ピアノとバラフォン
増田朋美
ピアノとバラフォン
ピアノとバラフォン
今日も相変わらずさわやかというか、澄んだ冬ばれだった。この時期になってやっと、霜が降り、いけに氷が貼るほどの寒さになった。暦の上では、もうとっくに冬は終わって春が始まろうという筈なのに、とにかく真冬のような寒さが続いていた。若しかしたら、余りにも夏が長すぎて、短い冬が、今になってやっとやってきたのかもしれない。
そんな中、製鉄所では、ブッチャーが、一生懸命水穂さんにご飯を食べさせようと、奮戦力投していたのだが、いずれも空振りに終わっていた。駅員の仕事をし終えて、由紀子が見舞いにやってきた。彼女が四畳半にいくと、ちょうど、ブッチャーが、水穂さんの口元へ、お匙を近づけていた所だった。いずれにしても、水穂さんは、顔を背けたり、かけ布団で顔を隠してしまったり。ブッチャーのピッチングは全くミートしていなかった。
「水穂さん、どうして何も食べてくれないんですか。これは本当に白がゆで、チキンブイヨンも鮭も何も入れていませんよ。だから、当たる心配はありませんってば。だから、お願いしますよ、一口でいいですから、食べてくださいよ。」
そういうブッチャーに、由紀子も心配そうな顔になって、
「本当ね。何日ご飯を食べないでいるのかしら。このままだと脚気になっちゃうわよ。」
と、ブッチャーに言った。
「脚気どころじゃありませんよ。水穂さんいいですか。人間は、ご飯を茶碗一杯分食べて得たエネルギーを、一日で使い果たしてしまう動物だそうです。だから、一日三食食べないと、エネルギーを補えないんですよ。食べないと大変なことになっちゃいます。ね、頼みますから、食べてもらえないでしょうか!」
由紀子のセリフを受けて、ブッチャーが、そう言って付け加えたが、水穂さんは、ご飯を食べようという気にはならないようで、顔をそむけたままだった。
「一体どうして、食べないのかしら。最近、また、調味料が原因で、発作を起こしたの?」
「いやあねえ、そういう事はないですよ。確かにね、今の食べ物は、科学物質の入ってない食べ物何てありませんから、多少当たったことはありましたけどね。俺たちがびっくりするような、大きな発作を起こしたことはありません。先週くらいからですかねえ。俺たちが、食べ物をあげたら、また食べる気がしないと言い出して。」
ブッチャーはお匙をお皿に戻して、困った顔をして頭をかじった。
「そう。当たって怖い思いをしたという事でもないのね。最近、気候も安定しないし、それだけでも疲れているのかしら。でも、そんなの理由にならないわよ。弱っているから、気候とか世情とかについていけないというのはあるかもしれないけど、それのせいで、ご飯を食べないというのは、ちょっと問題だわ。」
「まあねエ、帝大さんの話だと、精神的に不安定になったりひどく落ち込んだりすることもあり得ると言っていたが、ここまで食べないとなあ。誰か、俺たちに代わって、食べ物のありがたさを語ってくれる人はいないんだろうか?」
由紀子がそういうことを言うと、ブッチャーもそれに同意する。二人が、お互い顔を見合わせて、あーあ、とため息をつくと、布団の方から、咳き込んでいる声がした。咳き込んでいるのは水穂さんだ。ブッチャーが急いで枕元に在ったタオルをとり、水穂さんの口元へ付けてやると、タオルは直ぐに朱に染まった。
「もう、どうするんですか。水穂さん、ほら、おきれます?こういう時は寝ているより、座った方が、吐き出しやすいですよ。」
ブッチャーはそう言って、水穂さんの体を布団のうえに起こしたが、水穂さんはふらふらと布団の上に倒れそうになってしまう。急いで由紀子がそれを支えて、倒れ込んでしまわずに済んだ。
「ほらあ、ご飯を食べないからそういう事になるのよ。食べないから、そうやって体を支えられないじゃないの。」
由紀子は水穂さんの背中をさすって、吐き出しやすくしてやりながら、そういうことを言った。
「だけど、これだけ食べ物がある時代に、食べる気がしないというのは、一寸、わがままでもあるなあ。でも、俺たちじゃ、食べ物のありがたさ何て伝えられないよ。だって、俺たち、食べ物がないせいで、苦労したことなんて一回もないだろ。そういうことを伝えるのなら、よっぽど偉い人か、苦労している外国人に伝えてもらわなきゃ。」
