異端少女録

南高梅

彩河依月は再度死ぬ 1

「彩河さん、もう私の力では無理ですよ。」

「はぁ。それなら、どこを受診すればいいんですか?」

「家鴨川沿いにある精神科の専門病院なら……」

「先生、私はそこの病院から『手に負えない』と言われたからここに来ているんです。」

 とある大きな大学病院の精神科の診察室。

 真面目な顔をして困っている少女と、頭を抱える医者がいた。

「私としては正直ね、彩河さんに病名を付けるのは間違いなんじゃないかと思うんだよ。」

「でも、どこへ行っても言われましたよ。『あなたの症状は統合失調症です』って。」

「確かに君の体験する幻覚は統合失調症のそれによく似ている。しかしね、どんな処方をしても、どんなカウンセリングを受けさせても、いい方向にも悪い方向にも変化しないというのはおかしな話なんだ。」

 彩河依月は悩んでいる。自身が体験する「幻覚」に。

 それは恐ろしく鮮明で、現実的。


「あっ」


 ガラガラ、ドン!と大きな音を立てて男性患者が診察室に入って来た。

「いつまでタラタラ喋ってんだよこのクソアマ!そこのボンクラハゲもだよ!俺はもう3時間待ってんだ!後の事を考えろ!」

 暴れる男性患者は受診中の彩河依月に掴みかかり、頭を殴る。それを止める医者の首を掴み、壁に押付けると医者の顔はみるみるうちに赤くなっていく。

 その場から逃げようとする彩河依月を男は逃がさない。

 顔面を踏みつけ、聞き取れないようなろれつで何かを叫び続ける。

 ガン、ガン、ガン

 医者の頭を壁に叩き付ける音が響く。

 その度にグリグリと踏みつけられ、この場にいる者では対抗のしようがない。

 異変に気付いた看護師数人が診察室へ駆け込んでくる。

 新たなターゲットを見つけた男は彩河依月の頭を蹴り飛ばし、看護師を襲わんばかりにのしのしと歩く。

 蹴飛ばされた頭はスチールラックの角に当たり、その衝撃で文房具が机から落ちる。

 運が悪い事にハサミがちょうど首元に降ってきてしまった。

 踏まれた痛み、蹴られた痛み、ぶつけた痛み、刺さった痛み。

 痛みに苦しみ呻きながら、彩河依月は意識を手放した。


「先生、そういえば、今日は佐藤さんの診察、入ってますよね?」

「えっ?まぁ、うん。守秘義務的な事を考えると本当は言っちゃいけないんだけど、待合室にいるの見たならわかるよね。」

「佐藤さん、今日はだいぶ荒れてるみたい。私の続きは後でいいから、先に佐藤さん、診てあげて。」

 ズキズキと痛む感覚はある。

 しかし、彩河依月本人はそんな痛みを発生させる傷は負っていない。強いて言えば昨日やった裁縫で指に針を刺したが、血すら出ない程の軽微な傷だ。

「いや、でも診察には準備があるから。彩河さんも今日は3時間待ちで大変だったでしょう?」

「いいから。私連れてきます。」

 医師の制止を振り切り彩河依月は診察室を出る。目の前の待合室には、イライラとした様子で激しく貧乏ゆすりをする男性患者の姿があった。

「ごめんなさい。長引いてしまって。お詫びに私と順番を入れ替えてもらいました。先生の許可は取ってあります。さぁ、中へ。」

 彩河依月は男性患者にそう告げる。

 男性患者は狼狽しながら、診察室へと入っていった。

「また、か。」

 ぎゅうぎゅうの待合室の、さっきまで男性患者が座っていた場所に彩河依月は座る。さっきまでそこにいた人間の温もりが伝わってくる。

「小さい頃は超能力だと思ってた。だけど、両親は現実的な人だから、いつまでも空想の世界にいる私を心配して病院に行かせた。だけど、私の空想癖が治らないって嘆いてる。私は本当に病気なのかな。」

