパジャマをはだけさせ、彼女は胸元をみせた。
「どんな花だろう」
「とびっきりまがまがしくて、美しい花よ」
「そうだね」
憎たらしい花。
けれど彼女の生きる力を全て吸い取って咲くその花は、きっと美しい。
ずいぶんと痩せてしまった彼女の体に絵筆を滑らせた。
赤黒くて、グロテスクで、神秘的な花。それが彼女の右の乳房に咲いた。
「素敵だわ。さすが私が認めた画家様だこと」
「お褒めの言葉、光栄です」
彼女の花が完成すると、僕はまた白い壁に庭の絵を描き始める。
時がたって、また彼女はパジャマのボタンをといた。
「種がうまれて、血液にのって、別の場所に巣食って、また花が咲く。憎たらしいわね。描いて。あなたが描いてくれたら、少しはこの花のことも好きになれるわ」
彼女の両の胸にまた赤黒い花を咲かせた。
青白くて細い体。またずいぶんと痩せてしまった。
この花は、確実に彼女の生を吸い取っていくのだ。
彼女はこの部屋から出られない。することがない彼女は、ずっと絵を描く僕をみていた。
「綺麗な庭ね。そろそろ完成かしら」
「うん。もうじき描き終わるよ」
白かった壁には一面の庭の絵。
「まるで庭にベッドを移動させたみたいだわ。気持ちがいい」
もう庭に出歩くことさえ叶わない彼女は、壁の絵をみて微笑んだ。
「大丈夫。治ったらまたいつでも散歩に行けるよ」
僕は彼女の小枝みたいな指を絡めとる。
「そうね、治ったら――」
僕は無心で壁に絵筆を滑らせた。美しくて可憐な花を咲かせる。陽の光を浴びて、きらきらと輝く花。
彼女はどんどんと弱っていく。僕は何も考えたくなくて、ひたすら庭を作り続けた。
そうして庭が完成する頃。
彼女は泣きそうな顔をして僕の手を握った。
「ねえ、また絵を描いて。今度はここよ」
彼女は胸の下あたりを撫でた。
「またかい――」
「ええ。これが、もう最後だろうって先生が。お願い、綺麗な花を咲かせて」
彼女はベッドに眠ったまま、パジャマをはだけさせた。
彼女を蝕む花。それはもう胸全体に咲くのだった。
「私、あなたの絵が好きだわ」
「ありがとう」
赤くて、黒い。
胸に咲かせた花は、今まで描いたものの中で一番美しい出来だった。彼女の生を最後の一滴まで搾り取って咲く花だ。美しくないわけがない。
「庭も、完成したのね」
「ああ」
壁の絵も、描き切った。
「草木を撫でるそよ風や、かぐわしい花の香りまで感じる。外を散歩している気分だわ。本当に、あなたは天才ね。こんな素敵なお庭で死ねるなんて、幸せだわ」
彼女は微笑んだ。
そしてそのまま眠るように逝ってしまった。
病室の中の美しい庭。
そこに咲く、グロテスクで神秘的な彼女の花。
僕は彼女の髪をそっと撫でた。
彼女の胸に咲く花 橘花やよい @yayoi326
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