ブッチャーは、口もとについた、血液をふき取って、再び布団のうえにねかせてやりながら、そういう事を言った。由紀子は、吸い飲みをとって、中身を水穂さんに飲ませてやる。この中身は、眠気を催す成分があるらしく、飲めば水穂さんは静かに眠ってしまうのだ。これでまた夕方まで目を覚まさないぞ、ご飯の機会を逃してしまった、と、ブッチャーは、あーあ、とため息をついた。
「俺たち、どうしたらいいんだろう。」
「さあねエ。こういう時は、また食べる気になるまで待つしかないんじゃないかしら。」
由紀子は、半分あきらめているような顔で、かけ布団をかけてやった。そういう顔をしている由紀子さんを見て、ブッチャーは、なんとかしてやらなくちゃいけないな、と思い、またため息をつく。
その日。ブッチャーは、重い頭を抱えて、製鉄所を出た。製鉄所前の道路を歩くよりも、バラ公園を突っ切っていく方が早く家にたどり着くのは、知っている。そこでブッチャーは、バラ公園に行った。隣に遊園地があって、そっちは人でにぎわっているが、このバラ公園に来ている人は、数えるほど少ない。来ているのは、お年寄りと、遊園地に行けない障害者ばかりである。
ブッチャーが、バラ公園の中を歩いていると、近くにあった桜の木の下から、何か不思議な音色が聞こえてきた。なんだか、マリンバのような音色なのだが、ところどころ、スネアドラムのような、びりびりした雑音が混じっている。曲は、今の季節にぴったりの桜桜なのだが、この音色で聞くと、既存の桜桜とは違った曲のようだ。
「お、何の音だろう。」
ここでストリートミュージシャンがライブをすることはよくあるが、こんな音色は初めて聞くな、と思いながらブッチャーは、その音の方に行ってみた。すると、一人の男性が、レジャーシートに正座で座って、なにかを撥でたたいているのが見える。そのたたいているのは、確かにマリンバのように、木の板を規則正しく並べてあるのだが、なぜか、その板の下に、大量の瓢箪がぶら下がっていた。これが共鳴して音になるらしいのだが、なぜ、瓢箪なのか、ブッチャーもわからなかった。
桜桜の演奏が終わると、ブッチャーは、にこやかに笑って、拍手をした。
「どうもありがとうございます。」
と、男性が言った。その言い方からすると、かなりの訛りがあって、日本人ではないという事がわかった。
「いいえ、こちらこそ。素敵な音色をありがとうございました。あの、これは、なんという楽器なんですかね?」
ブッチャーがそう聞くと、
「ええ、バラフォンです。」
と彼は答えた。
「バラフォンね。聞いたことのない楽器だな。では、もう少し聞いていこうかな。次の曲は何ですか?」
ブッチャーがまた演奏家に聞くと、
「次は、皆さんもご存知の潮騒のメロディーです。」
と、不正確な発音で彼は答えた。
「おお!あの曲ね。それでは、お願いします。」
と、ブッチャーはまた拍手をした。彼は再び撥を取り上げて、では行きます、と演奏をしようと試みたが、ふらふらと後ろに倒れてしまった。お、おい、どうしたんだよ!とブッチャーは急いで彼をかかえ起こしたが、その体がものすごく熱いことに気が付く。
「おい、大丈夫ですか?何か具合の悪いことでもありましたか?」
そう聞くと彼は、頭が、頭が、という。じゃあ、病院に行ってみますかとブッチャーが言うと、五円しかない、という彼。はあ、風邪でも引いていたのかなあと、ブッチャーは彼を背中にせおった。アイテムのバラフォンは、彼が近くに置いていた、リヤカーに乗せて、それをそのまま引いて、移動する。
バラ公園を横切って、暫く道路を歩くと、杉ちゃんの家に来た。ブッチャーは、ここなら、空き部屋がありますからね、と、杉ちゃんの家のインターフォンを押す。
「おーい、杉ちゃんいるか?ちょっと、難儀している人がいるんだ。空き部屋貸してあげてくれないかな?」
「ああ、ブッチャーか。いいよ、入れ。」
ブッチャーが、インターフォンに向かってそういうと、杉ちゃんの声がそう聞こえてきたので、すぐにドアを開けて、中に入った。
