第4話 敗者は雨打たれるのみ
いつしか雨が降り注ぎ、ニッキの輿を木陰に避難させるとドルクはそのまま倒れ込んだ。小さな無数の川が彼を苛み、蛭や虫が這いまわり血を啜る。赤子もここぞとばかりに吸血していた。
イエニスの蹴りは勿論、精神的な傷もドルクを責めていた。小沼の王となるなかれ、父の教えを受けていたはずなのに、いざそれに直面すると衝撃は大きすぎた。
だが、まだ心折れていない。
「ぐ……ぐ……」
痛みと水苦の中、ドルクは鍛錬を始めたのだった。混乱に対する、退避行動とも言えた。
さしものニッキも困惑し、止めるように言っても無視され小さな体で縋りついていた。庇護者の狂気が恐ろしく、ついには『貴族』を捨てて子供のままで泣き出した。
「お願い‼ やめて! やだ!」
「ふ……ふ……任せろ、強くなって証明してやる……イエニスに借りを返す……父は最強だ……」
「うん、だから休んで! ケガしてるでしょ⁉ ドルク!」
寒さと吸血に死人の肌を晒しながら、憑かれたように鍛錬を続けるドルクに赤子は頬ずりする。
「いいわあ~、家族は危機を乗り越えて強くなるのさあ~‼」
目を開けられぬほど強くなった雨が彼らの姿を消し、その合間に赤子の奇怪な叫びが縫い込まれるだけになった。
ドルクを正気に戻したのは、ニッキの風邪であった。縋りつき呼び掛けていたせいで、ただでさえこれまでの逃亡劇で消耗していた少女の体は容易く病に噛みつかれたのだ。
慌てて雨宿りと火おこしの準備をしようとしたが、脇腹の痛みと冷えが頑強な彼をして休憩を求める程の責苦を課している。愚行を嘆きながら、どうにか小降りになり始めた雨を防ぎ火を起こす頃には立つことすらできなくなっていた。
ニッキの濡れて氷のような衣服を脱がし、蝋人形のような肌に張り付いていた蛭や虫を除いてやる。この娘をこうしたのは自分である、その悔恨が彼に杜撰を許さない。
持ち出した食糧で消化に良い料理を作る、父の教えは生き抜くための技術でもあった。石を焼き、乾いた服で包んで少女の暖を取る。
彼女がどうにか血色を取り戻すと、ようやくドルクは息を吐き出した。背中の赤子が水を差すように噛みついて吸血する。
「ん~、パパンっておいちい!」
「お前は病気を治したりはできないか?」
「あたいは『敵の天敵』に成長するだけよ~ん! 傷つけ壊し殺すしかできないの!」
ドルクは温かい汁をニッキに少しづつ飲ませる。少女はすぐに眠り、ドルクは火を絶やさぬように起きているしかなかった。
赤子はドルクの敗北と病へ追いやった傷心が嬉しいのかしきりに煽り立てた。
「やり返すのパパン? 手も足も出なかったのに? あたいを使って暗殺する? きひひっ」
「鍛えて今度こそ勝つ……俺がまだ未熟なだけだ」
「死ぬまで未熟だったで終わらなきゃいいねえ~」
流石に腹を立てて赤子の鼻を摘まもうとしたドルクであったが、空しく指は空を切るばかりであった。
「お前の名前は『腹立たしい(アグウ)』にしてやる」
「ああん、嬉しい~。ますますパパンを愛しちゃう」
赤子はけたたましく嘲笑した。
相手にするだけ徒労の極みとドルクは無視して石を拾い、剣に乗せて焚火で炙る。これを布で包めば暖房の効果があるのだ。
と、剣に石を乗せる彼の手が止まり、熱せられたそれを火傷も厭わず握り込んだ。
「追手だ」
「あん? やっぱり殺しに戻ったの?」
「いや、足運びが粗雑すぎる……」
ややあって、その者らは姿を現した。
簡素な雨具と抱えた農具で、名乗らずともドルクは彼らをニッキを襲っていた者たちの縁者と察する。原因がイエニスらにあるか否かはわからないが、『貴族の残党』を狙っているのは確かだった。
ドルクは疲れていた、話し合いをする気力もなく、ニッキを襲わんとしたときの醜悪さがまだ記憶に新しい。
鞭打って立ち上がり、痛む脇腹を無視し石をつぶてにして彼らへ投げつけた。新たな襲撃者たちはそれだけで腰を抜かし、木の幹に易々食い込んでいった石を見て、我先に逃げ出した。
疲労が激しくドルクを襲った、勝利ではあるが、父と彼が望みしものではない。
「……まだ、未熟なだけだ」
未熟が死まで続くのでは。生まれて初めてドルクはその恐怖に苛まれていた。
と、反射的に剣に手が伸びる。近くにまた何者かがいる。
「おっとっと……よして、やり合う気はない……」
敵意を否定するためか、その人影はわざわざ迂回して真正面からドルクたちへ歩み寄ってきた。
現れたのは『我ら』の中にいた少女であった。
短い銀髪で、耳に大きな飾りをつけている。しなやかで筋肉質な体躯をし、デュオンよりも濃い肌を惜しげもなく見せる露出度の高い服で何かの皮でできているらしく雨を弾いていた。
背負っているのは長い棒で、先端が鉄で塗り固められ柄には滑り止めが施してある。
眉毛が太く、猫を思わせる目も相まって肉食獣の雰囲気が強い。恐らく実年齢は見た目よりも若かろうと思われた。
「こっちも仕事、まあ、仲良くやろうやドルク」
外見からは想像しがたい軽い態度で少女はおどけてみせた。
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