 何度この問を頭の中に浮かばせても、答えなんて出てこない。

 しかし、この幻覚が幾度と無く彼女の命を救った事は間違い無いのだ。

「予知能力…とはちょっと違うか。私に見える範囲の事しかわからないし。」

 精神科を受診している事は友達のみならず、教師にも話していない。

 この幻覚は、ただ自身が辛いだけで、誰にも迷惑をかけない……それどころか、誰かを救う事の方が多い。


「あっ」


 待合室でよく見る中学生の男の子。今日はおばあちゃんが付き添いでやって来ていた。しかしその場でおばあちゃんは嘔吐し始めた。

 酸の臭いが待合室に充満し、つられて吐き気をもよおしている様子の人も何人か見受けられる。

「だから僕は大丈夫って言ったのに!おばあちゃんだってノロウイルスなんでしょ!?いくらお母さんやお父さんよりは酷くないからって、無理しちゃダメだよ!僕は我慢できるから……」

 院内感染、パンデミック。このウイルスは凶悪だ。何故って、このウイルスは数日後に報道されるからだ。飛び散った吐瀉物は近くの患者の衣服に染み付く。それが移動時に拡散され、院内どころか県内まで広がる。近くにいた彩河依月だって例外ではない。彩河依月は満員電車で帰宅する。その車両に乗っている人間はみんなアウトだ。


「看護師さん、すみません。」

「どうされましたか?」

「あそこに座ってるおばあちゃん、調子悪いみたいです。様子見てあげてもらってもいいですか?」

「わかりました。」

 看護師はおばあちゃんの近くに駆け寄る。小さな声で何らかの受け答えをした後、彼女は処置室へ運ばれて行った。

「吐瀉物で窒息死……苦しいのはやだな。」

 実は見えている光景はこれだけではない。

 あの男性患者が付き添いのおばあちゃんに苛立った光景も見えたし、別の患者に殴りかかっていた光景も見えた。

 おばあちゃんはトイレに行ったものの便器まで我慢ができず手洗い場で吐いてしまい、そこから感染が広がった光景も。

 彩河依月には、「今見えている光景」以上に、「もしもの光景」が見えてしまう。

 そしてそれには往々にして「誰かの死」が関わるのだ。それは彩河依月本人であったり、その近くにいた誰かであったり。

「『いつきちゃんは観察眼が鋭いね』って小学生の時に言われたっけ。百歩譲っても、もし私が周囲を観察することに長けていたとしても、ここまで色々な可能性を考え出せる程頭の回転が速い訳じゃない。きっとこれは、何かの間違い。」

 ふとかばんの中身を思い出した。彩河依月のかばんの中には、今日貰ってきたばかりの成績表が入っている。

「成績表……か。私にとってこれは、そんなに重要なものとは思えないのだけど。」

 体育以外の評価は全て5。最高水準だ。体育だけは3であり、標準的な評定と言える。

「実力で勝ち取ったなら価値はあるのかもしれないけど、私はそんなんじゃない。」

 もっとズルい性格だったなら、もっと悪知恵の働く性格だったら、と考えてしまう。

「サイガさーん。サイガイツキさーん。診察室2番にお入りくださーい。」

「はい」と返事をし、再び診察室に入る。

「佐藤さん、禁断症状が出ちゃってたみたい。彩河さんが指摘してくれなければ手遅れになってたかもしれない。ありがとうね。」

「いえ、私は少しでも苦しむ人が減って欲しいと願っているだけですから。」

「ははは。君は……」

「将来いい看護師になれるよ、ですか?私は看護師にはなりませんよ。」

「敵わないなぁ。」

「次の診察はいつも通り来月ですよね?」

「そうですね。9日の今日と同じ時間で。」

「わかりました。」

「処方箋も出てるからね。内容が変わっているから、異変に気付いたらすぐに病院に連絡して。」

「はい。わかりました。ありがとうございます。」

 お辞儀をし、彩河依月は診察室を出る。

「あ、そうだ、先生。」

「ん?どうしたんだい?」

「窓ガラス、曇り防止にも飛散防止にもなりますから、保護フィルムを貼るといいですよ。」

「ああ、そうだ、やろうと思って忘れていたんだ。思い出させてくれてありがとう。」

「また来月、お願いします。」

 診察室の窓ガラスからは、真横にある高校のグラウンドで野球をする生徒達の姿が見えていた。

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