出迎えてくれた杉ちゃんに、ブッチャーは、バラ公園でバラフォンという楽器を弾いていたが、どうも風邪を引いていいる人みたいだと説明した。杉ちゃんも納得して、じゃあ、家の空き部屋を使おう、と言い、ブッチャーは、彼を空き部屋に連れて行って、空き部屋の布団にねかせてあげた。布団をかけたり、氷枕を用意してやることは、杉三がした。うまいもん作ってやらなきゃな、なんて言いながら杉ちゃんは、急いで台所にいく。こういう風に初対面でも友達みたいに接することができるのは、杉三だけだった。ブッチャーも、今日は、病人の世話ばかりしているな、と、ため息をつきながら、食堂に戻る。
「杉ちゃん悪いねえ。食事まで作ってくれて。」
ブッチャーがそういうと、
「いいやあ。気にすんな。困ったときはお互い様だよ。栄養を取らなくちゃ、助け合おうぜ。」
と、杉ちゃんは、とりあえず、炊飯器からご飯を取り出して、鍋に入れた。そして、てばやく出汁の元を入れて、おかゆを作った。
「はじめは、具材のないかゆのほうがいいだろう。熱が下がったら、野菜入りのかゆとか食わしてやろう。」
杉ちゃんは、そう言って、車いすにお盆をのせて、出来上がったばかりのおかゆの入った皿をのせ、空き部屋へ行った。
「あーあ。水穂さんがこういう風に素直に食べてくれたら、いいのになあ。本当に水穂さんときたら、何も食べないんだから。」
ブッチャーが、その様子を見ながらそういうことを呟くと、杉ちゃんが顔色を変えて、食堂に戻ってきた。どうしたんだよ、杉ちゃん、とブッチャーが聞くと、
「ちょっと、帝大さんを呼んできてくれないか?あいつ、様子がおかしいんだ。」
という。
「様子がおかしいって何が?」
ブッチャーが聞くと、
「ああ、毛布をいくらかけても寒くてたまらないと言っている。いくら今日が寒くても、エアコンをかけて、毛布を三枚かけても寒いなんてあり得る話か?」
と、杉ちゃんは答えた。ブッチャーが、意識はあるかと聞くと、うん、口は利けると杉ちゃんは答えた。でも、そんなに寒さを訴えるのなら、風邪にしてはひどすぎる話だ。ブッチャーも、帝大さんを呼んだほうがいいなと思って、すぐに帝大さんの電話番号を回した。
帝大さんこと、沖田先生はすぐに来てくれた。こういう風に、必要な患者さんがいると、すぐに来てくれるのも、老医師の特権だ。今の医師では、まだ診察中とか、難癖をつけることが多いので。杉ちゃんの案内で、すぐに空き部屋へ行き、患者さんを診察する。帝大さんが、熱はいつ出ましたか?と患者に聞くと、三日前に、おなじような熱が出たが、すぐに治まったので、大丈夫だと思った、と彼は答える。
「はああ、なるほどね。しかし、日本の現代社会で、瘧熱にかかった人は、久しぶりに見ました。」
帝大さんは、感慨深そうに言った。
「瘧熱だって。もう、大昔にはやった感染症じゃないかよ。」
ブッチャーは呆れてしまった。確かに、瘧熱は、戦前までには良くはやっていたらしいが、今は全く患者は見られないといわれる感染症である。しかし、海外では、よくあるものらしい。日本語の発音が不明瞭であることから、彼はそういうところからやってきたんだという事がうかがえた。
「するってえっと、瘧熱が重症化することはあるんですか?」
ブッチャーが聞くと、
「ええ、タイプによりそうなることもありますが、熱の間隔が三日なので心配はありません。抗生物質がちゃんと聞きますから、薬を飲んで寝ていればいいのです。」
と、帝大さんは処方箋を書いた。ブッチャーは、それを受け取って、近くのドラッグストアへ直行する。もどってきたブッチャーは、帝大さんに指示された通りに、薬を彼に飲ませた。かなり強い薬だったらしくて、一時間ほど経つと、彼は、すこし落ち着いたらしく、暖かくなって来たといった。これを見届けて、帝大さんは、体に気を付けてね、と言って、帰っていった。
「あーあ、よかったあ。俺、どうすればいいのか、わかんなくて、困っちゃったよ。」
ブッチャーが急いでそういうと、
「あの、手当てして下さってありがとうございました。本当に、なんといっていいのかわかりませんが、うれしかったです。」
と、患者が言った。
「いやあ、そういえばいいんだよ。ありがとうございましたで、十分さ。」
杉ちゃんは、にこやかに言った。
「でも、本当に申し訳なくて、お礼しないといけないですよね。」
という彼。何だか日本人以上に丁寧だなとブッチャーは思ってしまう。
「ところでお前さんの名前なんて言うんだ?」
と、杉ちゃんが聞いた。これはブッチャーも聞きたいところだった。
「はい、キュイです、正式には、カーリー・キュイと言います。」
「キュイさんね。僕の名前は影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。こっちは、親友のブッチャーね。」
自分の本名を紹介されなかったブッチャーは、一寸嫌そうな顔をしたが、キュイとなのった男性が、頭を下げてくれたのでそれはよかったと思った。
「で、何処の国から来た?」
「はい、ガオです。」
杉ちゃんに聞かれて、キュイはそう答える。
見当もつかないところだ。
「そうじゃなくて、何処の国から来たのかを聞いているんだ。」
杉ちゃんにもう一回聞かれて、キュイは、マリと答えた。それでも、ブッチャーはどこにあるのか見当がつかない。
「そうか。あの、コラという楽器で有名な国家だね。で、そんなところのやつがなんでこんな狭くて寒い、日本に来たんだよ。」
と、杉ちゃんが聞くと、キュイは、戦乱から逃げてきたと答えた。ブッチャーが、急いでスマートフォンを出して調べてみると、マリは西アフリカにある国家であることが分かった。さらに、現在に至るまで、内紛が続いており、戦争状態であることもわかった。たぶん、彼もそこから逃げて、この日本に逃げてきたという事だ。縁起でもない人を助けてしまったものだ、と、ブッチャーは思ったが、ここである事を思いつく。
「そうだ、この人なら、水穂さんを説得してくれるかもしれないぞ!」
ブッチャーは、思わず口にしてしまった。
「説得って何がだ?」
杉ちゃんにそういわれて、ブッチャーは今日製鉄所であった顛末を話した。よほど食べ物に困っている人でなければ、水穂さんが食べる気になるような説得は難しいと。
「なるほどねえ。確かに、それは問題だ。こういう奴であれば、うまいことやってくれるかも知れないよ。」
杉ちゃんもブッチャーに同情する。ブッチャーは、キュイに、熱が下がったら、一寸、俺たちと一緒に来てもらいたいところがあるんだが、と、話を持ち掛けた。キュイは、助けていただいたお礼なら、何でもしますといった。そこでブッチャーは、水穂さんの事を話して、どうしても食べ物を食べないので、なんとか食べるように、食べ物のありがたみを語ってもらえないか、とお願いした。キュイは、初めのころ、そんな事できるかなという顔をしていたが、ブッチャーの真剣な懇願に、しまいには分かりましたと言ってくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ、お願いします!」
ブッチャーがスマートフォンで調べた結果では、マリというところは、戦争が絶えない、大変貧しい国家であるようだ。そういう事であれば、水穂さんの子供時代の貧しかったことだって、きっとわかってくれるのではないかと、ブッチャーは直感的に思う。唯、それは口にはしないで置いた。
数日後、キュイの瘧熱は、完全に回復した。やっぱり帝大さんの言った通り、たいした病気ではなかったらしい。彼は、日本では、こんなに簡単に治ってしまうのは申し訳ないといった。マリでは治療法がなく、どんどん、瘧熱で死亡してしまうという。そういう事からも、ブッチャーの予想は、確実になるのではないかと思われた。そこでブッチャーは、作戦を実行に移すことにした。キュイにお願いして、自分と一緒に、製鉄所に行ってもらう。タクシーというか、自動車に乗ったのは生まれて初めてで、ちょっと怖いですね、何て彼は笑っていた。
そうこうしているうちに、製鉄所に到着した。製鉄所には管理人である、ジョチさんこと曾我正輝さんが、二人の来るのを待っていた。キュイは、ジョチさんにも丁寧に名前をなのり、マリの戦闘から逃げてきたこと、今は路上でバラフォンを弾いて、生計を立てているという事を話した。ここまではブッチャーの予想通りだった。しかし、ここまでであった。
「そうですか。では、ご実家は、グリオの家系だったんですか?バラフォンを弾いていたとなりますと。」
ジョチさんが廊下を歩きながら、そういうことを聞く。
「ええ、そうです。体が小さいので、コラではなく、バラフォンの担当になりました。」
発音は不明瞭だが、キュイは、そう答えている。
「日本語はどこから?」
ジョチさんが聞くと、
「学校で習いました。短い生活でしたけど、なんとか覚えてます。」
と答える。何!学校へ行っていたって!とブッチャーは驚いた。
「そういう家系だから、学校へ行かせてもらったんです。他の子は、みんな家を手伝ったり、兵隊にとられたりしていましたけど。」
「ちょっと待ってください。そういう家系ってどういうことですかね。此間、すごく貧しい国家だったって、言ってたじゃないですか?」
ブッチャーがそういうと、
「何を言っているんですか、グリオと言ったら、代々世襲されている立派な職業ですよ。バラフォンを弾く人をそういうんですが、いってみれば、音楽家兼僧侶みたいなものですよね。音楽をして、神に祈りをささげるというのが、仕事でしょ。周りの人から結構尊敬されていたのではないですか?」
と、ジョチさんが言った。ああ、俺はなんという勘違いをしていたんだろう!とブッチャーは思う。そういう家系なら、貧しいなんてことはなく、権力もあり、実力もあったのではないか。事実はまるで、正反対なのではないか。と、ブッチャーはがっかりと落ち込んだ。
「ええ。でも、それは私の父の話で、私は、そんなことありません。私は、たいして演奏技術があるわけじゃないし、アルビノなので、正式な音楽家にもなれませんでした。」
そうか、それで黒人という感じがしなかったのか。と、ブッチャーは考え直した。確かにアルビノは、どこの世界にも、差別的に扱われてしまうというが、ブッチャーはそこまでは知らなかった。
「じゃあ、お願いして頂けますか?僕たちも、もう水穂さんには、非常に困っているので。」
と、ジョチさんは、彼にお願いした。ブッチャーは、もう望みはないな、また空振りに終わってしまうのか、と、がっかりとした顔をしていたが、キュイは、わかりましたと言った。
「それでは、お願いします。」
「はい。」
ジョチさんに言われて、キュイは、四畳半の引き戸を開ける。
「こんにちは。」
不明瞭な発音に驚いたのか、水穂さんはすぐに目を覚ました。キュイは、まず、自分の名を名乗り、ブッチャーと杉ちゃんに命を助けてもらったことを語る。しかし、水穂さんはこういうのであった。
「其れが何だというのですか。それが出来たのは、あなたが、外国の方であったからでしょう。僕たちは、日本では、二度と日の当たるところには出られない、そういう身分なんです。」
「そうでしょうね。」
とキュイは言った。
「何処の世界でも、階級というモノはありますよね。」
「ええ。ですから、あなたも、どうせそういう事を言いに来たんでしょう。誰でも生きる権利があるとか、そういう事ですよ。バラフォンを弾いてらっしゃるわけですから、そういう恵まれた階級のかたですよね。でも、僕たちは、そういう方の助言なんて、全く役に立たない身分なんですよ。だって、生きていたら、いけないといわれ続ける身分なんですから!」
水穂さんは、そう言ったが、キュイはこう返した。その目は、鯨みたいに優しい目だった。
「それは知っていますよ。私たちも、そういうことをいくら言っても、聞いてくれない人にお会いしました。でも、あなたは、心配してくれる人がたくさんいるじゃありませんか。あなたの事を、心配して、私を呼び出した人がいるじゃありませんか。私たちは、みんなつながっています。世界のどこかから切り離されるというのは、あり得ない話なのです。」
「でも、それだって、高尚な身分の人でなければ得られませんよね。」
水穂さんがそういうと、
「いいえ、そんな事ありません。高尚な身分であろうとなかろうと、誰かとつながっているという事は出来ます。それは、人が人を思いやる気持ちなんじゃないですか。それに、身分なんて、関係ありません。あなたもそうなっているから、ほかの友達が心配してくれるのです。」
と、キュイは、聖職者らしくそういう事を言った。やっぱり、そういうことを言える人は、高尚な人でないと言えないとそれを聞いていたブッチャーは思った。でも、これがブッチャーの一番言ってほしいセリフでもあったから、思わず涙を流してしまった。
「どうせなら、バラフォンとピアノで何かやってほしいなあ、、、。」
ブッチャーは、そうつぶやいてしまったのであった。
ピアノとバラフォン 増田朋美 @masubuchi4996
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